神を喰らう顎[アギト]

薄く立ちこめる霧の向こうから、黒い塊が近づいてくる。
それは遠目には小鳥か、羽虫の大群のように見えた。
黒い塊の中心に、低い排気音を吐き出しながら迫る鉄馬の影があった。
鉄馬に跨りハンドルを握るのは蒼い髪をまとめ、淡い色の服に身を包んだ若い女性。霍青娥。
悪のカリスマに魅了された彼女は、弟子にして主君である豊聡耳神子を裏切り、更には『幻想郷』をも裏切った。
正真正銘の毒婦。
彼女の後ろにヘルメットを被った男が直立している。
その顔はは虫類のような鱗で覆われ、背中から長い尻尾が伸びている。
恐竜人間。走行するバイクの上で直立するという芸当が可能なのは、彼の宿すスタンドが与える
捕食者[プレデター]としての身体能力による。
ディエゴ・ブランドー。人の世のすべてを憎み、社会への復讐のために頂点に立つ。
その目的のため、彼はこれまでに幾人も蹴落とし、食い物にしてきた。
彼のその姿は、まさしく捕食者[プレデター]としての生き方の現れだった。
そして、バイクと並走する恐竜がもう一体。
八雲紫。ディエゴのスタンドによって肉体と精神を奪われた、楽園の統治者の、変わり果てた姿。

彼らの行く手を阻むように、3人の少女が並び立つ。


「貴方は、十六夜咲夜……ではないんだよね?」


3人のうちでひときわ幼い容姿で、だがもっとも落ち着き払った様子の少女は洩矢諏訪子。
正真正銘の神の一柱。服には鳥獣戯画に描かれたカエルの絵があしらわれていた。
さらに大きな緑の帽子にも二つの目玉の意匠が施されており、
それを頭にかぶり、両手を地面につけしゃがんだその姿は、擬人化したカエル、
――あるいはカエルのマネをする少女のようであった。


「ええ。この身体は十六夜咲夜からの大事な借り物。
 ……二人とも、気をつけてください。彼らはスタンド能力を持っています。
 多くを説明する時間はありませんが……男の方、ディエゴ・ブランドーが持つのは『傷つけた相手を恐竜にして操る能力』。
 バイクの横を走るあの恐竜も、元は八雲紫だったのです」


青いメイド服に身を包んだ、3人のうちで最も長身の少女が、十六夜咲夜――ではない。
既に魂を天に還した彼女の亡骸を借りた、人ならざる者の依代たる人の形。
無数のプランクトンの群れに『スタンド』という一個の知性を与えられた存在。


「そうだ……念のためです。お二人とも、口を開けてください」


そう言うと咲夜の姿を持った何者かは、諏訪子と小傘の口元に手のひらを当てた。
諏訪子が顔をしかめる。

「……何を飲ませたの」

「あなた達が恐竜化させられた際の対策です。霍青娥もスタンド能力を手に入れたようです。
 彼女が持つのが、先ほどの様子から判断するに、恐らく……『地中に潜る能力』。
 今更言うべきことでもないのでしょうが……用心して下さい」


十六夜咲夜の抜け殻に宿るは、プランクトンの群れに知性を与えられて新生物、『フー・ファイターズ』。
彼女の肉体に残る記憶を読み取り、両手でナイフを構える――その姿は、生前の咲夜と見分けがつかない。


「……まあ、やるだけやってみるさ。早苗の貴重な人間の友達だし、狙うやつは祟ってやらん訳にもいかんでしょ」

「勝ち目が薄いなら、私たちも逃げることを考えましょう。
 最低でも、霊夢たちが逃げ切る時間さえ稼ぐことができれば良い。
 ……ただ、あのディエゴの操る小さな恐竜は、この会場のかなり広い範囲を偵察することが出来るようです。
 ……一旦彼らを振り切ることができても、すぐにまた霊夢たちの場所を探り当てられてしまうでしょう」

「じゃあ、やっぱりここでやっつけるしかないってことじゃん」

「……ありがとう」

「礼はいらないよ。早苗の為だけじゃないしさ。
 私みたいなのが気安く話せる霊夢みたいなコは、長年神様やってると本当に貴重だからね。
 そこの化け傘の、確か、小傘ちゃんも、いいかな?」

「…………」

「小傘?」

「……ふぇっ!? う、うん!」


そして、透明のビニール傘を抱えるように差し、立ったまま体を強ばらせている少女がひとり。
空色の髪、同じく空色の服、そして空色の右目。
雨上がりの青空がそのまま少女の姿を成したような姿の中で、唯一、赤い左目がひときわ目立つ。
彼女の名は、多々良小傘。
傘の付喪神である彼女だが、現在手にしているビニール傘は彼女の本来の持ち物ではない。
彼女の本体たる青い傘は既に失われている。
天に還るはずの彼女の魂が、かろうじて地上にしがみついている。
それを可能としているのは、彼女の頭に差し込まれた魂[スタンド]である――といわれている。


「小傘。今は、目の前の二人を止めることを考えて。
 ……だけど、生命の危険を感じたら、逃げても良い」

「いいよ、逃げても誰も責めないよ。私も、この子も」

「だっ、大丈夫です! ……だいじょうぶ……!」


上ずった声で、やっと答える小傘。明らかに大丈夫では、ない。
多々良小傘は、迫り来る悪意に恐怖していた。
それでも恐怖に耐え、逃げ出さずに何とか踏ん張っていた。
フー・ファイターズに助けを求められ、急行するジョルノ達の車に乗せられ、
……気がついたらここに立っていた。

