この子に流れる血の色も 前編

『姫海棠はたて』
【昼】C-3 霧の湖のほとり


殺人。
人が人を殺すこと。
他者の命を奪うこと。
もちろん知っている。

言うまでもなく、原則的には禁じられている。
多分、ていうか、ほぼ間違いなく、外の世界のどの地域でもルール違反も違反。大罪だ。
知ってるよ、それくらい。

じゃあ妖怪は?
妖怪が人間を殺すこと。
または人間が妖怪を殺すこと。
それは、果たして殺人という枠に当てはまるか。

当てはまらない。
少なくとも幻想郷では、『事故』として処理される。
ここに“妖怪”と“人間”の絶対的な壁がある。
妖怪も人間も、それぞれ独立した形態で生き、法律を作る。
規律が囲いを形成し、秩序を生み、統率が成され、そこで初めてバランスとして成立する。
私たちの法が交じることは、普通ありえない。一個の囲い同士が交じり合うと、バランスが傾くからだ。
類似点や共通点も多いとは思うけど、社会性や種族概念が根本的に異なっている。理解し合える訳がない。
ましてや私たち鴉天狗は、『集団社会』に重きを置いて成り立っているんだから。
近年設立された『命名決闘法』は、人と妖がより互いに近づける為への救済措置だけど、アレだって異種族が仲良しこよしやっていくルールというわけじゃない。
頭のお堅い上層天狗の連中たちは、寧ろ煙たがっている節すらある法律だもの。

よーするに、妖怪と人間の間には乗り越えようのない、本質的な価値観の違いがあるってこと。
だから妖怪が人間を喰おうが、人間が妖怪を退治しようが、基本的には罪にはならない。
とはいえ、幻想郷という枠組みの中でそうした『不和』をもたらせば、両者のバランスが崩れかねない懸念もある。
ので、『罰』はある。罪にはならないけど、キッチリ罰が返ってくる。それが仕組み。
罪を犯すから罰なのではないのか、なんて禅問答は別の誰かとやってほしい。

話、ズレちゃったけど……今は、私の問題に向き合いたい。
さっきは妖怪が人間を殺しても殺人にはならないって言ったけど、ここでは便宜上、殺人って言葉を使わせてもらうわ。
妖怪社会では、『殺人』は必ずしも『罪』にはならない。これは当たり前の常識なんだけど。
じゃあ私が殺人……つまりは『人間』を襲ったことがあるかと問われたら。

程度の差はあっても、人間や妖怪の命までを奪った経験は……無い。

殺人が罪になろうがなるまいが、無い。
無いんだ。私は誰かを殺した経験なんて一度たりとも無い。

ほんとだよ?

私には、誰かを殺した経験なんて無いよ。
このゲームに巻き込まれてから、新聞記事で間接的に煽りまくったりはしていたけど、それでも。
それでもこの手を直接汚した経験は……無い。


無いよ、私には。



「―――う、ぇえ……ぅ、うう…………っ」



気持ちの悪い立ち眩みから膝を折って、私は胃の中の物を地面に逆流させた。
さっき食べたおむすびもクチャクチャの残骸になって、全て土の上に戻った。

「う……く、ぅぁあ……っ!」

唐傘の妖怪、多々良小傘が殺された。
邪仙・霍青娥と、トカゲのような生物に変身する人間の男に、殺された。
別に、あの妖怪と親しかったわけでもない。
でも彼女が無残なバラバラの残骸にされたのを目撃した時、私の心には言いようのない澱みが渦巻いた気がした。

誰かが誰かに『殺される』という光景を、私は初めて目撃した。
レンズを通すでもなく、記事写真を通すでもない、間近で見たリアルな現場。
いや、正確には『二度目』か。あの秋の神様が見せしめにされたのが最初だった。
だけど今回のこれは、ちょっと別格だ。衝撃的、なんてレベルを超えてる。


「なに、よ……あの二人……!」


見せしめに殺された最初の神様の時とは、悪意の次元が違った。
そう、『悪意』だ。あのトカゲ男の『悪意』と、邪仙の『無邪気さ』に、私は何より恐怖した。
人の死体くらいは見たことあるし別にどうとでもないつもりだったけど、あの子は死体すら残せずに惨めに殺された。

なに、よ……あの男の、人を人とも思わない、残忍な『悪意』は……!
何なのよ……あの女の、他人を物にしか見ていない『無邪気』は……!

小傘が殺された時、私は遠くで見ていることしか出来なかった。
またとないシャッターチャンスに、カメラを構えることすら忘れる大ポカまでする始末。
惨い光景に気分を悪くした、というよりかは奴らの『殺意』に中てられたのかもしれない。
あまりに他人事のようだけど、誰かの『死』がここまで私の精神を抉るだなんて、想像だにしてなかった。
助けようと思えば助けに入れたけど、それは私の望むところではない。
ただじっくりと激写の瞬間を待ち望んで、胸を踊らせて…………気付いたら、私の身体は震えていた。
襲撃者二人の姿はなく、死体とも言えないような少女の残骸が、悲劇の終幕を伝えて。

新聞とは、世事の『結果』を伝える媒体だ。
朝になると多くの読者が、天狗の発行した数百の古臭い紙に走らせたインクの文字に釘付けとなる。
彼らが求めるのは結果であり、その結果に至らせた『過程』なんぞに目を付ける者は少ない。
私自身も、新聞の善し悪しを決める最上の要素は心踊るネタが生んだ結果なのだと、そう思っている。
誰もが、綺麗に整頓された結果をこそ日々望み、その真実の裏にある穢れた『過程』からは目を背けようとしている。

