胸貧しき者は幸いなり


「海は見ている~世界の始まりも~。
 海は知っている~世界の終わりも~」

 漁師は操舵室の窓越しにキラキラと耀く海を眺めながら口ずさんだ。
 今もそうだが、漁師の仕事では何もすることがなくただ船に乗っているだけの時間も意外と長い。しかし、重労働の前のこうした退屈な時間も彼は嫌いではなかった。
 時化の時には魔物と化し、彼の仲間を何人も呑み込んで来た海も今は生命の揺り籠に相応しい穏やかな顔を見せている。

「痛み~苦しみ~包み込んでくれる~。
 大きくやさしく包んでくれる~」

 しかし彼は知らなかった。この穏やかな海の中で、今まさに魔物が蠢いていることを。



(全く、片付けたばかりだと言うのに……)

 雨竜院雨雫は衣類や雑誌、酒瓶などが散らかり放題の雨弓の部屋に呆れて息を吐く。雨雫と雨弓は従兄妹同士で、且つ交際して数年になるカップルでもあった。今は雨弓は仕事中のはずで、雨雫は用事があって彼の実家である宗家を尋ねたのだが、用事を済ませた後、伯母に雨弓の部屋の掃除を頼まれたのだ。

 片付けが出来ない雨弓の性質は子供時代から変わっておらず、対して雨雫は親友の聖槍院九鈴程では無いが綺麗好きな性格だった。数日前に部屋を訪れた際にも手伝いつつ片付けさせたのだが、今はもうそれ以前と変わらない状態だ。

(こんなものまで……)

 ゴミ箱の脇に落ちていた、数日前のものであろう使用済みのコンドームに雨雫は顔を赤らめつつ、持ってきたゴミ袋に他のゴミと共に放り込んでいく。その手つきは慣れたもので、数分で部屋には目立ったゴミも無く、綺麗に整頓がなされた状態となる。

(後は軽く掃除機を……ん?)

 ベッドと布団の間から何かがはみ出していることに気づいた。何か雑誌の角のようなそれが気になり、雨雫は引っ張りだしてみる。

「こ……これは……!」

 「淫乱豊満女乱交祭り」――そう題された、いわゆるエロ本の表紙では淫猥な表情を浮かべた美女が乳房を放り出している。その胸は豊満であった。中をパラパラと捲ってみる。3人程の女が、男のイチモツを咥えたり、乳房で挟んだり、大股を開いて挿入されたりといったあられもない姿のグラビアが掲載されているが、いずれも豊満だった。後ろの方に載っているデリヘルやソープの広告の嬢も例外なく豊満。

「あ、雨弓君……」

 暫し呆然とした後、雨雫は自分の胸を見下ろし、そして空いた手で摩ってみる。その胸は平坦であった。完全な無乳である雨弓の妹・幼女子高生畢より少しだけ大きい程度に。

 ――数日後、雨竜院家縁の神社にて。
 家の仕事で境内の清掃に来た九鈴と同じく掃除をしている巫女服の雨雫は社務所の休憩室で昼食を摂っていた。

「そんなにショックだったの? 雨弓先輩がHな本持ってたのが」

 サンドイッチを口にしながら、呆れたような目で九鈴は親友を見る。九鈴は雨弓・雨雫の幼馴染であり、初めて会った4、5歳の頃から、成長し、雨弓への恋心を告白され、相談を受け、想いが実って2人が付き合い出してから今に至るまでを、恐らく当人たちに次いで深く知っている。
 雨雫は割りと独占欲の強いところがあったが、浮気でもあるまいにそんなことで怒るか、と思っていた。

「いや、そのこと自体は別にいいんだ。
 私と雨弓君はいつでも会えるわけじゃ無いし、性欲処理したいときはあるだろう。私だって……する……」

 その言葉に九鈴も愛用のトングにて耽っている夜の1人遊びを思い出し、太腿を擦り合わせた。

「ただ、本に出てくる女性たちは皆、胸が大きいんだ。私と違って」

「あー……」

 顔を赤くしてもごもごと口ごもる雨雫の平坦な胸元をちらりと見て、九鈴は高校時代、雨雫が雨弓に告白する以前に受けた相談を思い出していた。
 「雨弓君、やっぱり大きな方の胸が好きかな」というあの時の不安が時を経て的中したわけだ。

