『本番5秒前』


 「葦菜ちゃん! 決まったわよ!!」
 お昼休み、電話を取るなり響いてきた甲高い声に埴井葦菜(はにい・あしな)は思わず片目を瞑って閉口した。黒と黄色で派手にデコレートしたスマホを耳から離し、少し放置する。
 ぎゃあぎゃあ、と喚く声がやや治まった頃合いを見計らい、改めて葦菜は通話の相手──────────業界の敏腕プロデューサー、悪鬼悖屋Sucie(あきもとや・すーじー)に尋ねた。
 「全くもう、耳が馬鹿になっちゃうじゃない。で、何が決まったって?」
 「月9よ月9! ドラマ出演!」
 月曜夜9時を意味する業界用語を、芸能界に身を置く葦菜が知らぬ筈もない。TV全盛期に比べれば流石に数字を落としてはいるもののそれでも依然として人気は高く、今でも高視聴率ドラマ枠の代名詞である。
 当然、其処から導き出される答も。
 「ふ~ん。台詞くらいはあるんでしょうね?」
 大方良くて台詞が二つ三つの通行人に毛が生えた程度の端役だろうが、それでもゴールデンタイムの全国ネットとなれば深夜ドラマとは話は別で、視聴者への露出は勿論のこと、うまく行けば番組スタッフ──────────有名脚本家や実力のあるプロデューサーの目にも留まる事があるかもしれない。そうすれば次のステップアップも夢ではない──────────。
 そこまで皮算用を進めていた葦菜の耳を、再びSucieの金切り声が打つ。
 「何言ってるの葦菜ちゃん! 主演よ主演! 今度の月9、ヒロイン役は…………埴井葦菜、貴女なのよっ!」
 「ほげっ!?」
 皮算用が──────────皮算用でなくなる。

 「ちょっとあんた! 今からあたしと付き合いなさいっ!」
 ざわざわっ! べきぃっ! ざわざわっ!
 5時限目終了のチャイムが鳴り、放課後特有の弛緩した空気に包まれかけた教室に一瞬にしてざわめきが走った。
 爆弾発言という導火線に火を点けたのは、クラスでも三本の指に入る問題児である美少女──────────埴井葦菜その人であり、その告白宣言を受けたのはこれも同じくクラスでも三本の指に入る問題児である美少女──────────ではなく美少年、一一(にのまえ・はじめ)であった。
 少女と見紛う可愛らしい容貌を困惑の色に染めながら、一は数瞬の間降って湧いた現実と向き合い、そして意を決して答える。
 「う、うん…………僕で良かったら」
 その瞬間、教室に響き渡る女子生徒たちの黄色い歓声。
 「きゃーっ♪ ついにツンデレ姫が決定打よ!」
 「これでハーレム王子も年貢の納め時ね……」
 「鬼畜男の娘もこれで大人しくなるかしら?」
 ざわざわっ! べきぃっ! ざわざわっ!
 騒乱が渦となるにつれて、葦菜も自らの言い間違いに気付いてはっとなる。
 「ち、違うの! 『あたしと付き合いなさい』じゃなくって、『あたしに付き合いなさい』の間違いだってば! 今日、ちょっと寄りたいところがあって…………っていうか誰がツンデレ姫よ、誰がっ!?」
 「何気に僕の呼び名もひどい……」
 わたわたと反論する葦菜の様子にくすくすと笑いながら、クラスメイトの女子は続けた。
 「えー? でも、王子も満更じゃない感じの答だったしー?」
 「そんな訳ないでしょ! こいつってばいっつもぽーっとしてるんだから、適当に相槌打っただけよ! そうよね!?」
 「う、うん…………まぁ、そうかな」
 ぎろっ、と決死の眼差しで睨まれ、一は首を縮こませながら頷いた。
 (そうだったんだ…………まぁ、そうだよね……)
 残念そうな表情に、余裕のない葦菜が気付く筈もない。
 「とっ、とにかくそういうことだからっ! 分かったらとっとと行くわよっ!」
 顔を真っ赤にさせながら葦菜は一の手を強引に掴むと、二人で逃げるように教室を後にする。
 「ま、待ってよ葦菜ちゃん、そんな引っ張らなくてもすぐ行くから……」
 困った顔で尻に敷かれつつ連れて行かれる一の有様に、クラスの女子からは微笑ましさを堪え切れない様子で笑い声が上がっていたが──────────。
 「どうしたの、衛子?」
 「…………ちょっと、シャーペンが折れちゃっただけよ」
 級友の呼び掛けに対し、冥界の底の底、紅蓮地獄に流れる極寒の風のような底冷えする瞳と声で、風紀委員の少女は眼鏡を掛け直した。