はっきりしているのは、彼らにここを通せば、ジョルノとトリッシュ達が危険な目に遭う、ということ。
化け傘である私に、私の『道』を照らして欲しいと、信じてくれた者達。
彼らを守るためなら、多々良小傘、傷つく覚悟はできている。
だが、彼らを、迫り来る悪意を『傷つける』覚悟がどうしても、できない。

彼女は所詮、道具から生まれた存在だから。
道具であったが故に、その魂に刻まれているのだ。
人間が『上』で、道具は『下』だと。

ボロボロになるまで使い潰されることに、
「いらない」と言われて灰にされることに、
人の鬱憤のはけ口として叩き壊されることに、抵抗できない。

故に、迫り来るまっすぐな悪意に対し、抗うことができない。

だが、同時に彼女は少女でもある。
少女の脆い心は、死を目前にして恐怖せざるを得ない。
道具としての生まれと少女としての心の狭間で、多々良小傘は動けない。
逃げることさえ、できなかった。

ディエゴの操る小さなプテラノドンの群が蠢き出し、
行く手を阻む三者へ向かって黒煙の様に流れ出した。

迫るプテラノドンの群は諏訪子達の視界を黒く塗りつぶし、
今にも彼女らを包み込んでその皮膚を、肉を食いちぎろうと迫る。
その時である。

ぱぁん、と。

おおきな柏手[かしわで]を打つ音が響いた。
騒がしい羽音に負けない、乾いた、よく通る音だった。

音の源は洩矢諏訪子。

次いで彼女は宣言した。


「土着神……『ケロちゃん風雨に負けず』」


すると一陣の突風が走り、煙のようなプテラノドンの群を押し流した。
次いで風に乗って大粒の雨が降り注ぎ、プテラノドンをまとめて地面にたたき落とした。


「これが、咲夜の記憶にもあった、守谷の、神の力……」


初めて目の当たりにする守谷の神の力に驚くFFを、諏訪子が制する。


「安心するのは早すぎるよ」


黒煙が晴れ、再び晴れた視界に残るのは、翼竜の群れを盾に雨風をしのいだ一体の恐竜だけ。
恐竜・八雲紫が、大口を開けて小傘に迫る。
悪意持つ者は弱者の匂いを敏感に察知する。ディエゴ達の最初の標的は、多々良小傘。


「小傘、下がって!!」


小傘をかばうように、FFが進み出る。
そして、構えていた左手のナイフを、懐に収め――無手の左腕を差し出し、八雲紫が噛みつくに任せた。


「GOAHHHHHHHH!」


FFの腕を飲み込み、その二の腕に鋭い歯が突き立てられる。


「寝てなさい!」


すぐさま、FFは傷口からフー・ファイターズの分身を注入する。
八雲紫の体内でプランクトンが爆発的に増殖する。
増殖したプランクトンがディエゴに支配された肉体を乗っ取らんと、数秒に渡って主導権を奪い合う。
八雲紫は矛盾した2つの命令を受けて波打つように痙攣し、たまらず倒れこんだ。

これで一つ。だがディエゴと青娥、そして彼らの乗るバイクの姿が無い。


「またか。……芸がないねぇ」


隠れた敵の所在をいち早く悟ったのは、坤、すなわち地を創造する土着神・洩矢諏訪子。
諏訪子は手品師よろしくその大きな帽子を返し、目の前に捧げた。
すると水の蛙――水蛙神が帽子の中から飛び出し、地面に着弾。
吹き上がる水が、小傘の足元まで迫っていた青娥を地上に跳ね上げた。


「あらあら、惜しい。今度こそDISC一本釣りを狙ったんだけど、同じ手は何度も通じないかぁ」

「最初に腰が引けてる一番弱そうなコを狙うのは、アンタみたいな悪[ワル]のやりそうなことだからね」


宙を舞う青娥は、地上に座す諏訪子と視線を交錯させ、
飛び込み競技のような流麗なフォームで地中に飛び込んだ。
このまま霊夢たちの元へと向かわせる訳にはいかない。


「こいつは私が引き受けよう。だけど……」


言い残し、諏訪子が青娥を追う。


「ええ。ですが……」


地中から出現したのは青娥だけ。つまり、


「「ディエゴは……!」」


その時、黒い影が倒れた紫とFFの頭上をすり抜け、
――彼女らのほんの数メートルの後ろ、小傘の頭上に止まった。


「上!」


バイクの上からジャンプ一番。
ディエゴ・ブランドーの恐るべき鉤爪[ディノニクス]が、上空から小傘を狙う。


「GYAAAAAAAAA!」

「ひっ……」


後ずさろうとした小傘が足を滑らせ、尻もちを付いた。
高々と掲げられた、右脚の鉤爪が、小傘の額を――切り裂かない。
突如火花が散り、鉤爪が逸れたのだ。


「……一番戦意の薄い、弱者を狙うのは合理的な方法です。
 どのような生物においても、戦いに臨むのであれば」


熱を持ったナイフの刃が、雨滴を弾いて湯気を上げている。
『十六夜咲夜』の肉体を纏ったフー・ファイターズが、間一髪、割り込んでいた。


「……フン。確実に『やった』タイミングだと思ったが」


一旦変身を解除したディエゴがつぶやいた。


「……ですが、なぜでしょう。今はそれを『ムカつく』と感じています。
 咲夜の記憶でしょうか。いえ、このフー・ファイターズ自身がそう感じている」

「人間の皮を被っているだけのバケモノが、くだらないヒューマニズムに目覚めたか?
 犬にでも食わせておけよ、そんなもの」

「……そうですか。これも一種の人間性[ヒューマニズム]というもの、なのですね」


軽く挑発したつもりだったのだが、感慨深げな様子でつぶやくFF。
ペースを乱されたディエゴは小さく舌打ちする。


「だが、最初の狙いは達成した……立てよ」


そう言ってディエゴが人差し指を空に向けて立てる。すると――。


「……あ、ああ……わたし、アタシ、が……」

「小傘!」


FFが振り返ると、小傘が立ち上がっていた。
だがその口は大きく裂け始めて鋭い牙が並び、全身に爬虫類のウロコが広がりだしている。
恐竜化――! その感染源、ウロコの広がる中心は右脚、膝頭に真新しい切り傷――。