殺人という『結果』ばかりネタにしようとしていた私が、その『過程』に至る“行為”に向き合った途端このザマだ。


「………………情けない、わね」


そうよ、なんて情けない。
私は何を呆けていたのよ? これこそがずっと求めてきた『スクープ』の瞬間じゃないの?
ちょっとビビッただけでこのザマなんて、本当に情けない。それでも新聞記者か。

「……うん! もう大丈夫! 誰にだって失敗はあるよ」

頬をペシッと叩いて気合を入れなおす。
私が怖がることなんてない。だって彼女を殺したのはあの二人なんだから。
私は関係ないし、これから私の記事が原因でまた誰かが死ぬことになろうとも……それは私が殺すわけじゃない。
私は手を汚さない。殺人なんてやらないやりたくない。
私に『罪』は無い。だから『罰』だって返ってこない。
私が行うのは新聞作りだけ。だから私は……悪くない。
私自ら巫女を陥れる記事を拡散したから、これから沢山の危険人物が集まってくるかもしれないけど。
私は殺さない。
私は死なない。
私は悪くない。
私は撮るだけだもん。
私じゃなく、悪いのはこんなゲームを開催したあの主催者たちだから。
私なら大丈夫。
私なら岸辺露伴に……文にも勝てる。


「私…………これでいいんだよね? ねえ、文?」


撮り損ねた『大スクープ』の写真。
アンダー・ワールドもムーディ・ブルースも、使う気にはなれなかった。過去を遡ってまで、『あの』過程をもう一度鑑賞したいとは思わなかった。
悪意と無邪気。二峰の兇賊が披露した殺人劇は、思った以上に私の心へ精神的ショックを与えたようだ。


ふと、地面に溜まった水溜りが視界に入った。
冷たい雨に頭から打たれながら、笑顔を貼り付けようと努力する女。
孤独でいて、子供みたいな、でもどこか虚しさを感じる笑み。

心のフィルムを焼き付けたなら……きっと私のレンズに映るのは、こんな空虚な笑顔なのかなって。

「……ガンバレ、」

水溜りに反射するワタシの顔は、自嘲するように私を精一杯の空笑いで応援してくれましたとさ。

「……ガンバレ、私」

私に似た声の、そんな幻聴が水鏡線の向こうから響いて。
自然の作ったレンズの向こうで、不自然に笑うワタシが放ったその一言を、私は極めて前向きに受け取った。

頑張らなくっちゃ。道はまだまだ長いんだから。



「顔は洗ったか? 随分と酷いツラだぜ、お嬢ちゃん」



不意に後ろから聞こえた、人の心の真髄を舐め下すような、癇に障った声。
私とて二度も背後を取られるマヌケじゃない。コイツが近づいていた事にはとっくに気付いていた。

「……私、そんな顔してた? ―――ウェス」

「お前はもうちょっとギラギラ燃えるような瞳をしてたと思ったがな。ありゃ気のせいらしい」

「……お互い様でしょ。今のアンタも結構ブザマじゃない」

息を荒くしながらウェスは、拳銃を構えて背後に立っていた。
戦闘の後なのか、服が所々焦げ付いている。何があったか根掘り葉掘りインタビューしたい所だけど、今はあまり時間がない。

「人間の里からここまで一直線に走ってきたんだ。お前を探していた」

「私の記事、見てくれたんだ。じゃあ狙いは巫女たちね?」

「ワケあって急いでいる。面倒になる前に、徐倫より先にトラックに追い付いてターゲットを始末したい。お前、俺を運べ」

運べと来たか。
飛脚じゃないんだから、そういう運び屋みたいなことはなるべくしたくないんだけどな。

「つべこべ言うな、こっちもダメージはある。体力は出来るだけ温存したい。それとも鴉天狗の腕力で持てるのは、箸とカメラだけなのか?」

「…………私はあなたを運ぶだけ。誰に対しても直接危害は加えないし、それ以外であなたを手伝わないからね」

「そーいうのをな、偽善ってんだ。……だがそれでいいさ。ああ、記者ならばとことん薄汚く、恥知らずに生きるべきだ。
 どんな不純な動機だろうが、目的を持って生きていけるヤツは……少なくとも何も持ってないヤツよりかはマシだろう」

虚栄心。利己心。
そんな下品極まる名を冠した火薬袋は、いつの間にか私の重荷となるまで膨らんでいた。
「自分の手だけは汚さない」という、食わせ物の免罪符を懸命に振りかざして、私はワタシに言い訳し続けているのかもしれない。

それでも、仮初にも私を認めてくれたコイツの皮肉ですら、ワタシの心に沈む澱みを清浄してくれるような気がして。


「ねえ。私の書いた記事、どうだったかな。……私、間違ったこと書いてないかなぁ」


純粋に、誰か味方が欲しくなって、肯定を求めた。


「……不安になるってことは、心が迷ってるってことだ。そんな浮ついた気持ちで書くぐれーなら、記者なんて辞めて今ここで死ぬか?」


決して私の為を思って言ったわけではない言葉。
そんな表面だけの言葉でも、消極的になっていた私には支えになるモノだ。


私が私である為に。
新聞記者である私を忘れない為に。
文や露伴に勝ちたい私である為に。

激しくなる雨のつぶてを振り払うように。
ウェスを抱えて、私は再び空を翔る。


「……かっ飛ばすわよ。振り落とされないでね」


その選択の結果が、幻想郷の未来を左右しかねないという現実から目を背けて。



▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
『ジョルノ・ジョバァーナ』
【昼】D-2 猫の隠れ里


