羽根亡キ少女ヲ謳ウ唄

木漏れ日から洩れる黄金色の疎らな線を彼女は今までにどれだけ見てきただろうか。
その悠久たる人生の中で太陽が昇り、月が顔を出し、春が訪れ、冬が到来し、その周期も数百を超えたところで彼女は数えるのをやめた。
いくら数えたところでお天道様はこれからも絶えず地平の彼方から昇り続けるだろうし、その光景は永劫不変のものなのだろう。

いい加減に見飽きたその光景を、しかし彼女は心奪われたようにじっと眺め続ける。
魔法の森の入り口に立って、東の地平の光源へと向けたその瞳は魂でも抜けたように動かない。
その美しい光景に見惚れていたわけではない。もとより普段から見る幻想郷の姿なのだ。
むしろ彼女の心を占めていたのは果てしない『寂しさ』。そして『恐怖』。

この太陽の下、日々を過ごしていた頃が最早懐かしい。昨日までの日常を思うと、とてつもなく寂しく感じる。
この太陽を二度と拝めなくなるかもしれない。これから始まる永い一日を思うと、ひどく恐怖を覚える。


―――ああ、自分はこれほどまでにこの世界を愛していたんだな。


口の中で溶けた言葉を、噛み締める。

ふと、視界がうっすらとぼやけてきた。その綺麗な髪の色と同じくらい白い指で頬に触れてみる。
――なんてことだろう、またしても自分は泣いているのか。
指先に触れた小さな真珠を拭いつつ、そんなちっぽけな自分に嫌気が差す。
今の私に比べたら、あの光り輝く黄金の真珠の何と大きいことか。
直視できない眩しさに、否が応でも孤独感を憶えてしまう。

そんな日の光から逃げるように、彼女は目を背ける。今日で見納めになるかもしれない日の出を最後まで見る気にはなれなかった。
自分はこれほどまでに弱かったのか。涙を拭きながら思う。
もはやゲーム開始時の意気込みも何処へやら。今の自分は進む『路』すら見出せない、人間以下の人形同然。
フッ、と小さな笑みが自虐気味に漏れる。これが笑わずにいられるか。


それでも、生きたい。
今はそれだけでいい。生きてさえいれば、自分自身の光の路が見えてくるかもしれないから。
その路はあの太陽に負けないぐらい爛々と光り輝くモノへ成長し、いずれは私自身をも成長させてくれることを祈って。

今は、頑張って生きよう。




「おーい、どうしたー?お前が森の中を進もうと言ったんだぞー?一人で行っちゃうからなー!」


背後から随分能天気な声が私の耳を貫いた。
その緊張感皆無な大声に私は思わずクスリと笑い、ピョンピョン跳ねる彼女の元へ太陽を背にして向かう。

この朝日を、明日からまた見られるように。



「―――うん。今行くよ、芳香!」




ああ、今の私は一人なんかじゃないんだ。




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『藤原妹紅』
【早朝】C-5 魔法の森


マイペースなキョンシー、宮古芳香とある意味奇妙な出会いを遂げた妹紅は、彼女の主である青娥と会うために魔法の森を渡り歩いていた。
崩れかけた自身の心を意図もせずにだが立ち直させてくれた芳香。
現在の妹紅の唯一と言っても良い心の拠り所である芳香の手伝いをしたい。
せめて今の自分に出来ることはそれだと、妹紅は小さく決心して芳香の横に並んで歩く。

それにしてもこの芳香という人物は色々と危なっかしい。
あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。何か興味のある物を見つけたら屈み込んでジッと見つめる。
かと思えば、思い出したようにまた行動を再開して歩き出す。
キョンシーとは皆こうなのか、妹紅はそう思いながらも芳香を急かすことなくゆっくりとここまで歩いてきた。
幼い子供のような芳香の行動に微笑を浮かべて目で追う妹紅にも、先ほどまでと比べてかなりの心の余裕が生まれている。


ふと、上を見上げてみた。
深い森ゆえに空が見えることは無かったが、なんとも気持ちの良い日差しが木々から漏れて地面に点々と彩を作っている。
まだ森の入り口なので日差しも多く照らされているが、中心部へと近づくに連れてここは光の当たらない怪奇な場所となってくる。
マイフィールドである迷いの竹林には詳しい妹紅も、この魔法の森にはさほど土地勘があるわけでも無い。
よって無駄に迷うのを阻止する為、比較的森の外周に添うような形で現在二人は北上していた。

わざわざ森の中を進んでいるのも、少しでも敵と遭遇する確率を減らすため。
万が一襲撃に遭っても、この地形を利用して多少は逃走の成功率も上がる。
とことん臆病な性格まで堕ちたもんだと、行路を提案した自らに嫌な気分になる。
とはいえもしも今襲われたら、武器も無い自分たちに果たしてどこまで抵抗できるのか。まともに弾幕を生み出せるかすら怪しい。

相変わらず妹紅の体調は精神的なものも含めて最悪だった。
二人の当面の目的地は地図でいうE-4の墓場。何故そこなのかと聞いても、芳香は何となくだ、の一点張り。
全く根拠も無いし距離も離れていたが、どうやら芳香は何故か最初からその場所に行きたがっていたようで、妹紅もとりあえずそこを目指すことにした。
墓場までの行程、敵に襲撃される可能性を考えないわけにはいかない。
そしてこの酷い体調で戦うというのはどうにも現実的ではない。
ならば最大限、敵に会わずに進む事を考えようという後ろ向きな思考のもと、妹紅は足を進める。

情けなさを通り越して怒りすら憶えてくるような消極的思考だが、今の彼女に出来るのはこれが精一杯。
敵に会いたくない。
死にたくない。
この二つばかりが妹紅の思考の大部分を占めていた。