「……まあ、雨弓先輩は本当は豊満が好きかも知れないけど、でも先輩自身は何も言わないんでしょ? じゃあいいんじゃないかな」

 九鈴はそう宥めるも、雨雫の表情は深刻さを増していく。

「初めての時、雨弓君が『雨雫が小さいなら俺は小さいのが好きだ』って言ってくれて、それ以来彼に対しては気にしなかったんだ。
 でも本当は胸が大きければなあと思いながら私としてたのかと思うとなんだか」

 付け合せのピクルスを齧りながら話を聞いていた九鈴だが、先程とは逆に雨雫の視線が自分の胸元に向いていることに気づく。その胸は豊満……とまではいかないものの、分類するなら大きい方だった。

「それで相談なんだが……九鈴、キミは高校生の時私と変わらなかったのが一夜にして豊満になっていたね。
 アレは一体何があったんだい?」



「海は見ている~世界の始まりも~。
 海は知っている~世界の終わりも~」

 本土から数十kmの太平洋上を、船は進んでいた。
 その漁船の下数百mの海底にて、魔物は漁船とは逆に日本上陸を目指して進んでいた。

(もうすぐですね……どれだけの『壁』に出会えるのでしょう)

 カベクイグソクムシ……節足動物門甲殻綱等脚類スナホリムシ科。海底に棲むダンゴムシといった風貌だが、同属の中でも最大のサイズを誇る彼は体長3m、体重は400kgにもなる。実際デカい。海底では屍肉や海中で発生する有機ゴミを食し、「海の掃除屋」(かっこいい)などとも称されるが、地上には彼の大好物である「壁」がたっぷりとあるのだ。そのためなら上陸もする。肺呼吸もする。

 順調に海底を進んでいたグソクムシだが、その前に、彼を狙う捕食者が姿を表した。巨体の上、固い殻に全身を覆われた彼を大型のシャチやサメも食べようとは思わない。生まれた初めて味わう被捕食者側に回る感覚。

 巨体の動きに舞い上げられた砂のヴェールの向こうに、捕食者の姿はあった。大木のように太く、20mを超える長い胴を覆う銀の鱗、醜悪な顔――神話の海竜を思わせるこの怪物を「シャルロッテ」 と仮に名付けたい。


 シャルロッテは砂煙の中、ピット器官で補足した見つけた手頃な大きさの獲物に狙いを定め、一呑にしようと迫った。グソクムシの動きは鈍重であり、回避は不可能。身体を丸めた防御形態を取るが、丸呑みにされては意味が無い。その時である。
 シャルロッテのガラ空きになった身体を何かが挟み、その動きを止めた。何かとは、赤い殻で覆われた巨大なハサミ!
 それは、この海で100年以上生き続け、成長を続けたロブ・スターであった。淡水のザリ・ガナー と違い、こちらは海中に棲み、体長は11mにも達し、その力強い鋏脚は海底ケーブルやパイプラインを切断することもある。

 何故ロブ・スターはグソクムシを助けるようなことをしたのだろうか? 
 甲殻類仲間だから? 否。
 話の都合? ぶっちゃけそうだが、それではあまりにもアレなので、数十年にわたり近海の主だった地位を最近になって脅かし、いつ自分を食おうとするかもわからないシャルロッテを倒せる機会を伺っていたとか、そういうことにしていただきたい。
 鋏がゴリゴリとシャルロッテの肉を挟む。シャルロッテがデカいだけの生物なら、これで胴は千切れていたであろう。だが、その体表は銛も刺さらない鋼の鱗に覆われており、下の身体は小さく切れるのみで有効打とは言いがたかった。
 シャルロッテ固し! 15/10はあるだろう。
 シャルロッテが大きく身を捩る。さしものロブ・スターにも20mを超える体を押さえ込めるパワーは無く、鋏から脱出されてしまう。
 そしてシャルロッテは、獲物をロブ・スターに変え、襲いかかった。ロブ・スターは右の鋏脚を振り上げてガードするが巨大な顎で食い千切り、固い殻ごと丸呑みにする。
 鋏脚は時間が経てばまた生えてくるが、このままではその前に食い殺されてしまう。ピンチ!
 だが次の瞬間、シャルロッテの視界は黒い粘性の液体に覆われた。突如視界を奪われ、混乱するシャルロッテ。