雨足が強まってきた。
本降りとなるまであと幾らか。この気候の流れは、現状のジョルノらにとって凶の兆しであった。

「…………ジョルノ、リサリサさん。二人の容態はどう?」

霧の湖をグルリと大きく回って辿り着いたこの荒れた廃墟群の隅、不測の事態に対応出来るようエンジンを掛けたままのトラックが一台。
冷たい雨水は怪我人の身体に障る。先程取り下げたトラックの幌は再び装着され、荷台に座る者を気候から守るように包まれている。
その運転席と荷台に通じる小窓から、トリッシュ・ウナは心配そうな面持ちで後方の仲間に声を掛けた。

「……峠は越えましたが、まだまだ安心できる状況ではありません。彼女らに刻まれたのは、それほどのダメージです」

返答を告げたのはジョルノのみ。無言のままでいるリサリサの表情はサングラスで読み取りにくいが、少なくとも絶望ではない。


博麗霊夢。空条承太郎。
二つの肉体。二つの魂。
“悪”に敗け、それでも屈さぬままに自己を保ち貫いた、少女と青年。

博麗霊夢。空条承太郎。
鮮やかなる紅(くれない)色の魂。大洋が如きマリンブルーの魂。
R(ed) & B(lue)。紅蒼を彩った双つの魂は、弱々しくも確かに此処に在る。

博麗霊夢。空条承太郎。
此処に居るジョルノ、トリッシュ、リサリサは二人をよく知らない。
行き掛かり上で助けることとなった…と説明されたとして、否定することは出来ないだろう。
突如ジョルノたちの前に現れた『F・F』と名乗る珍生物……その彼から、真剣な態度で頭を下げられた。
だから、こうしてダメージを負ってでも助けた。それだけに過ぎない。

ダメージ。
霊夢と承太郎だけでなく、ジョルノたちにとってもこれは果てなく大きなダメージ。
その“実感”を、最初に薄々感じてきたのはやはりジョルノだった。


「…………雨、強くなってきましたね」


一言。
霊夢を治療しながら彼は、ポツリ――それだけを呟いて。
そのたった一言で、運転席のトリッシュが何もかもを察したように動揺し、目を見開き……すぐに顔を俯けた。


ぼたぼた、ぼたぼた。
雨だれが、廃屋の軒から落ち続ける音。


ぽた……ぽたり、と。
それに混じって、小さな小さな水滴音が、トリッシュの哀しみの音色となって切なく響く。


響くは、自らの心へと。
ヒビとなるのも、自らの少女らしい心の外殻だ。
日々の象徴である雨風景は、涙雨となってヒビ割れた心象風景に響かれた。

トリッシュにとっては、この世界での唯一の“日々”と言っていい。
過去の他愛ない記憶のワンピースを繋げ合わせた時間を“日々”と称するのなら。
今確かに、この日々にヒビ割れる音が響いてしまった。
この悪寒が錯覚であったなら、どれほど救われるだろうか。

ジョルノが呟いた『雨』という単語に、トリッシュは一人の少女を重ねた。
自らが『傘』となって、凍え立つ死の雨からジョルノを護ってくれた少女。

その少女の名は―――


「…………小傘は、無事かしら。…………ねえ、ジョルノ?」


涙ぐんだ様子を微塵にも見せまいと、あくまで平常を振る舞い、後方荷台の仲間に返答を促す。


「…………………………………………………」


長い、息も詰まりそうな長い沈黙であった。


「…………ねえ、何とか言いなさいよ」


苛立った感情ではない。
声が……舌が震えているのは、決してジョルノの無言に焦燥を覚えたわけではなかった。


「………………トリッ……、…………いえ、…………きっと無事ですよ、彼女たちも………」


ようやく絞り出したジョルノの返答は、根拠のない浅き希望などではない。
トリッシュにも分かっている。クールなようでいて心優しいこの少年は、“自分”の為に嘘を吐いてくれているのだと。

恐らく、ジョルノはとうに理解しているのだ。
だからこそ、トリッシュに『嘘』を吐いた。それがトリッシュにも分かってしまった。
最初に“実感”したのはやはりジョルノで、そこから感情が連鎖するように、次にトリッシュも“実感”出来た。
隣のリサリサも、察することが出来ている。だから、大人である彼女は何も言わない。何も訊かない。


先程、雨空のスキマに差し込む綺麗な虹が見えた。
望んだ者の目を思わず射止める程に、美しい七色の曲線。天空に描かれた、華やかなアートであった。
アレは、小傘たちが追手を防いでいた方向だ。

その虹はすぐに姿を隠し、次に雨粒が大きくなり始めた。
まるで誰かの涙雨。哀色をまとった、胸がきゅうと締め付けられそうな心苦しい雨だった。

だから何か。
虹が見えた方向が、小傘を置いてきた方向と同じだからなんなのか。
誰かの涙雨? 雨は雨だ。自然現象の一種であり、そこに誰かの感情が混ざり込むなど非科学的だ。
何もかもが『悪い予感』などという、曖昧な波長に惑わされる幻影だ。

トリッシュのそんな最後の冷静な思考も、たったひとつの確かな『事実』に踏み潰される。


ぽた、ぽた……


穴が穿たれた。
トリッシュの歳相応な部分の、『感情』という防波堤に。
頬を伝う涙は、もはや止まらない。


「…………うそは、……やめてよ……っ! いいのよ、もう……私にも、何となく、わかる……から…………っ」


結局の所、トリッシュの予感を実感へと変えたのは、ジョルノの言葉や表情。その僅かな機微が決定打である。


「………………小傘のDISCに与えていた僕の『生命』の破片が、先程…………彼女の魂を見失いました」


事実とは、ただのそれだけである。
小傘の生命を繋いでいた唯一のDISC……言い換えれば、小傘の魂のカケラが、消えた。
生命を操るジョルノのゴールド・エクスペリエンスが、それを悟ったという。すなわち、DISCが小傘の額から『抜かれた』ということだ。
その言葉を引き出したトリッシュの心から、全ての希望は失われた。

「…………う……っ く……ぁ!」

慟哭は止まない。
チャイナドレスを纏った、綺麗な赤髪の女性。彼女が命を賭して守った少女の存在が。
天候を操る謎の男の攻撃から、今度はその少女自身が命を賭してジョルノを守った。
半身を失い、生命の危機に陥った少女は、奇跡的に現世へ戻ってこれた。
そして。

―――私はまだ自分の正しい道も見出しきれない未熟者だけど、前向きで眩しい想いを持つ貴方の様な人に、私の『道』を照らしてほしい!