そのうえで目的を達成しようとは随分虫のいい話だとも彼女は思っていたが、それで芳香のためになるならそれでいいではないか。
わざわざ戦場の真横を通って買い物に出掛ける奴は居ない。
危機感無く歩く芳香を横目で見ながら、妹紅は考えるのだった。



「芳香、ちょっと待って」

「んぉ?どうした妹紅、何故座る?お腹痛いのか?」

「違うわよ。もう放送の時間。これを聞き逃したら大変よ」

「包装…?何を包むんだ?おむすびか?」

どこまでも食い気の芳香のボケに、妹紅は軽く笑いつつ地図と筆記用具を取り出す。
見ると、時計の針は5時59分を指していた。
適当な石の上に腰を落とし、メモの用意をする。
主催者が言うには、これから死亡者のリストと禁止エリアの発表があるらしい。
この先の命の安全に直結する大事な情報の記録。何があろうとも、これだけは絶対に欠かしてはいけない行為だ。


―――死亡者リスト。

妹紅はふと、自分にとって縁のある二人の顔を脳裏に思い描く。

文字通り、永遠の敵である『蓬莱山 輝夜』。
これまでにずっと世話になってきた友人『上白沢 慧音』。

己のことで一杯だった妹紅は今まで彼女らのことまで考える余裕はとても無かったが、放送直前になった今、途端に心配になってきた。
自分の強さにはそこそこ自信もあった妹紅だが、現在は見るも無様。輝夜辺りに見せたら腹を抱えて笑い飛ばされそうな姿である。
私がこのザマだ。ならば彼女ら二人は無事なんだろうか?輝夜はともかく慧音は心配だ。



(あいつら、大丈夫かなぁ……生きてるといいなぁ…………もう一度会えるかなぁ……)

永い永い人生の中、妹紅は多くの別れを経験してきた。
それは蓬莱人という体質上、仕方の無い経験だったし、妹紅もいつしかそれを当たり前の出来事だと思い、感傷をひた隠しにしてきた。
そして彼女はついに人との関わりをも避け、『出会い』も『別れ』も拒絶しようとした。
そんな非生産的な日常も数百年を経て、この幻想郷へと辿り着いたことで変化が訪れる。

宿敵と再会した。彼女とは今でも楽しく殺し合っている。

友人も出来た。久しく忘れていた温かみが妹紅の心を癒した。

この二人とも時が経てばいずれ別れが訪れるのだろう。
そんなことは分かりきっていたが、その別れの時がまさか今日にも訪れるかもしれないと思うと、いてもたってもいられない。
いや、今日どころか既に別れの言葉すら言えずに二人は手の届かぬ場所まで行ってしまったのかもしれないのだ。
それとも二度と戻れぬ遠い場所まで行ってしまうのはもしや自分かもしれない。

ゾクゾクと、妹紅は震える身体を押さえ付ける。
『あの』感覚を思い出してしまった。
堕ちたら永遠に這い上がってこれない、底深い深淵の闇。
つい先刻に何度も体験してしまった、完全なる『虚無』の空間。
またもそこに放り込まれれば今度と言う今度こそ戻ってこれない気がする。


(ええいッ!あの時の体験はもう思い出さないって決めただろッ!しっかりしろよ私ッ!)


首をブンブンと振り、パシンと頬を両手で一喝。気合を入れなおす妹紅。
終わったことをいつまでもグズグズ嘆いてる場合じゃない。今はとにかく放送に耳を傾けろ。
心中でそう叱咤し、ペンを手に持ち直す。


『マイクテスト、マイクテスト……』




丁度その時だった。
耳障りなノイズと共に6時を表す放送が朝を告げた。
不思議なことにその声は頭の中に直接語りかけてきているかの如く、芯に響く音声であった。
周りを見渡しても拡声機のような設備も無い。やはり爆弾と一緒に脳を弄られているのだろうか。

ついぞ数時間前に聞いたばかりの忌々しい声が癇に障る。
最初の会場でルール説明を聞いていた時、秋の神様が出ていかなかったら奴らに突っかかっていたのは私の方かもしれない。
そしてあっけなく散ったのも、私の方かもしれない。
それを思いながら、私は背筋の凍る気持ちで放送を耳に入れていた。
最初こそ打倒主催を心掛けていたが、今の私にその熱い気持ちは既に鎮火しており、見る影も無い。
死ぬかもしれない、そんな恐怖が底から湧き上がり、心を縛る。

何気なくチラリと横を見れば、芳香が間抜けな顔して大あくびをかいていた。
ゲームのルールは殆ど理解していないのだろう。放送には全く興味が無いようだった。
つられて妹紅もやれやれと軽い溜息を出すが、そんな芳香の姿に何よりも救われる。
次の放送までにも何事無く、芳香と共に生き延びたい。
儚い想いを胸に抱き、先行きを思う。


そんな妹紅の複雑な心など知る由も無い主催の放送内容は、いよいよ要の部分にまでさしかかった。


『さて、お喋りはこれくらいにして本来の放送に移るとしよう。
先ずはこれまでに脱落した者たちの発表だ』


ここだ。放送の肝はここからの死亡者リスト。
妹紅は一層真剣な面持ちになって放送の声に意識を集中させる。
彼女にとって心を許せる知り合いなどはこの幻想郷にそうは居ない。
要は輝夜、慧音の二人さえ名を呼ばれなければそれで幾らかは安心できる。


(呼ばれないで…!呼ばれないで…!呼ばれないで…!呼ばれないで…!呼ばれないで…!)


念仏のように心の中で唱え続ける。いつの間にか妹紅の背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
カタカタとペンを持つ手まで震えてきた。たかだか放送ひとつに本当に情けない姿だと、自らを卑下する。
慧音はともかく輝夜に対してここまでの感情を持っていたとは、自分のことながら今更驚く。
ゴクリと喉を鳴らし、放送の声を待つ。


そして主催が、出席でも取るかのような事務的口調で、一人目の名前から呼び始めた。





「―――グイード・ミスタ、ナズーリン、タルカス、伊吹萃  ドスッ  香、紅美鈴、十六夜咲夜―――」



――ピチャリ。







―――ん……?今、途中で変な音が入らなかった…?