「あたしが……消えテイク……」

「防ぎきれなかった……!」

「そういうことだ。こいつはもうオレの支配下だ。……くれたって良いだろう?
 正気のままじゃどうせビクビク怯えて使い物にならないんだからさあ」

「……だめです。あげません。」


FFがそう言うと、突如小傘の身体がビクビク痙攣し、再び地面に突っ伏すように倒れこんだ。


「既に『対策』は打っておいたのです」

「FF……ごめんね……」

「良いのよ。今は休んでいて」


◆     ◆


「ホホホホホホ! オーホホホホ!」


高笑いを上げる霍青娥が泥しぶきを上げ、大地を泳ぐ。
そのプロポーションを惜しげもなく晒す黄土色のボディスーツは、『オアシス』の名を冠するスタンド。
名は体を表すという言葉の通り、そのスタンドは水なき地に水を生む。
そのスタンド能力で自分の周りの地面を溶かし、水中の様に泳いでいるのだ。

クロールから背泳ぎ、果てはバタフライと華麗な個人メドレーを披露しつつ、
猛スピードで諏訪子の周囲を旋回し、弾幕の狙いを絞らせない。

霍青娥の尸解仙としての身体能力に、
スーツ型スタンド『オアシス』のパワーとスピードが加算され、その泳ぎはまさに人魚の如く。
それも魚類の中でも有数の遊泳速度を持つマグロ。マグロの人魚。マグロ女、霍青娥。


「あーうー。何だっけかなー。昔読んだマンガでそういうの見た気がするなー」


水の弾丸を放って牽制しつつ、諏訪子は周囲を旋回する青娥を観察する。
戦闘中においても飄々とした様子なのは、彼女の気質ゆえか


「あ! 知ってる! それってもしかしてグルグル回ってバターみたいに溶けちゃう奴?」


諏訪子の言葉に反応する青娥。相変わらず諏訪子の周りを囲うように高速で遊泳している。


「いや、違うなー。でもそれも懐かしいねー。あんたそれ読んだことあるの?」


マイペースに返答する諏訪子。


「この前、メガネの半妖のお兄さんの店で失敬してきたのよ」

「なるほどねー。発禁になって長いから、こっちに流れ着いてもおかしくはないかー」


青娥は、息一つ切れる様子なく、旋回のペースを落とさない。


「懐かしいねー。今度貸して?」

「無・理♪ なぜなら」


そして、諏訪子の背後に回り込んだ次の瞬間――


「貴女はここでバターになるからよ!!」


青娥が勢いよく地中から飛び出し、諏訪子の背に向かって跳び掛かる。
海獣を駆るシャチのように、大きな弧を描く。
諏訪子は両足に力を入れ、ジャンプして回避を試みるが、跳べない。
足下の土がいつの間にかひどくぬかるみ、足首まで浸かっている。
青娥が旋回する間に、オアシスの能力が諏訪子の足下まで及んでいたのだ。

避けられない。が諏訪子は動じない。
背後から矢のような速さで跳びかかる青娥を振り返りもせず、
ぱん! と、先ほど同様に大きく柏手を打つ。

体そのものを一本の銛に、諏訪子の体を貫かんとまっすぐ伸びた青娥の貫手が、届かない。

大地から勢いよく飛び出る、何本もの土色の大木。
一人の両腕では余る程に太く、天を突くように勢いよく延びる。
先端が細く割れ、指のように枝分かれしたそれらは、諏訪子の配下たる土着の神々を象ったもの。


「土着神……『手長足長さま』」


巨大な土の足に蹴り上げられ、青娥の身体が宙を舞う。
そして次の瞬間、青娥をつかむのは巨大な手。
気がつけば青娥はいくつもの巨大な土の手足に挟み、捉えられていた。


「がっっーー!
 ちょっ……スタンドを纏ってても、衝撃は伝わりますのよ!?」


土の手足の中から首から上を出して呻く青娥の唇の端からは、僅かに赤黒い液体がこぼれている。


「それは良い事を聞いたわ。……そのまま潰すか」


諏訪子が掲げた手を握り締めると、手長足長の圧力が一層強まる。


「いっ……ちょっと、タンマタンマ!」

「まだ喋れるか」

「ひーっ、ひーっ、このままじゃ……本当に潰れてしまいますわ!
 わたくし諏訪子様にとってお得な耳寄り情報知ってますのに!」

「潰れる、じゃない、潰すんだよ」


聞く耳持たず。諏訪子はむしろ一層手長足長に力を込める。


「良いんですの!? 本当に聞かなくても良いんですの!?
 貴方の神社の巫女さん……東風谷早苗ちゃんの行方!」

「……早苗の?」


青娥がほとんど懇願するように話したとき、ようやく諏訪子が反応する。
実際にこの会場で青娥が早苗に会った訳ではない。
だが、およそ数時間前までの行方を、ディエゴから聞いていたのだ。
故に、その言葉には出任せではない、真実味が篭っていた。
手長足長の圧力の上昇が止まる。あくまで止めただけ、力は緩めない。