紆余曲折を経てトリッシュという少女は、『仲間』と認めた少女にこう嘆願した。



そんな彼女―――多々良小傘が、死んだ。



あの時のように仕込まれた『茶番劇』ではない。
「やったわ!すごいでしょ!」と、ピョンピョン跳ねながら屈託なく笑っていた、あの時のような。
他人を驚かすことを生き甲斐としていた、多々良小傘はもういない。

殺されたのだ。
DIOの追手、彼らの悪意に。


殺されたのだ……!


「―――何の罪もない少女を、てめーだけの都合で……ッ!」


いつしかトリッシュの慟哭は、怒りへと変わっていた。


ガンッ!!


トリッシュの座っていた運転席の逆側……助手席が派手な音を立て、壊れ――


ガンッ!! ガンッ ガンガンガンッ!!


壊れ、ない。
何度も、何度も何度も彼女のスタンドにより破壊を繰り返されては、形状記憶合金のようにすぐにまた“元に戻る”。
物体を究極まで柔らかくする『スパイス・ガール』は、トリッシュの気が済むまで破壊が完了することを認めない。
殴っては元通り、殴っては元通り。
彼女の気の済むまで、というのなら、それが訪れることはあるのだろうか。
あるとしたら、きっと。

「ジョルノ……私、奴らを許せない……ッ!」

トリッシュが、仇討ちを成し遂げたその時でしかない。

「…………駄目です、トリッシュ」

怒りを振る舞う彼女に対し、ジョルノはあくまで冷静に断る。
依然、霊夢の治療を止めぬままで、冷静に。

「何でよッ!? 小傘は……あの子は仲間だった! 仲間が殺されてもボケッとしてるのがアンタの信じる『道』なの!?」

「……僕はギャングです。必ず『報復』はします。ミスタと、小傘の無念は絶対に晴らします」

「だったら―――ッ!」

「僕の目指す『ギャング・スター』とはッ! 僕の目指す『道』とはッ!
 たとえ見知らぬ他人であろうとも、受けた『恩』は必ず返すような……人を信じる『心』を忘れてはならないことだ!」

思わずトリッシュがたじろぎ、隣のリサリサも黒いレンズの奥に光る眼差しを動かす。
ジョルノの硬い精神が、覇気が、この曇った場を支配し始めた。

「ここにいる霊夢さんと承太郎さんを、僕たちは知りません。会話だってしたことがない。
 それなのにどうしてここまでダメージを負いながらも二人を助けようとしているか。それが分からないトリッシュではないはずです」

脳裏に過ぎるは、F・Fの姿。
彼にとっては他人でしかない、殺し合いゲームの敵かもしれない初対面のジョルノたちに、F・Fは頭を下げて頼み込んだ。
霊夢と承太郎の二人は大事な人間。死なせたくない大切な仲間であるからだと。
そう言われ、助けて欲しいと必死に縋られた。
そんな彼の目を見て、ジョルノは誓った。約束を交わしたのだ。

必ず助けます、と。

「今ここで、重傷であるこの二人を救うよりも仇討ちの方が重要なのだと言うのならトリッシュ。
 僕は貴方を軽蔑するでしょう。……頭を冷やしてください」

ハンドルを握っているのはトリッシュだ。こうしてジョルノが諭さなければ、彼女は今にも来た道をUターンしかねない勢いであった。
今、最もするべきことを見誤ってはならない。報復ではなく、救うと約束した命を最優先に守る。
それこそがジョルノの信じる光。
幼少時代に出会った名前すら知らない恩人――彼にとっての『ギャング・スター』を裏切らない栄光への道。
『約束を交わす』という行為は、人を信じることなのだと。その信頼を裏切ることは、ジョルノの目指すギャング道を裏切る事に他ならない。

「『殿は任せろ』と、F・Fは僕たちに言いました。つまりF・Fは僕たちに、霊夢さんと承太郎さんの一切を全て任せると言ったのです。
 ならば今、個人の感情に任せてF・Fの意志を蔑ろにする行為は絶対に許しません。……耐えてください」


ガンッ!!


今度はジョルノが拳を叩いた。
治療に使用しているスタンドの腕ではなく、自らの生身で荷台の床を思い切り。

耐えるべきは、己であった。
トリッシュには偉そうに垂れた論説はその実、己の芯にこそ言い聞かせる信念。
力不足。小傘の死は、回避することが出来なかった非業だというのか。
違うはずだ。至らなかったのは、きっと己自身。ジョルノの判断ミス、作戦の失敗こそが仲間の死を招いた。

(すまない、小傘……あなたから受けた恩に報いることは、出来なかった……!)

