カベクイグソクムシ プロローグSS


「大きく、なったね」

砂浜で少女は言った。
健康的に日焼けした肌とすらりと伸びた手足、それを包み込むような白いワンピース。

「なんとなく、ここに来ればまた会えるような気がしたの」

海に沈む夕日が、二人……いや、一人と一匹を照らしだす。
太平洋に浮かぶこの小島が、カベクイグソクムシと少女の故郷だ。

「……もう行かなくては」

僅かに触角を震わせただけで、振り返ることもなく呟くと彼は海へと歩を進める。

やはり来るべきではなかった、とカベクイグソクムシは思う。
海岸から漂う上質な防波壁の匂いと、それを求める欲望を抑えられなかった。本能に付き従うだけの自分が不甲斐ない。
郷愁の念があったことは否定できない、だが

「待って!」

何れにせよ

「私のような異形と共にいる所を誰かに見られるといけない、あらぬ噂が立ちますよ。特に……」

数年前にこの島で起きた、否、自分が引き起こした光景が脳裏をよぎる。
助けを求める声、無力な自身への絶望、覚醒、捕食、巨乳化そして……暴走

突如現れた巨大怪虫が破壊の限りを尽くす。
能力に溺れた化け物の行為に弁解の余地のないことは、自分が一番よく理解していた。

「……」

前脚が海水に浸かる。海とは、こんなに冷たいものだったのか。

砂を蹴る音が響き、体躯に伝わる軽い衝撃。
海へと進む14本の脚が動きを止める。
カベクイグソクムシの背甲に体を押し付けるように、少女が抱きついていた。

「行かないで!わたし…わたしずっと…!」
「ダメですよお嬢さん」

静かに、しかしはっきりと諭す。

少女が望む未来には、大きな壁がいくつも聳え立っている。そしてそれは、「掃除屋」の異名
をとるカベクイグソクムシと言えども、容易に取り除くことのできるものではないだろう。

カベクイグソクムシの口調に少し俯く少女。
しかし再びを向いた彼女の顔には、確かな決意と光が宿っていた

「ひとつだけ、言わせて」

少女は彼の複眼を見据えて口を開いた

「あの時助けてくれて、ありがとう!」

カベクイグソクムシの中で、大きな壁が崩れていくのが分かった。

(そうか……私は……)
「私も、壁の中にいたようですね」

ポツリと漏れた言葉は、少女には聞こえなかったようだ。

「えっ?」
「お嬢さん、今日貴女に出会えて本当に良かった」

波が掛かる。火照った体に海水の温度が心地良い。

「では、またいつか」

一瞬虚を突かれた少女であったが、すぐに満面の笑みで
「うん!」
と答えた。

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水平線を見つめる彼女の目に映る、一筋の流れ星。
寄せては返す波が彼女の足を撫でる。

心優しき甲殻類と再び暮らす日が来ることを……
豊満な胸の少女は願った。

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いざ、まだ見ぬ壁を求めてカベクイグソクムシは海中を進む。
次は……なんとなく廃屋の気分だ。



最終更新:2013年06月18日 18:36