なんだろう、鈍く、弾けるような音が…………




後ろから……聞こえた……ような………






不審な物音に振り向こうとする直前、妹紅は自分の左腕の袖に小さな異常を発見した。
和を彩る衣によく溶け込むかのような色彩の赤黒い染みは、触れればドロっとする感触であり、それはまるで――



(―――血……?)



血。
誰の?
なにコレ。
いつ付いた?
最初からあったっけ?



指に触れた液体を怪訝な視線で見つめながら、ゆっくり…ゆっくりと、私は背後を振り返った。

そこには予想通り、芳香が立っていた。

予想と少し違ったのは、彼女が何故かこちらに背中を向けて呆然と突っ立っていたこと。

後ろ姿なので表情は見えないけど、身体がピクリとも動いていない。

更によく見れば――いや、ほんとは最初から気付いていたけど、彼女の背中から何か紅い棒状の物が突き出ている。

その『何か』は、芳香の背中を突き破って私の目と鼻の先にまで伸びてきており、舌を出せば届くんじゃないかって距離でピタリと止まっていた。

その棒状の『何か』の先端は刀のように鋭く尖っており、切っ先からポタポタと紅い液体が滴り落ちている。

この棒状の物がなんなのか、近すぎてよく分からない。

何でそんな物が芳香の背中から突き出ているのかも理解できない。

そして、何で芳香が私の前に立ち塞がっているのか、何もかも意味が分からなかった。



それじゃあまるで、私を庇って攻撃を受けたみたいじゃない。



―――攻撃…?

頭の中で自然に浮かんだその単語が、次第に膨れ上がって脳内をグルグル駆け巡る。

放送で呼ばれ続ける名前が幾つか耳に入ってくるが、頭の中には何一つ残らない。

私は思わず指先で触れた液体を、もう一度じっくり見つめ直した。

この鮮血は、芳香の体内から飛び漏れたものだ。

キョンシーにも赤い血が流れてるんだな、なんて場違いな思考が過ぎったのは、現実逃避への自衛行為からだろうか。

視界に映る鮮血を見た私の脳裏に、一瞬『あの』記憶がフラッシュバックした。

迫り来る弾丸。男の『漆黒の殺意』。この世の何よりも真っ暗な『虚無』。

気付けば身体中が震え、足もすくんで立てない。声すら出せなかった。

最悪の現実が、声に出したくても出せない。

代わりに、その現実を私に教えてくれたのは他ならぬ彼女自身であった。






「―――妹紅、気を付けろ。攻撃されているぞ。誰かいる」




絡繰人形にように首だけをこちらにキリキリ回し、私に警告を発する芳香。
その表情は、胴体を貫かれているというのに全くの無表情で、痛みを感じているようには見えなかった。
あぁ、キョンシーって痛覚が無いんだっけ。
だが、痛みを感じないだけでキョンシーにも『死』はある。不死の私ですらこの世界では死ぬのだから。


「あ、あぁ……!芳、香…!生きてるのッ!?
よかっ……と、とにかくッ!その、『それ』を、ひきっ…引き抜かないと…!」

芳香の極めて冷静な声で一気に現実に引き戻された私は、しどろもどろになりながらも何とか声を絞り出せた。
泣きそうな声と顔で芳香の背から突き抜けたそれを握り締め、引っ張り出そうとする。
芳香の体内から流れ滴る血液で塗れたそれは、よく見たら『薙刀』のようだった。
腹から背にかけてこんな得物が突き刺さっているというのに、芳香は至って表情を崩そうとしない。
その冷静さが逆に私をどんどん焦らせた。

「い、今引っ張り出してあげるッ!じっとしてて…ッ!」

「いや妹紅、私はいい。それより誰かがこっちを狙ってるぞ。お前、早く逃げろ」

纏わり付く血のせいでうまく棒が握れない。得物が取り出せない。
芳香は逃げろというが、私は聞く耳持たずにコイツを引っ張り出すのに必死だ。

逃げろだって?アンタ、私を庇ってこんな目に遭ったんじゃないの?
この敵は明らかに私を狙って武器を投擲してきた。
私は放送を聞くのに夢中で、完全に周囲への警戒を怠っていたからだ。
つまりこの敵、『敢えて』放送が始まった瞬間に私を狙ってきたんだ。

死亡者のリストを聞き入れようと、獲物が完全に隙だらけになるその時をジッと待ち構えてッ!!



(クソ!クソォ!なんだこの『敵』はッ!いつから私たちに近づいて来たんだッ!
どこから私たちを見ているッ!?『殺し』に迷いが無いッ!!どこのどいつだッ!?)


得物を引っ張り出そうとしながら私は周囲を見渡す。
森林内は既に視界も明るいが、大きな木々や草葉の茂みも多く、敵の姿が見えない。
さっきのあの男とは違って、今度の奴は完全に私たち二人を殺すつもりで襲ってきているッ!
おまけに今回は正々堂々の早撃ち、ではなく姿を隠しながらでの不意打ち!話の通じる相手じゃないッ!

「おい妹紅、もう無理だ、私は。心臓はギリギリ外れているが、血を流し過ぎてしまった。
キョンシーだから死にはしないが、なんか体がうまく動かない。
見ろ。キョンシーにも赤い血は流れてるんだな。ひとつ発見したぞ」

「うるさいッ!私と同じリアクションしないでよッ!私のせいであんたがこんな目に遭うなんて…そんなの駄目だッ!」


私が喚きながら刺さった武器を抜こうと躍起になっているその時、周囲がカッと大きく光った。
四方八方に浮く光の弾の正体が太陽の陽射しでなければ、無数の弾幕に間違いない。
終わった。この敵は最初から首尾よく弾幕まで配置していたんだ。
私たちの周囲半径三十メートルの位置から、数え切れないほどの弾幕レーザーが一直線に向かってくる。

これだ…!敵は全てこの攻撃のために待っていた…!