 校門を抜けて学園の敷地を出ても、葦菜による一の連行は止まらない。ぐいぐい、と乙女らしからぬ腕力に任せて大股でどんどんと突き進んでゆく。
 辛うじて鞄だけは反対の手で掴んできたものの、一としてはそれ以上の抵抗も出来ずにただただ葦菜に従って足を動かすしかない。こうなっている時の葦菜に何を言っても無駄なのは、一も重々承知しているからだ。
 とはいえ、二人のささやかな逃避行もそれ程長く続く訳ではなかった。学園から徒歩数分程度の距離にある小さな公園までやって来ると、漸く葦菜も足を止めた。
 「えっと…………ここが目的地?」
 何の変哲もないありふれた公園ではあるが、葦菜から用件を聞いていない以上、判断のつけようもない。疑問の表情を浮かべつつ一が葦菜を見やると。
 「うーん……なんか地味でぱっとしないけど時間もないし、この際贅沢は言ってられないか……」
 不満たらたらの葦菜の口振りからすると予め目星を付けていた訳でもないらしい。行き当たりばったりこの上ない行動だが、それも葦菜らしいと言えば葦菜らしい。
 「とりあえずその、ここでいいなら立ってるのもなんだからあそこに座らない?」
 一の指差した先には公園備え付けの小さな木製のベンチ。二人が並んで座るくらいならどうにか役割を果たせるだろう。
 「…………それもそうね」
 葦菜としてもそれに異論はなく、一の勧めに従ってベンチに腰を下ろした。一もその隣にちょこん、と座る。
 と、ここで二人同時にある事に気付く。教室を出てから今この瞬間まで、ずっとお互いの手を握りっぱなしだという事実に。
 「ご、ごめんっ……!」
 一は慌てて手を離す。連れて来られた側の一が謝るのも妙な話だが、この二人の関係とそれぞれの性格を考えればこれが自然な姿でもある。いつもなら更に葦菜の理不尽な追及があったりするのだが、今日ばかりはどうやら少々事情が違うようだった。
 「ま、まぁ今日のところは許してあげるわ」
 少し偉そうなのがいつも通りと言えばいつも通りなのだが、やはり何処か様子がおかしい。普段との微妙な差異を感じ取った一は思い切って踏み込んでみる。
 「あの、どうかしたの葦菜ちゃん? なんか今日、変じゃない?」
 「そっ、そそそそそそんなことないわよっ?」
 明らかな挙動不審。お昼休みに誰かと電話しに席を立って以来そわそわとした挙動が目立っていた葦菜だが、一の指摘を受けた今は既に言い訳が利くレベルを超えている。
 見え透いた嘘を付いた葦菜に対し、一は穏やかに微笑んだ。
 「そっか…………それならいいんだ」
 明らかな嘘に騙された風を装う、少年の優しい演技。自らの稚拙な誤魔化しは棚に上げて、葦菜は鋭く指摘する。
 「あのね、そんなのがあたしに通じると思ってるの?」
 逆の立場、本来なら葦菜の方が受けて然るべき追及。口にしてからそれに気付き、その可笑しさに葦菜は思わず口元を緩めてしまった。
 「…………もう、あんたと話してるといっつも調子狂っちゃうわ」
 「あはは、ごめんね」
 一もそれに釣られて笑みを零す。怒った顔も葦菜の魅力とはいえ、それでもやはり美少女の笑顔は格別というものだ。
 「ちょっと話、聞いてくれる?」
 「うん」
 恐らくは、自分がここまで連れて来られた理由。その本題に入るのを感じた一はだからこそ敢えて気負いを見せずに普段通りの返事を返し、葦菜の口が開くに任せた。
 「あたし、次のドラマに出演が決まったの。月9よ月9、しかも何とヒロイン役で!」
 「えっ…………ほんとに? それ、凄い話だよね!?」
 「それ程でもあるわね! ま、あたしの実力を考えればむしろ遅すぎたくらいだけど」
 好意を持っている相手に感心され、葦菜の自尊心は心地よくくすぐられる。
 「型破りな女子高生の登場人物の役柄イメージがあたしにぴったりだって偉いさんの目に止まって…………そうそう、共演者も凄いのよ? 脇を固める俳優陣は実力派のベテラン揃いだし、何より主役は今若手俳優人気ナンバーワンの……」
 挙げられた主演俳優の名前は芸能界に特別詳しくない一でもよく知っている程の有名人である。演技力こそ並程度だが、その甘いマスクと爽やかな笑顔は女子学生から高齢層の女性まで幅広く支持されており、恋愛ドラマで主役を演じた数も少なくない。
