校舎の屋上はオレンジ色に染まっていて、そこにひとり仰向けで寝ているゆにばちゃんのほっぺたもいつもより赤く見えます。
夕焼けはとってもきれいで、ゆにばちゃんが仕事中だったら、少し前までのゆにばちゃんだったら、きっと「まつごのさけ」のおじいさんおばあさんを屋上に連れ出して見せてあげたいと思ったでしょう。
「夕焼け……赤……緋色……」
でも今のゆにばちゃんには、そんなことはどうでもよかったのです。
「からっぽのえいが」を見て、侵入者の虎子さんを撃退して、高熱に苦しんで……。もう熱は引いていますが、熱よりもっと大きなダメージを、あの映画はゆにばちゃんの心に残していました。
ここ数日、ゆにばちゃんは心がからっぽになってしまったみたいに過ごしています。ご飯も食べるし、トイレに行くし、お風呂に入るし、もちろんこうして学校にだって来るのですが、ただそれだけでした。お友達とお喋りしても、甘いものを食べても、心が動かないのです。生きていくために必要なことだけを、ただ機械みたいにしているだけ。グソク様の池にもずっと行っていません。
「まつごのさけ」でのアルバイトは1週間分のシフトがまだ残っていましたが、チーフにごめんなさいのお電話をしてお休みをもらっています。もうこのままやめてしまおうか、とゆにばちゃんは思っていました。
「へっくちっ!」
ゆにばちゃんの耳に、かわいらしいくしゃみの声が飛び込んできました。声のした方を見ると、黄色いレインコートのすそから細っこいあしが伸びていて、そしてひゅうと風が吹くと、その付け根をおおっている白い三角が見えました。真ん中にかわいいカエルさんが描かれています。
「あめふりちゃん……」
「やあ、ゆにちゃん!」
うりゅういんあめふりちゃん――ゆにばちゃんのお友だちで、晴れの日でも学校の中でもいつもレインコートを着ている変な女の子です(ゆにばちゃんもいつも体操着ですが)。
「どうしてここに?」
「『どうして?』って、今日勉強会の日だよ!」
「あ……ごめんなさい……」
あめふりちゃんはようち園の先生になりたいのでそのための大学に行きたいのですが、あまり成績が良くないので、お勉強のできるゆにばちゃんに毎週教わっているのです。
毎週のやくそくごとを忘れていたゆにばちゃんにぷくーっとほおを膨らませたあめふりちゃんですが、様子がおかしいことに気づいて心配そうな顔になります。
「ゆにちゃん、最近変だよ。どうしたの? いやなこととかあった?」
あめふりちゃんとゆにばちゃんがお友だちになったのは、あめふりちゃんがおもらしをしてしまったとき、ゆにばちゃんがいやな顔ひとつせず、それどころか笑顔でおしっこを拭いてくれたのがきっかけでした。
あめふりちゃんも、最近元気の無いゆにばちゃんに、何かしてあげたいと、優しいゆにばちゃんに自分も優しくしてあげたいと思ったのです。
「いやなことっていうか……、なんかどうでもよくなっちゃった……」
うつろな笑いをゆにばちゃんは浮かべます。「介護スマイル」は作り笑いも多いのですが、今のゆにばちゃんの笑顔は見ているあめふりちゃんが泣きたくなりそうなものでした。
あめふりちゃんはさらに何があったのかたずねました。がらにもなく真剣な目に、さすがに心を動かされたのか、どうでもいいと思っているから流されたのか、ゆにばちゃんにもわかりませんが、とにかくゆにばちゃんは語り始めたのです。「からっぽのえいが」について。
――生徒会室。
中心では探偵秘書E子――菱夜良子が、机の上のコピー用紙に視線を落としている。それはE子初めての依頼人・斧寺春が描いた、彼女の自宅とその周辺の見取り図であった。