F・Fとの約束を交わした一方で、多々良小傘という少女に『恩』を返すことが出来なかった。
それはジョルノの失態であり、彼の信念に大きく傷を付けられる禍根となってしまった。
そんな自分が許せない。そういう意味では、ミスタの訃報と今回とでは、同じ仲間の死でも全く意味合いが違う。
ブザマなことだ。この醜態でギャング組織のボスを担っているというのだから。
もしここに頼れるチームリーダー・ブチャラティが居たならば、『F・Fとの仁義を守り』『多々良小傘も守り通す』の両方をやり通していただろうか。
きっと、彼という男ならばそれが可能だった。ジョルノよりも遥かな経験量を持つブチャラティならば、きっと。


「――――――人生に、本来の『意味』なんてモノはあるのかしら。ジョルノ・ジョバァーナ?」


鉄を伝う振動音。ジョルノの殴った音響の余韻が鳴り止まぬうちに、隣に佇む彼女の口は開かれた。
耳を澄ませば、生命力が湧いて溢れるような……不思議な呼吸音が続く。

「『生』に意味を見出す……そんなことはその人間個人個人が考えればいいこと。『死』もまた同じ。
 人間なんて所詮、神サマの気まぐれで生み出された化学物質の集合体。人の運命に『本来の意味』なんてものは存在しないわ」

「リサリサさん……」

「それでも……例えば誓いや後悔、愛なんていう要素は、人が前を向くために存在する。
 困難に屈しそうになった時、人は立ち向かわなくてはならない。そうでなければ、人は生きて生き損、死んで死に損。
 最後まで前を向けていた者だけが、死の間際……これまで生きてきた意味を得ることが出来る」

リサリサの見た目の若々しさからは想像できない、やけに達観した知言であった。
まだ十代半ばのジョルノやトリッシュよりも、圧倒的に鋭く洗練された言葉の重み。非常に失礼だが、年の功という言葉がよく似合う物言いだ。

小傘は……死ぬ前に何を見て、思い、感じて、天へ昇ったのか。
あの子は……最期に前を―――上を向けただろうか。
もしそうであるなら、多々良小傘という少女はきっと、最期に生まれてきた意味を悟って逝くことが出来た。

きっと。そうであると信じて。

「……大人、なのですね」

「受け売りよ。どこかの小さな神サマの、ね。
 私だって、まだまだ自分の人生に意味を見出せていない。……後悔することばかりよ」

きらりと、サングラスの奥でリサリサの眼光が一閃する。
視界の果てには、最愛の夫と息子。愛弟子。恩人。そして――

(……あの娘は、無事かしらね)

“神サマ”を自称する少女『洩矢諏訪子』。彼女も小傘と同じく、追手たちの追走を阻む殿組の中心だった。
初めて彼女と出会った時は確か、家族を探していると言っていたか。
神サマのくせに、どこにでも居る少女と同じように家族を持ち、家族を愛する少女。洩矢諏訪子。
小傘が本当に殺されたというのなら、同行していた諏訪子もまた―――

(……私には、関係のないこと)

偶然出会い、行動を共にしているというだけの存在。決して仲間などではない少女だ。
願わくば無事を祈っている……それ以上でも、それ以下でもない平行の感情。
そしてもし、諏訪子が生きているというならば、家族との無事な再会を再び祈ろう。
ただそれだけの、共感。


「…………私はここで、家族を探している。ジョセフ・ジョースターという青年をご存知かしら」


慌しかった今までと打って変わって、流れ続ける雨音以外、冷え冷えするほどの静寂が続いてきた。
思えばリサリサとジョルノたちも冷静にモノを話すタイミングは無かった。治療の片手間には良い情報交換の場だと、彼女は愛する息子の名を出した。

「いえ、すみませんが……」

「そう。…………貴方たちには、探している家族はいるかしら?」

期待外れだったジョルノの返答に憂い一つ見せず、リサリサはこの勇敢なる少年少女について更なる話の種を求めた。
もし彼らにも探すべき家族が居たのなら、仮にも一人の母であるリサリサは本心より何事もない再会を祈る。
もっとも、ジョルノの『父』については全くの例外とするのだが。

「……僕の『父』については先程起こったことが全てです。あの男以外には……会うべき家族など、僕には居やしません」

一拍を置きながらジョルノは、何故だか言葉に棘を含ませながらキッパリ断言した。
誰しも踏み込まれたくない領域というものは存在する。それが家庭環境という敏感な空間なら尚更だ。
リサリサは察し、次に運転席のトリッシュの返答を待った。

「…………こっちもジョルノと同様よ。私にとってあの男……『父』とは、倒すべき敵でしかないわ」

顔は見えないが、およそ少女には似つかわしくない確かな決意の現れが、その言葉にはこれ以上なく盛り込まれていた。
無二の子から敵意を持たれる親の心とは、または親から殺意を向けられる子の心とは、果たしてどんな気持ちなのだろうか。
リサリサには決して理解できない心象なのだろう。息子ジョセフから恨まれることはあっても、敵とまで言い放たれることなど彼女は想像したくない。
親の顔が見てみたいとはこの事だ。あわよくば、会って説教の一つもしてやりたいくらいだ。ジョルノの親にはさっき会ったが。


ふと、今自分が全力治療中のこの青年のことが気になった。
空条承太郎、という名のこの男。随分と大柄で強面だが、まだ学生……ちょっとそうは見えないが高校生だろう。
彼に関して何故だか親近感を覚える。ジョセフにどこか似ているということもあるのか、不思議な感覚だ。
この青年にも家族は居るのだろうか。名簿には同じ苗字の参加者が居たような気もする。

どうにもこの醜悪なゲーム、『家族』を道連れに攫って来ているパターンも多い気がしてならない。
諏訪子の家族。ジョルノの父。トリッシュの父。そして我が息子までも。
空条承太郎――もし彼の家族までもがこの会場に居るのなら、やはり会わせるべきなのだろう。
相手が『善』か『悪』かは関係なく、その方向がどこへ向かおうとも。
家族と真に理解し合えるのもまた、血の繋がった家族なのだろうから。