「そのエビは私の獲物でゲソ! お前なんかに渡さないでゲソー!」

 声の主は、普段は鎌倉にいて侵略活動に勤しむ海からの使者・イカ……ゲソ娘 である。カワイイ! 
 エビが大好きな彼女は、太平洋に巨大なロブスターが出るという情報を聞き、ここまで出張って来ていたのだ。怖がりな彼女だが、巨大なエビのためなら、それより巨大なシャルロッテにも立ち向かう。
 ゲソ娘は髪の毛のような触手を伸ばしてシャルロッテをがんじがらめにする。しかし、そこからの有効打が思いつかず、且つ暴れるシャルロッテに触手が千切れそうになってしまった。

「うわあああああ! 凄い力でゲソー! このままでは私も食べられてしまうんじゃなイカ?」

 慌てるゲソ娘の視界に奇妙なものが移った。先程まで丸まっていたグソクムシは、いつの間にか元の姿に戻り、のそのそとシャルロッテへ接近していたのだ。

(な、何をしているんでゲソ……? お主ではそいつには勝てないでゲソよ?
 逃げた方がいいんじゃなイカ?)

「理由はわかりませんが、私を助けてくださった方々を捨石にして逃げるわけにはいかないでしょう」

 グソクムシは、対になった触角をピンと伸ばして、シャルロッテの身体に触れた。

「スタイリッシュ虫食い!」

 シャルロッテは驚異的な耐久力を持つ――つまりは「壁」であり、壁を食らう彼の能力の対象にも成り得る存在だった。

 ガオン! ガオン! ガオン!

 無数の穴がその鋼の身体に穿たれ、そしてこの怪物はビクンビクンと痙攣した後、息絶える。

「た、助かったでゲソ……あいつ丸まってるだけで弱いかと思ったら凄いじゃなイカ……ん?」

 ロブ・スターが、残った左の鋏脚で掴んだ何かを、ゲソ娘に差し出していた。それは、シャルロッテに丸呑みにされ、身体に空いた大穴から吐き出された、彼自身の右の鋏脚。

「く、くれるのでゲソか!? 自分の鋏を?
 お主は感心でゲソねー! それに免じて命は勘弁してやるでゲソ!」

 ゲソ娘は目をキラキラと輝かせ、触手で器用に殻を外して中の肉を頬張る(カワイイ)。
 一時的に鋏を失ったロブスターはシャルロッテの死骸という巨大な食料を手に入れ、グソクムシは上陸を前にして壁を食べることが出来た。
 みんなが笑っていた。クラムボンも笑っていた。シャルロッテは死んでいた。

「バイバイでゲソー! 地上は人類がいっぱいいて腐っているけど、頑張るでゲソよー」

 ゲソ娘とロブ・スターはそれぞれ手と鋏を振り、遠ざかるグソクムシの背中を見送った。

「恐れてはいけない~あなたがいるから~。
 怯えてはいけない~仲間も待つから~。
 進まねばならない~蒼きその先へ」

 漁船はそろそろ漁場に入ろうという頃。この日の海も穏やかだった。



 ――千葉県九十九里浜。

「来ないね……グソク様」

「うん……」

 潮風に吹かれながら、雨雫と九鈴は海を見ていた。グソク様が毎週上陸してくるという海岸で、お供えのコンクリート塀と共に2人はその来訪を待っていた。雨雫の手に握られたDカップ用のブラジャーと、九鈴が手にした海岸のゴミを集めた袋が虚しく揺れるばかり。雨雫の胸は揺れない。



 同時刻、東京湾上に浮かぶ、巨大なゴミの島――その上に建つ数多の壁が待つ学び舎へと、一匹の甲殻類が上陸を果たしていた。



 尚、雨雫の貧乳コンプレックス案件は、次に雨弓とデートの後行為に及んだ際、無い胸で強引にパイズリしようとしたらその姿に雨弓が凄く興奮し、以降貧乳も好きになったので解決した。ヤッタネ!



最終更新:2013年06月17日 06:14