私たちを発見し、周囲に弾幕を準備し、放送の時を待ち構え、まず隙だらけの私を射抜いて、最後に一気に沈めるッ!

全てはこの敵が思い描いた『デザイン』として用意されていたんだッ!





「うああああああああぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁあああああぁぁああッッ!!!!」



私は完全に自暴自棄に陥り、生み出せる限りの焔を滅多矢鱈に撃ち出した。
この光景は、さっきも体験したばかりの状況。
わけもわからず、恐怖を振り払うように目標無き焔の弾丸をばら撒く。
あのリンゴォにもまるで通用しなかった攻撃を、私は今また同じ様に繰り返している。
放った焔の乱れ矢は、当然のように木々や地面を焦がすばかりで、敵を捕らえることなく消失していく。

駄目だ。避けられない。
回避不能の容赦無き弾幕が、私の周りを包み込む。
眼前に迫った無数の輝く光条が私の身体中に風穴を空ける。
そんな一瞬先の未来を想像し、頭の中が真っ白になった。

足を一歩踏み外したその先の、無限が如き奈落の闇に私は永遠に堕ち続けるのか。
手を伸ばしても、誰一人として掴んでくれない。誰も助けに来ない。
私が最期の須臾ほどに短い一瞬の狭間で感じたのは、そんなどうしようもない孤独感。絶望感。



「―――――ぁ…死ん」



その須臾の間に発した、私のこの世で最期になるであろう言葉は、漏れ出した空気のように一瞬で、儚くて、意味の無いモノだった。


身体の力が抜け、グラリと地に臥す。
目の前の影が機敏に動く。反転する視界。染まる紅飛沫。
この光景も以前に見た。何度も何度も、見せられた死の刹那の画。

違う所があるならば、『あの時』と違って、世界は色を失っていなかった。
あるのは、木々の新緑と、飛び散る紅と、光の白。
なにより、私の意識はまだある。



私はいつのまにか仰向けに倒れていた。
否。倒されていた。


目の前で、私を覆うように庇ってくれた芳香の表情が、私には笑顔に見えた。
ポタポタと私の頬に彼女の血が滴り落ちる。
見れば、芳香の身体中にはレーザーで貫かれた穴が痛々しげに空いている。

首を動かしてもっとよく見れば、右腕も千切れている。左脚も膝から先が吹き飛んでいる。
胴体を薙刀で貫かれたまま、私をまたしても庇って受けた無数の傷は最早致命傷と言っても相違無い。
そんな彼女が苦しげに呟いた言葉は、未だに脳内から大音量で流れている放送の声よりも余程鮮明に、私の耳へ優しく届く。





「……おぅ、もこう。また、ないてんのか。
はは。みためより、なきむし、だな。おまえ」



この時、私は悟った。
芳香は、すぐに死ぬ。
私を二度も庇った傷で、『あの場所』へ旅立ってしまう。

なんで。なんでよ。
な、んで……



「芳香!!アンタ、なんで、私なんかを庇って…ッ!」

「ん、なんでだと?そん、なのおまえ…きまって、るだろう。
もこうが、しぬのを、わたしはいや、だからに、きまってるから、じゃないか」

「馬鹿ッ!!アンタが死んだら意味無いじゃないッ!!
なんで…!なんでこんな、私みたいな死に損ない、を……!」

「そりゃあおまえ、もこうは、いいやつ、だからな。しぬのは、なにより、よくないこと、だぞ」



今までに何度、人の死を見てきたか分からない。
それは不死を生きる者の『宿命』であり、避けられない『呪縛』だった。
そんな呪われた宿命が嫌で、私は人との関係から一方的に逃げてきた。
だというのに、待ち構えていた運命は再び私を残酷な宿命の檻に放り投げた。

敵がすぐそこに居るのにも関わらず、枯れ果てた涙がまたも私の視界を朧にし始める。
胴の傷に触れないよう、みっともなく芳香の胸に泣きつく私を芳香は静かに宥めた。


「いーこ…いーこ…だぞ、もこう。おまえは、いいこ、だから、しぬのが、よくない。
だから、たて。わたしはいっぽん、なくなったが、おまえには、おやからもらった、あしがある。まだあるける」

母親のような慈愛で芳香は私に勇気を分け与える。
そういう芳香は、片腕片脚の状態ながらも、フラフラと立ち上がって私の頭をそっと撫でてくれた。
その優しさに触れ、私は嗚咽を漏らしながら子供のように泣きじゃくる。
芳香は頭を撫でる間、とても死人とは思えないような綺麗な笑顔をしていた。


しかし、その笑顔もすぐに凶気なモノへと変貌していく。


カサリと、私の背後で草木を掻き歩く音が聞こえた。



驚き振り向いた私のぼやけた視界に映ったのは、焦げた大木の陰から現れた『敵』の姿。

『彼女』は極めてゆっくりと、無表情で私たちに近づいて来る。
いや、無表情に見えてその実、あの仮面の裏では私たちを次にどう追い詰めようかを冷静に分析し、思考している。
その証拠に溢れ出る妖気はおぞましいほどの殺気に塗れていた。


いや待て…『コイツ』、知ってる顔だぞ…!まさか、コイツが私たちを襲ったのか!?
あの情けの欠片も無い武器と弾幕で、私たちを完全に殺しに来た襲撃者の正体…!
彼女の事を詳しく知っているわけじゃないけど、まさかこんな事をしでかす悪魔だとは夢にも思わなかった。


「お…『お前』……ッ!まさか、お前が『乗って』いた、なんて……!」


私は再び恐怖に怯える。
この女のあまりにも巨大な妖気と殺気にあてられ、絶望が頭をもたげてきたからだ。
敵は歩くペースを全く落とさず、鬼畜の如き妖力をその左手に収束させながらこちらへ向かってくる。
その凄まじい雰囲気に、説得は不可能だと悟った私は、敵を迎撃する為に右手から焔を創り…


「―――あれ…」


間抜けな声を発した私は、焔を生成しようとした右手を思わず見る。


―――焔が出ない。


(な…なんで!?さっきは出せたのにッ!全然でないッ!!)