 「そうなんだ…………それで今日はいつも以上に落ち着きがなかったんだね」
 「まあね…………って、いつも以上は余計よ!」
 他愛もないやりとり。それは次に訪れる展開を少しでも先延ばしにしようと無意識に考えていた所為かもしれない。
 だが、いつまでもそれを避けて通る事は出来ない。それこそが本題なのだから。
 「それでね…………まぁその、大したことじゃないんだけど」
 言いあぐねても、引き延ばしても、結論は同じ。それならば躊躇いを打ち払って。
 「…………キスシーンが、あるの」
 「えっ…………」
 考えてみれば、何もおかしな話ではない。恋愛ドラマである以上、そういったシーンがあるのは作劇上当然だと言えた。
 しかし──────────。
 一の胸が、ちくりと痛んだ。
 正体不明の幻痛。形のないもやもや。
 「そう、なんだ…………」
 それだけをどうにか絞り出して。男らしさと呼ばれる意地だけで、醜い感情を押し殺そうとして。
 「芸能界で本格的な女優としてやっていくなら仕方ないっていうか、まぁこんなのちょっとした通過儀礼だし、今どきキスくらい、子役の子たちだって普通に…………」
 取り繕うような葦菜の言葉が不意に中断される。
 その手が、ぎゅっと握られていた。
 「…………一?」
 「ごめんね、葦菜ちゃん。ほんとならおめでとう、って言ってあげなきゃいけないのに…………」
 俯いた一の顔には、悲しみが満ちていた。
 「男らしくないけど、こんなこと言っちゃ駄目なのは分かってるけど…………やっぱり僕…………」
 嫉妬と独占欲。どちらも決して褒められたものではない感情の吐露を男にさせるような不始末を、埴井葦菜という少女は女として許しはしなかった。
 「はい、そこまで。皆まで言わなくても、その…………分かったから」
 恥を掻かせずともその気持ちは既に葦菜へと充分に伝わっており、その事実が何よりも嬉しかった。自分の事を想ってくれるからこその焼きもち。それは立場を変えればいつも自分の方が行なっていただけに痛い程分かった。
 だから、次の言葉を言える。扉を開く事が出来る。
 ドラマの出演とキスシーンの存在を打ち明け、それでも最後まで迷っていた事を。
 「あのね、恥ずかしい話なんだけど、その…………あたし、ファーストキスってまだなのよ」
 高過ぎるプライドゆえに今まで守り通してきた、純潔の唇とその秘密。
 「だから、演技なんかで捨てちゃう前に。ちゃんとしておきたいの…………一と」
 「葦菜ちゃん…………」
 「あっ、で、でも勘違いしないでよね! あくまでも練習の為だから! 他に理由とか何もないんだから!」
 慌てて付け加える建前。お人好しが騙される事が──────────騙されるふりをするのが前提の、暗黙の了解。
 一はそれをゆっくりと飲み込んで。
 「僕で…………いいの?」
 「こんなの、誰でもいいってわけないでしょ……相手が一だから…………って、言わせないでよ、ばかっ!」
 「ご、ごめんっ……!」
 羞恥から荒らげた葦菜の罵声も、何処か可愛らしい。
 「…………で、どうなの?」
 「どう、って…………」
 「あんたの気持ちはどうなの、って聞いてるの! あたしとその、キ、キ、キ、キスしたいかしたくないのか、それを聞いてるのっ!」
 「し、したいよ! したいに決まってる!」
 「じゃあ四の五の言わずにさっさとする!」
 「はいっ!」
 叱責され、一はぴしりと背筋を伸ばした。とてもこれから事に至るカップルとは思えない空気だったが、この二人にはそれでいいのかもしれない。
 「じゃあ…………するね?」
 「え、ええ…………き、来なさいっ!」
 ベンチに座ったまま、ぎりぎりの限界までお互いの身を寄せ合う。二人の距離が縮まり、鼓動が、体温が、呼吸までが伝わる。柔らかい感触を伝え合う。
 葦菜は瞼を閉じると、その身を一に預けた。何事においても一を引っ張り回してきた彼女も此処から先は男の仕事と弁えて。身を任せて。
 葦菜の柳腰に一の細腕が回される。ぎゅっと抱き寄せられるその力の意外な強さに、葦菜は戸惑いながらも胸の高鳴りを隠せない。
 (ど、どうしよう、これ絶対聞こえちゃってるわよね!?)