「そう、私早苗ちゃんとここに来てからお会いしましたの!」

「…………」

「そう、あれはここから南東のエリア、太陽の畑での事。
 早苗ちゃんとその同行者一行は、弾幕もスタンドも通じない不死身のスタンドに襲われて、今頃は……」

「…………!」


諏訪子は言葉を発しない。だが、血の気が引き、目を見開いたその表情には動揺がありありと見て取れる。
青娥が知っているのは、早苗たちと件のスタンドの遭遇まで。その後は知らない。
だが、顛末は容易に想像がつく。
緩みそうになる口角を必死で抑え、青娥は続ける。


「……かくいう私も、そいつには手出しができず、巻き添えに遭わないようにただ逃げるのが精一杯で……」

「そうかい。……もう十分だ」


そこで、青娥をがっちりと捕らえていた土の手足に一層の力が篭もり、青娥の顔が埋もれていった。
そのまま、みっしりと組み合わされた手足を摺り合わせ、
ブンブンと振り回し、最後は勢いに任せて地面に叩きつける。
一つ、二つ、三つ。
三回目で手足を広げる。

――だが。

手長足長の中に、肉片がない。血の一滴さえも。


「……『手長』の中か」


諏訪子が短くつぶやくと、土の足が土の腕を真ん中から蹴り折った。
さらに土の足のもう片方が、折れた腕を根本から蹴り砕いた。
爆ぜた土の中、切り株のように残った足長様の残骸の中に――いた。
青娥のつま先が一瞬だけのぞき、すぐに地中へと消える。


「アンタ、泳ぎは得意かい? って、聞くまでもないか。さっきは泳いできたもんね」


諏訪子はおもむろにつぶやいた。


「ふふ、この華麗な泳ぎを見てわかりませんの?」

「……アンタには聞いてない」


クロールでまっすぐに向かってくる青娥の姿を認めると、諏訪子は再び勢いよく柏手を打った。

既にあと半歩、あと半かきの位置まで間合いを詰めていた青娥が、諏訪子に向かい貫手をのばす――。


(あ……届かない?)


青娥はそこで異変に気づく。
諏訪子に手が届かない。
間合いを計り違えたか?
いや、自分が移動している。流されているのだ。
流れの発生しない土の中で?
何に? ――誰が?

何故か満面の笑みを浮かべている諏訪子が、酷く――そう、かの霍青娥にさえ、酷く不気味に感じられた。

身体を起こし、諏訪子から間合いを取ろうしたその時、青娥の周囲で大きな地鳴りが響く。
足を踏ん張ろうにも、地面が沸騰するように泡立ち――立てない。
地面が柔らかくなり過ぎている。
『オアシス』の力をもってすれば自由に泳ぐことができるはずが、脚力が地面に伝わらない。
土を蹴る感覚がおかしい。これではまるで本当に水の中に――。

さらに青娥の身体が地中に沈んでゆく。

地中に顔まで浸かった所で、青娥は息を吸おうとして――肺に流れ込んできたのは泥臭い水。
思わずむせかえって空気の泡を吐き出し、空気を求めるも口に流れこんでくるのは、やはり泥水。
オアシスの能力で、地中に潜っても呼吸できるはずが――。
ここでようやく青娥は悟る。
自分は水中に落とされたのだと。

周囲の固体を液体にするスタンド・『オアシス』は、液体に対しては効力を発揮しない。
固体を溶かし、潜った中での呼吸を可能とするオアシスだが、
液体である水を溶かすことはできず、したがって水中での呼吸も不可能なのだ。

青娥は口を手で押さえ、ようやく息を止めた。
このままでは窒息する。
水をかいて浮上しようとするが、浮かない。
沈んでいる――違う。押し流されているのだ。
霧の湖の、底へと向かって。

土煙の向こう、水面の仄かな輝きを背に、洩矢諏訪子の影が映る。
青娥を見下ろし、赤い口、赤い目でニヤリと笑い、さらに柏手を打つ。
その響きは水中でもはっきり響いた。

――源符『厭い川の翡翠』――

諏訪子は、最初からコレを狙っていたのだ。
オアシスの能力で柔らかくなった地面を、彼女の『坤を創造する程度の能力』で一気に崩す。
崩れた地面ごと、自分と青娥を、オアシスの能力が発揮できない水中、霧の湖へ。
蛙の姿を取っている諏訪子自身が水中で溺れる心配はない。
あとは水流を操って青娥を水中に沈め、溺死させるつもりだったのだ。


◆     ◆


「GOAHHHHH!」


ディエゴが振り下ろす右前足の恐るべき鉤爪を、FFがナイフで受け流した。
もう何度目のことだろうか。鋼の刃同士がぶつかったかのような、甲高い音が響く。

まともに受け止めれば、ナイフはその手から弾き飛ばされるか、
さもなくばナイフの方が折れてしまっているであろう。
そしてFFが中に入り込んでいるとはいえ、あくまで人のモノでしかないこの体にその鉤爪が届けば、
先ほどの霊夢、そして自分自身と同じ無惨をたどる事だろう。
もっとも、この十六夜咲夜の肉体が入れ物でしか無い以上、この体が傷ついてもFFが危機に陥る訳ではない、のだが。
それでも、咲夜の体が斬られれば目の前の敵に一瞬では済まない隙を晒すことになってしまう。
FFの後ろで逃走を続ける霊夢たちへ、こいつを向かわせる訳にはいかない。