自分の人生を共にしてきた右手を信じられない目で見つめる。
マッチの火ほども灯さなくなった右手をぶんぶんと振り回すが、まるで反応が無い。
同じく左手にも力を込めるが、結果は同じ。

蒼白になった顔で前方を向きなおすと、表情も心も窺い知れぬ悪鬼が距離を縮めて来ている。
焔が出せない理由がなんとなく分かってきた。実に単純な理由だ。
立て続けに起こる強大な敵の襲撃に、私の心はもはや破裂寸前なほどまで追い込まれていた。
限界を突破した恐怖のパラメータのせいで、術式の回路がまともに働かなくなってきたんだ。

要は、今の私は正真正銘の臆病者にまで堕ちていた。それだけの話だった。


牙が剥がれ落ちた私は、慌てて懐に手をやる。
焔が出せないなら支給品の銃で……駄目だ!あの男に持ってかれたんだったッ!!
私は牙どころか、爪すら剥がれ落ちた最低の役立たず。この敵に勝てる道理は無くなった。

女が左腕をこちらへ向けた。その指先に集中する妖気は私にとって燎原の火。
立ってるだけが精一杯の足もこれ以上動いてくれない。もう、かわしようが無い。


女の指先が白く輝き、一本の弾幕が私の心臓目がけて飛んでくる。
躊躇無しの急所狙い。慈悲皆無の一撃が今度こそ私の命を奪いにやってくる。


瞬間、迫る光線に影が飛ぶ。


弾幕は、別の弾幕に弾かれて消滅した。


呆気にとられる私に、今や案山子同然と果てた芳香の声が叩きつけられる。


「妹紅!行けッ!!」


私にとってのヒーローの声が脳を揺さぶったと同時に、スイッチが入ったように足が動く。
そしてそれ以上、私が芳香の声を聞くことは無かった。
泣きながら、必死に逃げ出したからだ。
涙と鼻水でグシャグシャになった顔を隠しもせず、友を捨てて逃亡するこの世で最低な人間の姿だった。
とっくに私の心は限界が来ていた。

だから、逃げた。
命を三度も救ってくれた友をここに置き去りにして、とにかく逃げた。
言わなければいけない言葉があるはずなのに、命惜しさに逃げた。
激情など沸き上がらなかった。戦おうなどとは思いもしなかった。
ここで逃げずに戦っていれば、あるいは二人とも助かったのかもしれない。
その可能性を全て踏み躙り、みっともなく全力で生にしがみついた。

後ろを振り向くことは無かった。振り向けば、きっと立ち止まってしまう。




「ごめん…!ごめんなさい…!ごめんなさい…!ごめ…っ!」




誰にも聞こえない詫び言を、自分に言い聞かせるようにひたすら反復する。
ひと欠片の勇気も無い、愚かな自分を呪いながら無我夢中で走り続けた。

『人は何かを捨てて前へ進む』

誰かが言った言葉だったか、それとも本で見た言葉だったか。
唯一手に入れた友すらも捨てて、慟哭する。



―――私は…弱い……!



森の中に、ちっぽけな少女の悲痛な叫びが小さく木霊した。





▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



【C-5 魔法の森(北東)/朝】


【藤原妹紅@東方永夜抄】
[状態]:精神不安定、霊力消費(小)、服回復中?
[装備]:火鼠の皮衣、インスタントカメラ(フィルム残り8枚)
[道具]:基本支給品(芳香の物、食料残り3分の2)、写真、カメラの予備フィルム5パック
[思考・状況]
基本行動方針:死にたくない。
1:生きる。もうあの『虚無』に戻りたくない。
2:芳香…ごめんなさい…!
3:『死』に関わる事は避ける。
[備考]
※参戦時期は永夜抄以降(神霊廟終了時点)です。
※風神録以降のキャラと面識があるかは不明ですが、少なくとも名前程度なら知っているかもしれません。
※死に関わる物(エシディシ、リンゴォ、死体、殺意等など)を認識すると、死への恐怖がフラッシュバックするかもしれません。
※あまりに恐怖すると、焔が出せなくなっています。
※放送内容が殆ど頭に入っておりません。
※彼女がどこへ行くかは今後の書き手さんにお任せします。


▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽


「いったか」


片脚でもフラフラとバランス良く立ち尽くす芳香。
右腕を失い、左脚を失い、全身穴だらけになり、胴体には未だ鋭い薙刀が突き刺さったままの芳香はまさしく案山子同然といえる。
いくらキョンシーの肉体が強固であり、痛覚を持ち得ないとしても、既に芳香の死は免れないほどの状態であった。

それでも彼女の目はどこまでも真っ直ぐで、淀みは無かった。

怪我無く逃げ出せた妹紅を、安心した様子で見守る彼女に恐怖など無い。
勿論、自分を置いて逃げる妹紅に非難や蔑みの気持ちも全く無い。

物事を考えるのが苦手な彼女の心にあったのは、妹紅の命が助かったことへの安心。ただそれだけだ。
その持ち前の愚直さが、妹紅の命を救ったとも考えられる。
芳香にしてみれば、それで全てが『納得』出来た。
自らの行動に後悔などは塵ひとつ存在しない。


他にあるとすれば――



「さて…あとはおまえたおせば、ぜんぶまるく、おさまるな」


目の前の『女』に敗北するなどありえないという、理屈無き自信のみ。

器用にも片脚でクルリと半回転し、敵と対峙する芳香。
ボロボロの隻腕で闘いの姿勢を構える彼女は、ガラガラに枯れた、けれども普段通りのんびりした口調で敵との対話を試みる。