その為にも空条承太郎と博麗霊夢は、必ず蘇生させる。させなければいけない。
このまま彼らが死ぬことになれば、彼らが生きてきたその『意味』を本人が知る機会は、永久に閉ざされるのだ。
全てが『無駄』になる。ジョルノが「無駄なことは嫌いだ」と言ったように、リサリサもまた無駄は嫌いだった。


「――――――で、ジョルノ。これからどうするの?」


仇敵でしかない親の顔を思い出し、嫌な気分にでもなったからだろうか。前方のトリッシュがこれからの方針を尋ねてきた。
治癒技術のあるジョルノとリサリサとは違い、彼女は手持ち無沙汰だ。小傘のこともあり、今何もせず周囲を警戒しているだけの時間が怠惰にも感じてきた。

「最優先事項は二人の完全なる蘇生です。それまではあまり動き回らない方が得策でしょうが……懸念は大きい」

一向に起き上がる気配のない霊夢の回復に専念しながらジョルノは、幌の入り口――トラックの外側を覗き眺める。
廃れた廃墟群と降り立つ雨以外、大人しい光景だった。一種の風情すら感じる。だがそれもいつまで続くか。
まず第一に、地図によるこの『猫の隠れ里』なる土地、既に大規模な戦闘の跡が所々見かけられる。
雨晒しとなっていた女二人、男一人の遺体も転がっていた。とても安全地帯とは言えない場所なのだ。

現実問題、小傘の死から予想される最悪の状況とは、F・Fと諏訪子の敗北……つまりは彼女たちの全滅である。
この雨だ。泥土に付けられたタイヤの跡を追えば、昼寝癖のある亀にだってそのうち追いつかれてしまうだろう。
追手が生きているのであれば、確実に自分達の居場所がバレてしまう。そうでなくとも相手には全方位の恐竜情報網があるというのに。
かといって無闇矢鱈に逃げ回っていても、新手の危険人物に遭遇する可能性が大きい。トラックを逃走手段にするには少々目立ちすぎる。

結局、ジッと待ち構えることが最良でしかない。トリッシュ護衛に使用した『あの亀』でもあれば話は違うだろうが。

「この会場に安全地帯なんか存在しません。あの『暗殺チーム』や『ボスの親衛隊』に常時狙われていた時と同じです。
 が、生憎この状況……重傷人二人に加え、僕とリサリサさんは治療に手一杯です。……言ってる意味が分かりますか?」

「ええ、ええ分かってますとも。マトモに戦えるのは私だけってことね。……これじゃあ以前とは逆じゃない」

愚痴でも溢すようにトリッシュは、眉をしかめさせながらハンドルに顎を乗せる。
確かにどう見積もっても、頼りのジョルノは積極的な応戦には参加出来そうにない。リサリサに関してはスタンド使いですらないと言う。
発現させて間もない、我が映し鏡『スパイス・ガール』でどこまでやれるか。一味違うどころの窮地ではない。

「トリッシュ。貴方への『護衛任務』はとっくに終わったのです。これでも僕は貴方を認めている。……頼りにしてますよ」

ジョルノのいつもの爽やかスマイルもプレッシャー十倍増しでトリッシュへ向けられる。
そりゃあ思い返してみれば、ノトーリアス・B・I・Gに急襲されたあの悪夢の飛行機以来、トリッシュは幾度も仲間のピンチを救っている。
成長した、という実感は決して自惚れではないにしろ、自信が付いたのは間違いない。



「―――ごめん、小傘。せめて“そこ”から私たちを見ていて頂戴。そしてあわよくば、これからも私たちの歩む道を照らし続けて欲しい」



歩む道程は過酷で壮大だ。それでも『向かうべき正しい道』を歩んでいるのなら、その過程が闇に包まれることはない。
かつて我々が歩んだ、あの『希望への道』……苦難の運命を切り開いていった道のように。

ふと上を見上げると、雨雲の切れ間から一筋の虹の切れ端が覗いた……ような気がした。
あの美しき光条が、この暗闇の荒野をどうか切り裂いてくれる事を祈って。


▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽


『血』……とは、時に厄介である。


人の遺伝子、性質や先祖から受け継がれた因縁、意志を子に遺す。
それは、あるいは愛であったり。
またあるいは、呪いと表現されたりした

多くの場合――あくまで多くの場合であるが――『家族』とは、取って代わることの出来ない唯一の愛。
この寵愛を受けずして、人が真っ当に生を謳歌することは難しい。
母が、あるいは父が子を愛するのは種の義務であり、これが放棄されると、その者の運命はどう残酷に蝕まれるのだろう。
生まれたばかりの子には、そんな呪いに抗う術など無い。親を『運命の壁』として乗り越えるには、力が必要となるのだ。




『ならばその運命の壁とやらを、我が身を以て乗り越えられた時……子はどんな道を歩んでいくと思うね? ―――八雲紫』




深淵の中、妖艶なる男が囁く。
DIO。ディオ・ブランドー。
平和であった幻想郷にも、侵略者DIOの足音が響く。八雲紫の背後で、男は嘲りを浮かべながらそっと近づいてくる。

「それは私に訊いているのかしら? それとも……一人の人間の『子』として産まれ落ちた貴方自身? もしくはあのジョルノという少年の『父』として立ち塞がった貴方自身?」