などと考える暇もなく、鋸の様な歯がずらりと並ぶ巨大な口が鼻先に迫ってきた。
FFは上体をわずかに反らし、眼前でそれが勢いよく閉じるのを見届ける。生臭い。口臭まで恐竜化するのか。
臭い口が右にスライドしたかと思うと、足下から黒くて細長い影が迫る。
FFがのけぞった体勢のまま小さくジャンプすると、太いしっぽが鞭のようにしなって地面を叩きつけるのが見えた。
ぬかるんだ土が爆ぜる。

体を反らしたままジャンプしたFFは、そのまま空中で逆さになり地面に手を突くと、
後退する勢いを保ちながら体の天地を戻した。早い話が後方転回、俗に言うバク転である。


地球上にかつて実在していた恐竜がどの程度の身体能力を持っていたか、
現在の我々には現存する生物から類推し、想像によって推し量る他ない。
ディエゴが今化けているディノニクスなら、骨格そして体格はダチョウが近いか。
俊足で知られるダチョウの脚力はすさまじく、ひと蹴りでヒトの骨を簡単に砕く。
加えて、スタンド能力『スケアリー・モンスターズ』で再現された恐竜の能力には、
いくらかの脚色、あるいは誇張が含まれている。

骨格の化石だけで学者たちに「恐るべき竜」と命名させる、この生物にたいする畏れが。
現存する補食者であるネコ科のような、動体視力に、瞬発力、バランス感覚。
イヌ科の嗅覚、集団行動能力、スタミナ。
そして何より、ヒトの知能[あくい]。
スケアリー・モンスターズによって現代に現れた恐るべき竜の幻想はそれら全てを合わせ持つ。

守りに徹しているとはいえ、ヒトの体で恐竜であるディエゴと一対一で戦えているのは、
十六夜咲夜に刻まれた戦いの記憶であった。
鬼、天狗、八百万の神々、そして主である吸血鬼と、ルールがあったにせよ、命のやりとりをするつもりがないにせよ、
ヒトの身で彼女はヒトを超越した存在と、今まで戦ってきたのだ。
その咲夜の技術が、隻眼というハンデではあるが、恐竜との戦いを成立させている。


(お前には、世話になりっぱなしだな……十六夜咲夜)


FFは生前の姿を見たこともない相手に、話しかける。


(そうか、これを「感謝」というのだな)


暴風の様に迫る爪と牙をさばきながら、FFは読み取った記憶でしか知らなかったそれを確かに実感した。


(……とはいえ、あまり長くは持たない、か)


先ほどから、足が急に重くなってきたのを感じる。
プランクトンの群体という身でありながら、この体は疲労と無縁ではない。
急激な分裂を行うなどすれば、精神のエネルギーを消耗する分、疲労を感じる。
だが、ただ動き続けるだけでこれほどの疲労は――とここでFFが足下を見る。
小さなヴェロキラプトルが、咲夜の脚に大量にまとわりついていた。
脚を覆う黒いタイツが全く見えず、グレーの鱗で覆われているようだった。

ディエゴが攻め手を変えてきていたのだ。
風雨で攻撃用の小型恐竜を飛ばせないと判断するや、地面を走るタイプの小型恐竜をけしかけてきたのだ。

小型恐竜に群がられたところでダメージはない、だがそれでもこちらの動きを鈍らせるには十分なのは見ての通り。
足を取られたFFを見るや、好機とばかりに、ディエゴが間合いを詰める、蹴爪を振り降ろす。
間合いが近すぎる。――受け流せない。
十字に構えた咲夜のナイフに打ち付け、そのまま押しこんでくる。

と、ここで、声が聞こえた。洩矢諏訪子の声が。
彼女に取り付かせたFFの小さな分身から、


「アンタ、泳ぎは得意かい? って、聞くまでもないか。さっきは泳いで来てたもんね」


FFの脚を奪い、そのまま膂力の差で押し切ろうとしたディエゴだったが、
足下の異変に気づき、飛び退こうとする。否、飛び退こうとした。

だが、そこで脚を何かに捕まれたのだ。ぬかるんだ地面から生える、泥の腕に。


「足を……貴様!」

「何を驚くことがある? お前と同じ手を使わせてもらっただけだ……」


ディエゴの足下から、ヒトならざるモノの低い声が響く。
泥の中から出現したのは、FFの……本体。
十六夜咲夜の抜け殻は糸の切れた人形のように泥の中へと沈んでゆく。

ディエゴは鉤爪を振るい、FFの腕を切り落とそうとするが、もう遅い。

地面が急速に泡立ち、泥水へと変わってゆく。そのままディエゴとFFは、もつれ合うようにして湖へと沈んでいった。


◇     ◇

そこは、ほの暗い、水の牢獄。
ごおおおお、と、冷たい水の流れる音だけが青娥の耳を満たしている。
青娥の真上、淡く輝く水面で、揺らめく諏訪子の影が、今も殺気を放ち続けている。
未だ青娥は、諏訪子の起こした水流によって水底に釘付けにされていた。
オアシスで強化された身体能力でも、その流れに逆らって泳ぐことは不可能。
ならば、と青娥は水底をドロ化させ、湖底の地中に隠れようと試みるが、
スタンド能力で水底をドロ化させるたびに、激しい水流で泥が流れ去り、地中に潜ることもできない。