「おい、おまえ。なんだって、こんなことをするのだ?ころしたりするのは、いかんのだぞ。
もこう、は…いっしょーけんめーに、いきようと、している」

この期に及んで『ゲーム』のルールをまるで理解していない芳香は不思議に首を傾げる。
今やキョンシーである彼女の生前の姿を知っている者は本人も含めて存在しない。
どのような生き方をし、どのような人柄で、そして何を思いながら死んだのか。それは誰にも分からない。
しかし彼女は『死』に敏感だった。
その想いの根源が何処から流れてくるのか、自身にすら理解出来ないが、大切な者と永劫会うことも叶わない『死』という概念が芳香は純粋に嫌いだった。
それは彼女の靄に包まれた生前の人生に起因するのか、それ故に彼女の本能は、大切な者を『護る』ことをこの世の正義とした。

現在の主である霍青娥を死なせるわけにはいかない。
絶対に護るべき、大切な存在だ。

そして、この会場で最初に出会った人物…藤原妹紅。

色々と放っておけない彼女に芳香は好意を抱いていたし、護ってあげたいとも何となく思っていた。
それはやはり芳香の本能からの行動理念だったかもしれない。
ごく僅かな時間での触れ合いだったが、それでも芳香に分かったことはある。


妹紅は全てを失った『ゼロ』の状態から、弱々しげながらも『立ち上がろう』としている。

未だ見つからない『光の路』を探そうとしている。

少しずつだが前へ『歩こう』としている。

そんな健気な雛鳥の巣立ちを、誰にも邪魔して欲しくなかったのかもしれない。

もしも…もしも妹紅が自分のおかげでこの先、飛び立てるようになったなら。

不死鳥の如き雄大な翼で空を飛べるとするなら。



(なんだろーな、この懐かしくて…すごく誇らしげな気持ちは……。よく分からないけど……)



―――すごく、清らかだ。



芳香は笑った。
未来へと歩く為の片脚を失い、主を護る為の腕も千切り飛ばされ、既に死人としても致命傷の身体をフラフラと揺らしながら。


笑いながら敵を見据える。
妹紅は死なせたくない。
この先、前へ進むのは私じゃない。妹紅だ。

『生』や『死』すらも謳歌した彼女を縛るものはもう無い気がした。
キョンシーとして命令を忠実にこなす傀儡ではなく、自らの意志で考えた『一番大切なこと』。
青娥と同じくらい大切な妹紅を『護る』こと。
芳香の『路』は、そこにあった。


そして、その『路』に立ち塞がる敵は倒さなければならない。
彼女は、目の前の女のことも少しだが気になっていた。
この女は芳香の問いかけに答えることなく、ただただ無言で芳香を見つめていた。
その視線だけで人を殺せそうなぐらい殺気に満ち満ちた瞳は、芳香の決意に満ちた視線と交差する。
芳香はその視線に臆することなく対話を続けた。

「おーい、きいている、のか、おまえ。へんなやつだな。
もし、これいじょう、もこうをいじめる、なら、このわたし、が、おまえをたおすぞ。
いっておくが、わたしは、つよいぞ?きょんしーだから、しなないし、なー。わはは」

「………」

ケラケラと笑う芳香とは対照的に、静かに佇む女は依然、言葉を発そうとしない。
その特徴的な金髪と狐耳が風に揺れる。
どこまでも薄く、鋭い金眼の瞳の中心には笑う案山子のみを映していた。
そして何より強大な妖を意味する九つの尾が、威嚇するように扇状に拡がり始める。


女がゆっくりと腕を前方に向けた。
その動作はあまりにも自然で、優雅さを伴っていた為に、見る者が見ればうっかり反応が遅れていただろう。
まさかその菊の花のように高貴で艶やかな指先から差し向けられたものが殺気だとは誰も思わない。
しかし食べること以外にはとんと無頓着な芳香は、女の放つ美しき殺気などどこ吹く風。
なめくじみたいにすっトロい奴だな、などと呑気に考えながら、逆にこれを攻め入るチャンスと見る。

キョンシーならではの強靭な脚力で右脚に一気に力を込め、バネのように飛び込む!
その飛距離は片脚とは思えぬほど長く、一瞬にして女の頭上にまで飛び掛かることに成功した!
メキメキと左腕に力を溜めて、その豪力を敵の脳天目がけて振り下ろす。

「………!」

敵の予想外の瞬発に女は一瞬遅れを取るが、その息は全く乱れず、芳香の身体から突き出た薙刀を前に伸ばしたままの腕で冷徹に掴む。
体内に直結したままの得物を掴まれたことで、空中でピタリと動きを止めてしまう芳香。
鋭い爪による強靭な攻撃は、女の鼻先を空しく掠ったのみだ。

「おぉ……?」

自分の攻撃が命中しなかったことに不思議を覚える芳香。捲り来る戦闘の展開に脳が追いついていなかった。
次の瞬間、女は握った薙刀の柄をいともたやすく、だが力の限り引き抜いたッ!