紅魔館で起きた、止められた時間のように短い寸劇……支配に上塗りされた思考の中、あの一部始終を見ていた八雲紫。
会話の流れから、ジョルノと呼ばれていたあの黄金の少年がDIOの息子だという察しはついた。
やはり人間だ。紫から見ればこのDIOも、所詮は化け物の皮を貼り付けた人間に過ぎないのだ。

その圧倒的なパワーも、鬼ほど豪快とは言えず。
その瞬くスピードも、天狗ほど疾速とは言えず。
その煌く不死性も、蓬莱人ほど完全とは言えず。
その異能力も、某メイド長ほど洗練とは言えず。

全くの半端者。高水準のオールラウンダーという評価が関の山の、まさに吸血鬼らしいパラメータだ。
ただ『一点』―――男は邪だった。他に追随を許さないほどに、絶望的な深さを掘った闇。
その一点こそが、この幻想郷のどこにも存在しない『巨悪』であった。

『……私にも家族はいた。心底、吐き気のするクズだったがね。……だから私自ら“殺した”。
 あの男に唯一感謝があるとしたなら、この私が踏み越えるべき壁となってくれたことだ。奴がいなければ、今の私は無かっただろう』

本来、己を守ってくれる筈の『親』という存在が、自分を傷付ける側に立っていた。そんな運命を与えられた子供は、どうなる?
まだ幼かった悪の芽は、ひたすら耐えるしかなかったのか?
違う。
蓄えていたのだ。
機を見ていたのだ。
悪の芽は、唯一であった『家族』という呪いを養分とし、開花する時をひたすらに待った。
想像以上に速い速度で目醒めた巨悪は、唯一の拠り処である筈の『家族』を殺した。親殺しという禁忌を経て、更に力を付けたのだ。

『だが……“血”とは時に厄介だ。ジョジョの――ジョナサン・ジョースターの血族は、どこまでも私の運命を雁字搦めにして立ち向かってくる』

始まりの地点。ジョナサン・ジョースター。
全てはその男から始まった。DIOを惑わす因縁は、ジョナサンの子へ、そのまた子へと受け継がれ、そして。

「―――『敗北』したってわけかしら? 血という名の“業”が、それを産み落とした貴方自身を圧し潰した。
 皮肉なモノね。貴方を貴方足らしめた筈の『血』が、今度は貴方を阻もうと世代を超えて立ち向かってくる」



    グシャア!



紫の意識が次に覚醒すると、既に己の身体は冷たい地面の上に転がっていた。
感覚で理解できる。『時間』を止められたのだ。
悪逆非道。他者を害すことに一片の躊躇も踏まない邪悪。


『―――本当に、DIO様の仰る通り。貴方にとっても“血”は厄介である筈だわ』


風穴を開けられた背に、ふわりと加わる重量。
その身を縛り付ける重力など虫ほどに存在しないような、奔放なる女の声が上から囁かれる。

『たとえば……愛すべき“家族”が、時には枷になることもある。……そうでなくって?』

霍青娥。
ともすればそれは、DIO以上に厄介な存在にも成り得る女だった。
DIOとは真逆で、この女に『悪意』はない。深海を揺蕩う海月のように掴みどころがなく、それ故に相手にするべきでない邪仙だ。
だからこそ、この女がひとたび牙を見せれば。

「先程から、貴方たちは私を鏡か何かだと勘違いしておられません? ねえ、邪仙さん」

『そーねえ……私も家族を持ったことはあるわ。自問自答になっちゃうけど、確かに家族って時には邪魔でしかないもの』

千年以上の時を生きた邪仙。いつしか人並みの『愛』を手に入れた青娥だったが、彼女にとってそれは枷以外の何物でもなかった。
かくして青娥は家族を欺き、人間から邪仙へと成る。己の目的の為ならば、彼女は唯一の愛ですら躊躇なく捨てることが出来る女だった。

『それで……貴方はどうなの、八雲紫サマ? 貴方にとっての“家族”って、なに?』

ドクドクと流れ続ける紫の流血など視界にも入らないというように、傷口に腰を落としたまま青娥は指を鳴らした。
キョンシーマスター霍青娥。彼女の操る秘術にかかれば、朝食を準備する事などよりも簡単にリビングデッドが生み出される。

『ゆか、り……ざ ま ァ』

『くるし、い よぉ……あつい゛よぉ……』

「ら、藍……橙……!」

土の下より現れた我が眷属、八雲藍と、橙。
今は焼け焦げた焼死体に変わり果てた、大切な大切な……家族。

『苦しそう? 可哀想かしら? わかるわぁ~。私だって“あの”芳香ちゃんを見た時は、心が張り裂けそうなくらい悲しかったもの』

ケタケタと笑う青娥の表情に、憂き節の感情は見当たらない。
ただこれは―――怨嗟の類であるものだと、紫は直感する。

『一体“誰が”私の芳香をバラバラに裂いたのかしらね? ねえ紫ちゃん、貴方は―――“知ってる”? ね え 、紫 ち ゃ ん 』

「や、め……なさ、い……! 青娥……やめ―――」



    グシャ



紫にとっての“拠り処”と言ってもいい、家族の象徴。
キョンシーと化した八雲藍と橙の頭が、青娥によってまるで泥団子のように握り潰された。

ひとつひとつ、紫にとっては掛け替えのない価値が奪われていく。
自らの価値とは、なんだ。
藍や橙、彼女らは式神に過ぎなかったが、それでも大切な―――家族だった。
そして家族とは、我が家の内に住まう、幸福を共有したいと願う者たちのことだ。

紫にとっての我が家とは……幻想郷なのだ。

(私にとっての……『家族』…………それが今、こうしている間にも一人一人……!)