(さて、どうしたものかしら。ディエゴくんが助けに来てくれたら良いけど)


ここにきて青娥がようやく僅かに焦り始める。
いかな尸解仙とはいえ、ずっと水中に潜って息が続くはずもなく。
あの祟り神は自分たちを本気で殺す気で、それを成す力があるのだと、ようやく実感する。
もっとも、そうでなければ、DIO様のおメガネに掛かるハズがないのだが。


(それにしても諏訪子様ったら、何も本気で私を殺しに来ることないじゃない。
 そりゃあ、ちょっぴり揺さぶりをかけるつもりで、怒らせてみようとはしたんだけど)


青娥はぷんぷんと頬をふくらませながら水面の諏訪子を見上げる。


(そりゃあ確かに、あの早苗って子は家族も同然なのかも知れないわ。
 不死身のスタンドをけしかけたのは確かに私で、12時になったらあの子の名前は確実に呼ばれるわ。
 ……でも、仕方ないじゃない。不死身で制御不能のスタンドなんて面白いモノ、使ってみないわけにはいかないじゃない。
 それにあの子たち、DIO様の敵と同行してたんだし。あんな面白い人[悪のカリスマ]、後にも先にも絶対に逢えないわ。
 それに比べたら、早苗ちゃんたちのありふれた命なんて、些細なものよ。……仕方ないじゃない。
 私はただ、面白い事をしようとしただけ。それなのに私が殺されるなんて、間違ってるわ)


心中で身勝手な恨み言をつぶやいていると、仄明るく輝く水面に一つの影が映り込んだ。
恐竜化したディエゴ・ブランドー。
水中に落ち、諏訪子の起こした水流に乗せられて青娥の元へと流されてきている。
何か黒い泥のようなモノにまとわりつかれている様に見える。
あの、十六夜咲夜らしき何者かのスタンド攻撃を受けているのか。


(まったく、アテにしてたのにディエゴくんたら使えないわねー。
 ……ってあれ? これホントにマズくないかしら。詰んでない?)


呑気していた青娥も流石にこれには生命の危機を感じた。
が、もう遅すぎる――そう悟り始めた時に、隣のディエゴに異変が起こりつつあることに、青娥は気付いたのだ。


◯                     ◯
              ◯               ◯
         ◯          ◯
                           ◯
          ◯
                        ◯
     ◯
                     ◯



「あああ!! ディエゴッ!!」


――遠くから、若い女の叫びが聞こえる。
忘れようとして、忘れられないでいる女の叫びが。


「ディエゴッ!! ディオッーー! ディオォォーーーッ」


女の声は、大雨と濁流でところどころかき消されながらも、段々と近づいてきている。
その女は――大雨で増水した川を泳いできているのだ。半分溺れかけながら。


「ああ~~~~っ い…生きてるわ…………!」


そいつは遂にオレを抱え上げ、歓喜の叫びを上げた。
そう、オレは濁流の中で女に軽々と抱え上げられる程に小さかったのだ、その頃は。
これほど昔の事、普通は覚えているハズがないが――。
――間違いなく、オレの生まれて間もない頃に実際にあったこと。
俺は、あの女と一緒に大雨で川に流され、流された先の農場に拾われたのだ。


「なんて命の力の強い子! ごめんなさい! ごめんなさい!
 もう二度と! …………決してしない! ありがとう神さま!!」


◯                     ◯
              ◯               ◯
         ◯          ◯
                           ◯
          ◯
                        ◯
     ◯
                     ◯



(……黙れ!!)


濁流の記憶の中で聞こえてきたその言葉に、ディエゴは言い知れぬ嫌悪感を憶えた。
水を肺に吹い込み、気を失いかけていたディエゴは、その虫唾が走るような感覚で、目を覚ました。
見開いた視界の先には、こちらを溺死させようと無慈悲に水流をぶつけ続ける、
『神さま』――洩矢諏訪子の影。


(神がなんだ!?)


あの女がその時感謝を捧げた『神サマ』とやらが、あの女に何をした?
あの女に何を与えた?

農園に拾われた俺たちは家畜同然の扱いで働かされ、
あの女は俺たちを拾った男に不倫相手として迫られ、
最後にはつまらねぇプライドを守って死んでいきやがった。

『神サマ』はオレたちに、何一つ救いをもたらさなかったのだ。

天涯孤独になったオレはのし上がる為に何でもやった。
神サマとやらが実在するなら、地獄に落とされるに違いないことも。
オレの世界に神などいない。
いたとしても、オレの方を見てはいない。だから、出し抜いてやっただけだ。

それが今になって――今になって!

その神サマとやらがオレを殺しに来た、だと!?
救いの手を差し延べなかったオレに、犯した罪の裁きだけはきっちり与えに来たか?
神サマとやらは、居て欲しい時に居ない癖に、邪魔な時には現れやがるか!

オレの運命を弄び、高みから嘲笑うのが、神か!

呑気に人間の上位者を気取りやがって、人間の信仰なしには存在できない寄生虫どもが!!
そしてその存在を支え続ける、気取った人間どもと、この世界[ゲンソウキョウ]!!

有罪だ――!
どいつも、こいつも――有罪だ!!

オレは、お前たちの存在を、否定する!!
たとえお前たちが確かに存在していようと、目の前から否定する!!
お前たちが目の前にいようと、神などくだらない存在であると、
牛のクソにも劣る取るに足らない存在であると、証明してみせる!!


(『スケアリー・モンスターズ』……!)