「ッ!? ぶっ………!!」


傷口と喉奥から大量の血飛沫がシャワーのように弾けた。
刃物の先端が背中側に突き抜けていたので、引き抜かれる時、内臓を滅茶苦茶に掻き回されたのだ。
更に過大に拡がる傷。残り少ない血液を一気に失ってしまう。


しかし、彼女は倒れない。
たった一本の脚で大地に着地し、支える。
顎は上方を仰ぎ、目は虚ろ。
大量の血反吐を垂らしながら、呼吸すら出来ずに身体はグラついている。
生と死の境界線の上。芳香は薄れつつある意識で思考を巡らせていた。





―――ハァーーッ…ハァーーッ…ハァーーッ………

―――あ、れ…おかしいな。からだが、いうことをきかん…

―――ん…だめだ。あたまがまっしろになってきた。

―――ふしぎだ。わたしはキョンシーだというのに。しなないからだのはずなのにな。

―――そもそも、なんでたたかってんだっけ?……わすれた。

―――もこうは、どうしたかなー。またひとりでないてんだろうなー。

―――あいつ、すぐなくしなー。こんどあったら、またおむすびやるかー。

―――――――――。

――――――。

―――ん。

―――……なんか、いろいろおもいだしてきたぞ。

―――……あぁ。そうだったな。このかんかく…わたしは、しっているぞ。


―――そうだそうだ。この、なんかどうしようもない『こどく』。



―――めのまえがまっくらに、なっていく、このかんかく。




―――そうだ。おもいだした。





―――これが『死』か。





―――



――



やだなぁ、しぬのは…











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▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽







「―――お前は」




風前の灯にまで追い詰められていた芳香の耳に届いたのは、同じく消え入りそうな小さな小さな呟き。
これまで一語たりとも発することの無かった女の口が、ここに来て初めて動いた。
それはとてもこのような惨事を引き起こした悪鬼とは思えないほどに落ち着いていて、気品すら感じる声であった。

元は華麗に整っていただろう顔立ち。今は大量の返り血に塗れていた。
その瞳からは変わらず殺気が放たれている。
女の目からは何も感じ取ることは出来ないが、彼女が倫理を外れた極悪な心亡き殺人鬼だとは、芳香にはどうしても思えなかった。

芳香はいつの間にか自分の身体が地に倒れ臥し、目の前に立つ女から薙刀を向けられていることに気付いたが、そんなことはもうどうでも良かった。
死にゆく事を悟った自分に対し、この女は最期にどんな言葉を掛けてくれるのだろう。
それがちょっぴりだけ気になり、女の次の言葉をジッと待った。




枝葉が揺れる音だけが、一瞬世界を支配する。



「―――お前は、何故そうまでして生きようとする」



紡いだ言葉は、芳香の生き様に対するひとつの純粋な疑問。
絶望的なまでの傷を負い、それでもその身ひとつで闘う意思を瞳に宿し、最期に散りゆく彼女への疑問。
その言葉を口にした時、女の目がほんの少しだけ、悲しみのようなものに移り変わったのは、芳香の幻覚だろうか。



まるで予期せぬ質問に、けれども芳香は間をおかず、当然のようにあっさり答え放った。



「護りたい奴がいるからだ」



器官が潰され、呼吸も出来ないはずの死人の答えは、女の耳に、いやにハッキリと透き通って聞こえた。

その時、芳香のぼやけた視界には、女の口元がフッと笑った――ように見えた。

そして、それが彼女の見た最期の光景であった。

女が武器を振りかざす。

耳に届いたのは、迷いの消えた、女の凜とした声。





―――礼を言う。





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『八雲藍』
【朝】D-4 香霖堂前


フゥ、と短く息をつき、魔法の森を出る。
少し、高純度の弾幕を使用し過ぎた。疲労が溜まってきている。
足取りは決して軽く無いが、しかし悪い気分ではない。
咽返るような血の臭いが鼻につく。
顔に浴びた返り血は既に拭き取ったが、気分を不快にさせる臭いが何処までも鼻腔から離れてくれない。

だというのに今の私はどこか清清しい気持ちで平原を歩く。
ついぞ先刻まで自らの存在意義に葛藤し、憤りすら感じていたというのに。


遠くに香霖堂が見えてきた。橙との集合地として指定した建物だ。
袖を捲り上げ、右腕を見る。
あの氷妖精に撃たれた――恐らく外界武器の『銃』による――傷口は、簡素にではあるが手当ては施した。
包帯代わりに巻かれた生地はあのキョンシーの服を使わせてもらった。
自分の物を使うべきだったのだろうが、この衣装は紫様から賜った極めて大切な衣装。おいそれと破くわけにもいかない。

この傷を見る度に思い出す。
『あの戦い』で狸風情に言われた言葉を。


―――お主、本当に式としての命令で動いておるのか?儂にはそうは見えん。

―――お主は式としてではなく、八雲藍という個として動いておる。


死にゆく敗者の、くだらない負け惜しみ。
馬鹿馬鹿しい、と一笑に伏せることも出来た。

だが、簡単なはずのその行為は何故か行使出来ず、私の思考は次第に狂い、バグを生み出していた。
自分の行為は果たして敬愛する主の利を想っての行動だったのか?
紫様のため…?自分のため…?
一度思い悩めば、後は思考の迷走。
賢明である筈の高尚な頭脳は一転、世界が反転したように混乱し、崩壊…!
死に掛けの狸如きの馬鹿な論が、脳内を往々にしてのさばっていく。

結果、八雲藍という式は壊れた。


否。壊れかけた。



答えの見つからぬ迷霧を奔走し、いよいよ己の価値に意味を見出せなくなりそうだった。
そんな時に見つけたのがあの二人組。
一人は迷いの竹林の蓬莱人、確か名は藤原妹紅。
もう一人はあの邪仙の操る忠実なキョンシー、だったか。

特に深い情も持ち合わせていない二人。
その存在を認知した途端、スイッチが入った。
頭の中に響き続ける狸の台詞など強引に吹き払い、やるべき事を思い出す。
殺しそのものには既に迷いなど断ち切っていた。
心など捨て置き、主君の為だと言い聞かせる。

私は放送と同時に仕掛ける策を取った。
相手に気付かれぬよう周囲に弾幕を配置し、合図とともに一声掃射させる準備を施す。
後はジッと放送を待ち、相手が最も意識を耳に傾ける瞬間を狙えばいい。
狙うは焔を操る厄介な不死人。まずはそいつの息の根を止めることにした。

…のだが、憎たらしいことに傍に居たキョンシーにそれを邪魔されたのだ。
しかし関係無い。仕留める順番が入れ替わっただけだ。
厄介な焔を操ると聞いていた不死人は、意外とあっさり崩れ落ちた。警戒していただけに拍子抜けだ。

後は手筈通り、美しさに欠けるが殺傷力を重視した高密度の弾幕を展開し、それで終わり。
この間も放送は途切れる事無く頭の中で続いていたが、その内容は全て記憶している。一字一句全てだ。
当然ではあるが、紫様の名が呼ばれることは無かった事に多少なりとも安堵を覚えた。


しかし、またもや予定外の事が起きた。
あのキョンシーがまたしても不死人を庇ったのだ。


―――そこまでして、何故?