「他の洗濯物と共に、そのクマさんパンツもここに干されていた。
それで間違い無いですね?」
「は、はい……」
ベランダのあたりを赤丸で囲うとE子は春に情報を確認し、春も首肯する。
「昨日は特に強風情報などありませんでした。たまたま、多少強い風が吹くことはあってもそれで見つからない距離まで飛んでいくというのは無いでしょうね」
「やっぱり、下着泥棒なんですね……!?」
早とちりで思い込みの激しい春はそう言うが、E子は首を振った。
「無くは無いですが、可能性は低いと思います。
この見取り図で見る限り、ベランダはそれなりに広い庭に面していて、隣家とは距離があります。
この状態でベランダによじ登り犯行に及ぶのは、ご近所に見つかって通報される可能性があまりに大きい」
なるほど、と斧寺も他のメンバーも頷く。E子が下着ドロの線を取り下げはしないのは、スリルを求めて不必要なリスクを冒す犯罪者がそれなりに存在するからだ。ただ現状では確かめようが無い。尤も、それはE子の推理も同様なのだが。
「風で飛んだのではなく、ズルルッ……下着ドロの線も薄い……チュルチュル。
じゃあ、他に春さんのパンツが消えた原因が何かあるんです?」
名古屋名物味噌そうめんを啜りながら重坂阿諛香が問う。パンツはレース付の白。見せるパターンが思いつかない。
「ええ、私のも推測に過ぎませんが。この先は現場に出向いて確認しましょう」
重坂にそう答えると、E子はスマートフォンを取り出してどこかに電話をかけた。
「からっぽのえいが……ゆにちゃんはそれを見たんだ……」
あめふりちゃんも、魔人警官のお兄ちゃんからその映画の存在は聞いていました。名前を呼ぶことさえ恐れられ、「紅の章」と呼ばれる、悪魔の映画なのだと。
ホラー映画を見ただけでおもらししてしまうあめふりちゃんに、ゆにばちゃんの苦しみがどれほどかは想像もつきません。だから映画についてどうこうとは言えないけれど、なんとかゆにばちゃんの苦しみを癒してあげたいと思いました。
「ゆにちゃん、その映画はからっぽでもさ、世の中楽しいことがいっぱいあるよ。
からっぽじゃない映画を見よう。
美味しい物食べよう」
そう訴える友人を前に、ゆにばちゃんの表情は虚ろなままです。
「楽しいことも、美味しい物も、どうでもいいんだよ。何があったって、どうでもいい。
ボクも、誰も彼も、どうでもいい」
「どうでもいい」というのはもしかすると救いかも知れません。どうでもよくないからこそ、手に入らなかったり、失ったりすれば、辛いのです。心がからっぽなら、「からっぽのえいが」にもきっと壊されることは無いでしょう。
「ボクももう、からっぽなんだ……」
ゆにばちゃんのその言葉からすこしの間を置いて、あめふりちゃんが言い放ちました。
「ボクも見るよ! その『からっぽのえいが』」
「……え?」
「ゆにちゃんの気持ち、やっぱりわかんないもん。
ボクも見て、自分の心がからっぽになるかどうか、わかってから、もう1回ゆにちゃんを……」
「バカ!!!」
ゆにばちゃんは勢い良く立ち上がって、あめふりちゃんのレインコートの襟元をつかみました。いつも介護スマイルだったゆにばちゃんが、声も表情も、今は本気で怒っています。
「ボクみたいになって、どうするの!? 次そんなこと言ったら、電気パンチするよ!
あめふりちゃんまでからっぽになっていいわけ……」
そこまで言って、ゆにばちゃんは息を呑みました。あめふりちゃんは泣いていたのです。ゆにばちゃんが怖かったからではありません。うれし涙でした。
「よく……言うっじゃない?