ディエゴはそのスタンドの名を、叫ぶ。声には出なくとも、確かにその名を、心で叫んだ。
全身をプランクトンにまとわりつかれ、碌にもがくこともできない体で天を――神を睨みつけながら。

霍青娥はしめた、と思う。
ディエゴの姿が――今までにないモノに変貌しつつあった。
この男は、この万事休すかに思われた状況でも、まだ切り札を残している。
それなりの器ではあるが、まだまだ人間の範囲内、そう思っていた。
青娥はディエゴに対してせいぜいDIOの縮小コピーのような印象しか持っていなかった。
だが、これは嬉しい誤算だった。
ならば、今の青娥にできることは――。


『にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃん!!
 にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃん!!』


青娥はオアシスの能力でがむしゃらに水底を殴りだした。
それは諏訪子には、死に際の最期の悪あがきにしか見えないことだろう。
いくら水底の石をドロ化させても、諏訪子の生み出す水流で周辺に巻き上げられ、流れ去ってしまうからだ。

だがそれこそが今回の目的。
水流に乗ったドロが、周囲を煙幕のように黒く覆った。もちろんディエゴも。
そしてディエゴたちの姿が隠れた事を確認すると、ディエゴを真横に蹴り飛ばした。
より正確には、二人を沈める水流の中心から、脚力で押し出したのだ。

今までこの手を使わかったのは、無駄だったから。
流れの中心から一時的にでも離れれば、いくらか流れは弱くなるが、
それでも二人に振り切ることのできない水流だったのが明らかだったからだ。
しかし、今度のディエゴは――。

◆     ◆

ディエゴは想像した。
敬意も、神への祈りも知らぬ『恐るべき魔物[スケアリーモンスター]』たちが、世界の全てを統べていた頃の姿を。
陸を走る二本足の姿、空を渡る皮膜の姿――そして、水の中――海を行く姿。

鋭い鉤爪の生えていた前足と後足は、舟のオールの様に平たく薄く、水をかく為の形状に。
水の抵抗を減らす為、頭は小さく胴はコンパクトに。
流線型のシルエットに、二対のヒレ。
それは、ジュラ紀と白亜紀の海を支配した爬虫類、首長竜の一種。
その名は、プレシオサウルス[爬虫類に似たもの]。
魚類と爬虫類の合いの子と呼ばれたその姿は――爬虫類が泳ぐために進化し、魚の姿へと収斂した結果。

水中への適応でエネルギーを取り戻したスタンドが――その支配力を回復させる。
青黒いFFの体が、ディエゴの皮膚に触れた箇所から赤茶に変色しだす。
変色したプランクトン一匹一匹が、恐竜化し、反撃を開始した。
突如ミクロスケールの大戦を挑まれ、動きの鈍ったFFの、頭部がちぎれ飛ぶ。
自由になったディエゴの、長い首が振り抜かれていた。

隣で水底に貼り付けにされていた青娥の視線が、ディエゴの視界に入る。
青娥は黙って微笑み頷くと、ディエゴを真横に蹴り飛ばした。
二人を沈める水流から、脚力で押し出したのだ。

◇     ◇


「GUOHHHHH!」


洩矢諏訪子が、もうもうと土煙の上がる水底から獰猛な叫びを聞く。
信じ難い、あの水流をかわし、浮上してくるというのか?
土煙の中から姿を現したのは、一匹の首長竜。
あのディエゴのスタンドの能力、なのか。
外界の本によれば正確には恐竜ではなかったハズだが、それは先ほどの翼竜も同じこと。
広義で恐竜と呼ばれる生物なら、融通が利くらしい。

未だ水底に沈め続けている青娥だけでも仕留めたかったが、そうもいかない。
首長竜と化したディエゴが、すぐそこまで迫っている。
諏訪子は青娥を水底に押さえつける水流を一旦止め、どこからともなく鉄の輪を創りだした。
そしてムチのようにしなる長い首に生えた牙を、鉄輪で防ぐ。
首長竜はもともと魚食性。水中での遊泳能力を得た代わりに、攻撃力が格段に落ちている。

諏訪子はディエゴの牙を躱しながら、水面を目指した。
あの姿なら、水中は得意でも、逆に水の上は不得手なはず。
神であるこちらは水中で息が続くだけでなく、水面の上に立って、陸上と同様に動くことができる。
空気を求めて浮上してくるであろう、青娥を叩くにも都合がいい。

と、そこで、件の霍青娥の、キャラメルのように甘い声が聞こえてきた。


「……そうそう、言い忘れていたことがあったんだけど」


水面から。
諏訪子が視線だけを向けるが、姿が見えない。声だけが聞こえる。
いや、それよりも、どうやって――?
水中を得意とする諏訪子よりも、この首長竜よりも、どうやって早く浮上したのか。
諏訪子の脳裏を過る疑問は、青娥の放った次の一言で霧散する。


「諏訪子サマ! ごめんなさい! 諏訪子サマ!
 早苗ちゃんを殺したのは、この私なの! 本当にごめんなさい!」


霍青娥が、心底申し訳無さそうな声で謝罪を始めたのだ。
諏訪子の真上に姿を表し、河童のモノと思しき光学迷彩のコートを脱ぎ捨てた霍青娥が。


「人格を持たない、ただ動くモノを喰い殺すだけの不死身のスタンドは、私がけしかけたのよ!
 だから、早苗ちゃんを殺したのは私のようなもの!
 本当に、ほんっとーに! ごめんなさい!!」