平静に見えたであろう私の心中は、実は少なからず驚愕していた。
そのうち不死人は情けない顔をしながら必死に逃げ出した。私は何故か追おうとは思わなかった。
不思議に思っていたのだ。
この死に掛けのキョンシー如きが何故、そうまでして他人を庇う?
圧倒的窮地に立たされて何故、生きようともがく?

そして、疑問が口から自然に漏れた。


―――お前は、何故そうまでして生きようとする、と。


すぐにあの世へ旅立つであろうあのキョンシーは、間も無く答えた。


―――護りたい奴がいるからだ、と。



瞬間、積年の難式が突然解けたように、心で理解出来た。
答えは驚くほどに単純で、当たり前の事だったのだ。
何故今まで気付かなかったのか。悩んでいたのか。

もう一度、敬愛する主君を想う。

紫様を失いたくない。

あの方さえご存命であれば、この命すら惜しくない。

この身千切れても、あの方の命は護りまする。

私のやろうとしている振舞いは、ともすれば紫様の意に反する事なのやもしれぬ。

あの方を…哀しませる結果になるやもしれぬ。

それでも。ただ、それでも。

最期まで殉じよう。己の忠義に。

私は、ただ紫様を護りたい。


その気持ちに再び気付いた時、心の曇りは一瞬で晴れ渡った。
振り出しに戻っただけだ。
主君を、護る。
私にあるのは、ただのそれだけでいい。
大して長くも無かった迷路だが、随分さ迷い歩いた気がする。
思わず笑みが漏れた。


眼下に倒れる相手に対し、敬意を表す。
彼女にも、護りたい者がいた。そこは私と共感した部分だった。
彼女を殺す事を悪いとは思わない。気の毒だとも思わない。
しかし彼女のおかげで私は思い出せた。
名が聞けなかったことだけは気がかりだったが、最期に心からの礼を彼女に。



ありがとう。使命に忠実であった死人よ。
我、主を想ってこその我故に。




▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽


▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽

永い回廊を渡り歩き、目的地の香霖堂前まで辿り着いた。
時計を見る。6時15分。
思わず眉をひそめた。私は時間には厳しい方だが、予定を15分もオーバーしているとは。
少し慌てて周辺を見渡す。橙の姿はまだ見えないようだ。
私が言えることではないが、あやつには時間を守ることの大切さも教えてやらんといかんな。

そこで私がまず気付いたのは、周囲に香る『匂い』。
どうも焦げ臭い。火事ではないが、物の焼けた匂いが鼻に纏わりつく。
そして建物の奥が半壊していた。壁に大穴も空いている。
どうやらここで『何か』があったらしいな。
やれやれ…この場所を集合場所に指定したのは間違っていたかな。


念のため周囲を警戒する。もしも何者かがこの場所に残っていたなら橙が訪れる前に『掃除』しておかねばなるまい。
…それに、そろそろ『彼女』も手放しておきたいところだ。
人の頭部は平均して約『5キロ』あるらしい。左手だけでここまで運ぶには意外と疲れるものだ。
一応、首級の『証拠』としてわざわざ切断したのだから、手荒な扱いもしたくはない。

さて、橙の主を称す私がスコア1では内心情けないものを感じるが、それでも少しは格好が付いたろう。
橙に指示した人数は『3人』の首だが、正直そこまでは期待していない。
なに、『1人』の首でも持ってこれればそれでお咎め無しとしよう。
褒美をやるといった手前、何も手持ちが無いのでは沽券にも関わるが…うむむ、どうしようか?

…まぁ、あやつなら頭のひとつも撫でてやれば喜ぶかもしれんな。
だが、無いとは思うが『もし』ひとりとして首を持ってこれなかった場合は…『罰』を与える他あるまい。
あれで中々やる時はやる式だ。期待しながら待っていよう。



「…少々、腹が空いたな」



あの死人と交わした以来の口から出た言葉は、そんな意味も持たない内容だった。
淡と呟いたその余韻は空に消え、その瞳には何の影も映さず。


八雲の忠実なる式は、血に塗れた手でそっと入り口のドアノブに手をかけた。








【宮古芳香@東方神霊廟】 死亡
【残り 71/90】


【D-4 香霖堂前/朝】


【八雲藍@東方妖々夢】
[状態]:左足に裂傷、右腕に銃創(処置済み)、霊力消費(中)、疲労(中)、所々返り血
[装備]:秦こころの薙刀@東方心綺楼
[道具]:ランダム支給品(0~1)、基本支給品、芳香の首
[思考・状況]
基本行動方針:紫様を生き残らせる
1:やるべきことは変わらない。皆殺し。
2:橙を待つ。
[備考]
※参戦時期は少なくとも神霊廟以降です。
※放送内容は全て頭に入っています。

※C-5 魔法の森内に宮古芳香の胴体、右腕、左脚が落ちています。

085:第一回放送 投下順 087:ウェルカム・トゥ・アンダーワールド
036:輝夜物語 時系列順 087:ウェルカム・トゥ・アンダーワールド
054:狐狸大戦争、そして 八雲藍 108:Other Complex
070:リビングデッドの呼び声 藤原妹紅 099:幻葬事変/竹取幻葬
070:リビングデッドの呼び声 宮古芳香 死亡

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最終更新:2015年05月15日 04:55