『自分を大切に出来ない人は人も大切に出来ない』って……。
ゆにばちゃん、ボクにこ、こんなに怒ってくれるんだから、ボクのことはどうでもよくなくて、自分もどうでもよくないんだよ……」
「……っ」
「怒らせること言ってごめんね……。でも……」
あめふりちゃんはゆにばちゃんに抱きついて、わんわんと泣きました。
ゆにばちゃんは思い出していました。胃の中のものをすごい勢いで床に吐きながら、虎子さんのお父さんにはかけないようにと、がんばったことを。あれはこれまでの介護戦士の訓練で体に染み付いた動きだからというのもあるのでしょうが、しかしあんな大変な苦しみに、反射だけで耐えられるのでしょうか。
「ボクの方こそ、ごめんなさい。どうでも……よくないみたい……」
そう言って、自分と同じく小さな体を、ゆにばちゃんはぎゅっと抱きしめました。
いつの間にか、橙と藍色が混じった雲から、雨が降り出してきます。
あめふりちゃんの魔人能力「あまんちゅ!」は心を癒すゆとり粒子を雨と共に降らせる能力です。
しとしとと降る優しい雨粒は、含まれるゆとり粒子の輝きで、目を凝らしてようやく気づくくらいの、ぼんやりした光をはなっていました。
校舎の壁に爪をひっかけてのぼってくるグソク様に、2人が気づくのはもう少しだけ先のことです。
「あ~留守番ってだるいですねえ。サボっちゃおうかなあ」
ハードカバーの本を読みながら、留守番を頼まれた暗殺者・フロレンツィア・ビブリオテークは腰掛けた椅子の背をギシッギシッと安楽椅子のように傾ける。スカートの裾から、ドロワーズがちらりと覗いた。
――斧寺家前にて。
「小雨ですけど、降ってきましたね」
「そうですね……これじゃ『来ない』かも知れませんね。
春さん、捜査を続けますか?」
「お、お願いします。他の皆さんは家に入って休んでてください。でも私は、一刻も早くクマ吉君を……」
春の決意にE子はフッと笑い、持ってきた革袋に手を突っ込んで……取り出したのは1枚のパンツ! しかも、クマさんパンツ!
「これはダンテさんから預かってきた探偵七つ性具の1つ……その中でも『クマ吉君』に最も近い外見なのはこれでしょう」
E子はそのパンツを持って庭に入ろうとする……が、そのとき
「んにゃぁん」
「あっ」
背後に歩み寄っていた1匹の猫がジャンプし、E子の手の中のクマさんパンツを咥え、掠め取ったのだ。そして、この文字通りの泥棒猫はそのまま颯爽と走り去る。
「ま、待てー!」
春が先頭になって追いかけ、他のメンバーも後に続く。
「E子先輩……最初から猫だってわかってたガゥ?」
「犬猫か、或いはカラスなどの鳥だろうと思っていました。
近所の人に見られることを恐れずあっさり侵入し、且つ庭に入り込んでも人目につかない存在というと、人間よりは動物ですからね。
後者なら追跡はひと苦労でしょうけど、魔人(われわれ)の体力なら猫の追跡程度は容易です」
走りながら推理を披露するE子。揺れるFカップ。見え隠れする高校生らしからぬ紫の下着。
そして追跡は続き、2つ目の角を曲がった先で終わりを告げる。猫が立ち止まったのだ。
「あー、猫ちゃん。久しぶりだね」
猫を止めたのは、1人の小さな少女・雨竜院畢。畢と、その隣にいる、濡れた体操着を脱いで貴重な制服姿の福篠単波の姿を認めて追跡者たちは足を止めた。
「畢ちゃん、帰る途中?」
と、夢追。
「裏切り先輩! 家は別方向のはずガゥ☆」
と、虎子。勘違いは続いていた。
「ボクはお家でゆにちゃんと映画見ることにしたから。
生徒会の皆、なんでここに? 後、猫ちゃん。そのパンツは……」
頭に疑問符を浮かべる畢。猫は、咥えていたクマさんパンツを、畢の足元へ落としていた。まるであなたにあげますとでも言わんばかりに。
「あの幼女みたいな先輩に猫があげたってことは……つ、つまり」
春が畢を指差し、プルプルと震える。そのとき、神の悪戯か、はたまた大宇宙の意思か?
雨と共に吹きぬけた一陣の風が、ゆにばと春のスカートを捲りあげた。
露になる、ゆにばの稲妻柄パンツと春のむき出しの股間! そこを隠すのは、1枚の絆創膏のみ!
「な、なんでノーパン……?」
「『願掛け』です。クマ吉君が見つかるまでの。これは走子ちゃんにもらいました」
引き気味の周囲からの問いに、春は顔を赤らめて答える。
「もう、よくわからないけど、ダメだよ。女の子がノーパンなんて。
ほら、ボクの貸してあげるから」
そう言うと畢はカバンから、いつも持っているおもらしに備えてのスペアパンツ――今日は股間にクマがプリントされた、春の最愛のパンツを取り出した。(終わり)