あの霍青娥が。本当に申し訳ないという表情を作り、手を合わせて頭まで下げてきた。
あの霍青娥が。目一杯に白々しい演技で、こちらに謝ってきている。

諏訪子は全身の血が熱くなる感覚を憶えた。
怒り心頭に発するとは、まさにこの時の事を言うのだろう。
妙に醒めた精神がそんな事を考えていた。
ただ肉体だけが怒りにたぎる血に突き動かされ、青娥目掛けて急速に浮上していた。
――それが悪手であるのは、明らかだったというのに。

首長竜でも追いつくことができない加速で浮上する諏訪子だったが、そのつま先を、
僅かにディエゴの牙が掠めたのだ。

左足の自由が段々と奪われていく。
あと何秒、諏訪子は諏訪子でいられるのか。
その間に、この女だけは、霍青娥だけは――。
諏訪子が必死に水を掻く。
そして諏訪子の振るう鉄輪が青娥に届こうとした瞬間、


「GOAAAAAHH!」


今度は右脚にディエゴが食らいついた。
左足の分だけ速度が鈍り、ディエゴに追いつかれたのだ。
そして両脚から急速に恐竜化してゆく諏訪子の前に、土色のボディスーツを纏った青娥が悠々と近づいてくる。
諏訪子が二の腕まで鱗に覆われた腕で鉄輪を振るうが、青娥は左手でそっとそれを受け止めた。
そして目にも止まらぬ速さで手刀を振るい、諏訪子の右腕、右脚を付け根から斬り落としたのだった。


「早苗を、よくも……祟ってやる……絶対ニ……」


全身を恐竜化されてゆく諏訪子の最後の言葉。
それを聞いた青娥は、失望したようにため息の泡を吐いた。

二人が湖中から顔を出すと、雨粒が水面を叩く音が聞こえた。
諏訪子のスペルカードが呼び水となったのか、本当に雨が振り出している。


「ああ……つまらないわ。
 神様といっても、貴女も結局、家族を想うという、ありふれた凡庸な欲の持ち主でしかないのですわ。
 もっと人間には及びもつかないような、高尚で遠大な欲を期待していましたのに」

「フン。こんな奴が、神サマであるものかよ。
 ……もし本当にそうだとしても、徹底的に貶めて、神サマでいられなくしてやるさ」

「……厳密には、貴方の国の神様とは違う存在だと思うのだけど、ディエゴくん?」

「気取った人間どもの生み出したモノに……違いなんて、認めないぜ」

「でも、今回は流石にちょっとヤバいって思っちゃったわ。
 土壇場であんな切り札を出すなんて……命の力の強い子だわ、ディエゴくん」

「………………」


それは青娥の素直な賛辞であったが、何か思うことがあったのか、ディエゴは急に黙りこくってしまったのだった。


◆     ◆

岸には森の中を迂回してきた恐竜・八雲紫が、忠犬よろしく行儀よく座って待機していた。
青娥は左の前後の脚がもがれた恐竜、洩矢諏訪子の成れの果てを陸へと押し上げた。
彼女の手足の傷口は、恐竜化させた際に塞いである。
洩矢諏訪子はこの場では死なすわけにはいかない。DIOへの捧げ物として、生け捕りにする必要がある。
青娥たちが陸に上がっても、雨は止むことなく降り続いていた。


「あー、それにしても酷い目に遭いましたわー。
 服が完全にびしょびしょ」


陸に上がった青娥が首を傾け、耳に入った水を出しながら言う。


「ねーえ、ディエゴくん、服とか透けちゃってなーい?」


青娥はこれみよがしに体をかがめ、ちょうど岸に乗り上げようとするディエゴにたずねる。


「いいから早くバイクを出せよ」


ディエゴ全く意に介さないどころか、声色には明らかに苛立ちが混ざっている。
ディエゴのつれない反応に少ししょんぼりしながら、青娥は懐に納めていた紙を広げた。
そして、中から飛び出したバイクのスロットルレバーをひねり、エンジンが掛かったことに安堵したところで、


「あら……? 何か忘れてないかしら?」


と、青娥は小首を傾げた。確か敵は3人いた。
洩矢諏訪子は恐竜化して、既に手の中。
確かFF、と呼ばれていた不定形の生物は、水中でディエゴに噛みちぎられ、まだ浮かんでこない。
あと一人いた。が、ディエゴに瞬殺されたし、正直どうでもいい存在だと、青娥は記憶している。
だが、どうでもいい存在ながら、アレは貴重なモノを持っていたはずだ。


「そうだ、DISC……DISCは、どこにいったのかしら?」


青娥が周囲を見回す。まず目に付くのは、直径50mに渡って、半球状にえぐれてできた入江。
つい数分前に、青娥と諏訪子の共同作業によって出来た地形だ。
あのDISCが落ちているとすれば、そこより東、紅魔館側。青娥達の現在地の対岸だ。
青娥が目を凝らすが、DISCを持ったあの傘は転がっていない。下駄を履いた脚だけが残っている。


「あーあ……湖に沈んでしまったのかしら」


まあ、沈んでしまったモノは後から取りに行けば良い。
水中であれば誰かに拾われる心配もまずないだろう。
――と気を取り直し、バイクに跨がろうとした所である。


「なんだ、『ある』じゃない……DISC」


青娥たちの上空に、空色の影が、溶けた絵の具の様に流れてきた。
水に流れる絵具のようにおぼろげだったそれが、雨滴と融け合うようにしてヒトらしきモノの形を成し、
ついには一人の少女の実体を結んだのだった。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2016年06月22日 20:08