もはや立ち上がる力も残っていない。
いや、それどころか―――


『―――よお。どうだい? 家族が奪われていく光景を、アホ面で眺めるしか出来ない無能さを実感していく気持ちは』


動けない。動けないまま、自分は自分でなくなっていく。
DIOに続いていつの間にか青娥の姿も消え、後に残るは二つの躯体と二人の男女。
動けない紫の体を椅子にするように腰掛け、ディエゴ・ブランドーが白い双眸を向けてギョロリと見下してきた。

この空間に在るもの。
それは支配する側と、される側の二種類だけだった。
勝者は全てを得、敗者は全てを奪われる。古代より続く、大地の掟。
体現するのは這い蹲ってきた人間ディエゴと、這い蹲る大妖八雲紫。

「あ……貴方は、」

『ん?』

「貴方ハ、なんナの……! ディエゴ……ブランドー!」

もはや言語機能も侵食されつつある意識の中、紫はそれでも問い質したかった。
何故、何もかもが奪われなければならない。
何故、愛する者が殺されなければならない。

敵は……誰だ?
幻想郷の賢人として、このセカイで闘うべき敵とは一体なんなのだ。

私は……何から――を守らなければならない?


『……八雲、紫』



    ザンッ!



「が……ァ!?」

『今、切り裂いたその首の傷は、オレがいた人間世界の悲惨の“線”だ。
 お前……境界を操れる妖怪、らしいなァ? だったら今すぐ、この線を消し去ってみろよ』



    ザクッ!!



「―――カ……ハ、ぁ……っ!?」

『そしてこれが、それを超えた線。オレがこれから手に入れる、この幻想郷への“線”さ。
 オレはたとえ自分の“母親”だって、人間世界の線へと置き去りに出来るぜ。……お前に、そんな覚悟があるかな?』

奪う側へと回った男、ディエゴ・ブランドー。
血の繋がった唯一の家族すらも礎と出来るこの男に、道理での抵抗は不可能だ。
己の身に刻まれた、横と縦の『境界』。これを越えられる覚悟を持つ者だけが、運命の壁を乗り越えられる力を手に出来るというのか。

家族を捨てられる覚悟。
幻想郷の人々を、捨てられる覚悟。
完全敗北した八雲紫を引き摺っている枷が、『家族』の存在だというのなら。
我が精神をこうまで衰弱させる要因が、『繋がり』という諸刃の血であるのなら。


(ワタシ、は…………枷、ヲ………………!)


恐竜化に汚染される思考の中、最後の理性で紫は思い返す。
思えば――そう、思えばあの時。



―――『霊夢っ!! 助けっ―――』



あの時―――紫は救いを求めていたのではない。
霊夢を―――救おうと、手を伸ばしたのだ。

八雲紫。幻想郷の重鎮であり、強者の格である。
そんな大妖が、いかなる過程を経ようとも。いかなる逡巡を経ようとも。
他者に助けを求めるなどという矮小な行為が、許されるだろうか。

今なら自信を持ってハッキリ断言できる。確かにあの時、紫は霊夢を助けようとしたのだ。
霊夢とて、幻想郷の家族の一人に間違いは無いのだ。


(私は…………この『枷』を、背負ってでも、立ち向かわなくてはならないッ!)


枷とするには、あまりに膨大で重い鎖。
それでも外すわけにはいかない。この歪な形を成した一つ一つの輪が、まさしく家族という名の繋がりなのだから。
これを見捨ててしまった時。外してしまった時。
生まれるのは、八雲紫という名を冠しただけの―――醜いケモノ。バケモノで、タワケモノ。堕ちたモノノケだ。
他者を除け者(ノケモノ)にして弾き、蹂躙することだけを考え、後に待つのが『破滅』でしかない……そんな恐竜のような怪者(ケモノ)に堕ちることは、もうしない。


「救えない……貴方たちの方こそ、救えない大戯け者よ、ディエゴ」

『…………』


繋がりを断ち切れる覚悟を持つ者が、より強い力を得る? 冗談も休み休み言え。
最後のその時まで、より多くの……より重厚な繋がりを保っていた者が勝者となれる。DIOたちが語るところの“捨てた者の強さ”とは、勘違い甚だしい彷徨い者の屁理屈だ。

「そもそも貴方たちの住む世界に、確たる“線”など存在しない。裕福で平穏な清き『白の世界』も、貴方の生きてきた悪意の闊歩する『黒の世界』も在りはしない。
 黒と白。二つが歪に混ざり合い、一体となっている『灰色』こそが人間の棲む混沌の世界。其処に境界が在ると言うのなら、それは貴方自身の勝手な価値観でしかない」

『…………』

「貴様はもっと、『世界』を識った方が良い。覚えておけ……若輩小僧」

いつしか紫に刻まれた二本の『境界線』は、完全に消失していた。
深淵だった景色に、鉄製の扉がそっと置かれていた。ディエゴの姿も、気付けば無くなっている。
胸に開けられた穴も埋められていた。十全の身体が、完全とはとても言えないまでも、取り戻された。


どうやら随分と長い悪夢を見ていたらしい。
……行かなくてはならない。この扉を開けた向こうは、再び穢き檻の外の、穢き世界だ。
彼の世界にも境界など存在しない。混沌廻る地に、生を望む全ての生命たちが在るだけ。

光。扉から漏れた光が誘うは、この世の何処なのか。
立ち上がった紫は――最後に崩れた二体の家族を振り返り――扉に手を掛けた。


この一歩を踏み込むまでに多くの犠牲があったし、恐らくこれからもそれは続くだろう。
しかし此処が、彼女にとって大切な―――大切な最初の境界線。



この子に流れる血の色も ⇒中編

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最終更新:2017年03月16日 18:57