 目を閉じている所為で、自分の心音が異常に大きく聞こえる。密着した体勢は容易にそれを相手にも伝えてしまっているだろう。
 と、そこで葦菜はもう一つの心音に気付く。それは目の前の少年から伝わる、彼女にも負けない程の早鐘を打つ鼓動だった。重なり合うように響く肉体の声。
 (…………なぁんだ……一だってこんなにどきどきしてるんじゃないの)
 その事実は少しだけ彼女を安心させ、身体から余分な力を抜けさせた。依然として胸の昂ぶりは治まらないものの、相手も同じだと分かればそのユニゾンも心地良い。
 強張った身体が脱力し、緊張に引き結ばれていた葦菜の唇が緩やかに解かれる。それは心も身体も一を受け入れる準備が整った、何よりの証拠。恋人繋ぎに絡め合った指と指が、強くお互いを求めて。
 無言の時間は、何よりも長く感じられる。葦菜を徒に焦らすような臆病さを、一は持ち合わせていなかった。
 触れ合う唇と唇──────────心と心。
 一一と埴井葦菜、二人の初めての口付けは。
 何処にでもある小さな公園の片隅で。
 何物にも代え難い特別な思い出になった。
 「んっ…………」
 重ね合っていたのは恐らく僅かな時間。一呼吸か精々二呼吸の限られた間。
 それでもその時間は確かに存在して。
 それでもそのときめきは確かに存在して。
 どちらからともなく離した唇。名残を惜しむかのようにお互いの口元には、相手の雫が濡れ光っていた。
 「キス…………しちゃったのよね?」
 「うん…………しちゃった、ね」
 未だ残る余韻を胸に、呟く二人。そうする事で夢のような瞬間を現実のものとして。
 唇が離れても、二人の距離は変わらない。抱き締めた腕を離さず、ただお互いの気持ちを確かめ合う。それぞれの瞳の中に相手を映しながら。
 流れる沈黙が気恥ずかしくて、葦菜は取り繕うように口走った。
 「ちょ、ちょっと、何か言いなさいよ…………」
 「えっ、何か、って…………?」
 「か、感想…………とか?」
 自分が口にしている内容がどれ程恥ずかしいものであるか、テンパっている葦菜はとてもではないが思い至らない。
 「えっと…………すごく柔らかくって、良い匂いがして、その…………最高だったよ」
 ぼっふん! と葦菜の顔面から自業自得の火の手が上がる。喉元過ぎれば熱さを忘れる事に定評のある彼女が、同じ過ちを更に恥ずかしいシチュエーションで犯す事になるのは後の話として。
 「ま、まぁあたしのすることなんだから何でも最高に決まってるわよね!」
 こんな事でも鼻高々な葦菜が可愛らしくて。
 一は抱き寄せたままの葦菜に囁いた。
 「えっと…………だから、もう一回しても、いい?」
 「へっ…………?」
 普段は受け身がちな大人しい少年の、意外な押しの強さに流されて。
 「本番の為には、もう少し練習した方がいいと思うんだけど…………どう、かな?」
 (ま、まぁそれだけあたしが魅力的、ってことだものね…………そういうことなら……い、いいかな)
 葦菜が頷いたのを確認すると、一は再び顔を近付けて──────────。
 ファーストキスは、甘く爽やかに。
 セカンドキスは、激しく情熱的に。
 「んっ…………ちゅ、ぁっ…………ふっ……!」
 時折零れる吐息と、絡む舌が生み出す蠱惑的な水音。
 お互いの指の股に、それぞれの指が深く入り込んで握り合う。
 (なにこれっ……!? あたま、まっしろになるっ……!?)
 何も考えられなくなる。脳天から走ったびりびりとした衝撃が爪先まで伝わって。
 きゅん、と熱く疼く下腹部の中心に、ずくん、と腰が砕けそうになる。ベンチに座っていなければ、抱き締められていなければそのままへなへなと崩折れていたかもしれない。
 「ぷぁっ…………ちょ、ちょっとストップ!」
 「…………?」
 「あ、あんたちょっと上手過ぎない……?」
 「え、そ、そうかな…………普通だと思う、けど……」
 葦菜の反応に一の見かけによらない卓越した技巧は当然関わってくる。だが勿論それだけに留まらず、葦菜自身の問題──────────恋する乙女として、望みがダイレクトに響いているのだ。
 前者は比較の対象が無い以上断言は出来ないが、後者は自分の事ゆえに葦菜も真摯に見つめるしかない。
 (じゃ、じゃあやっぱりこれって…………)
 それを確かめるには、続ける他は無い。続けて、そしてその先へ。
 中断を乗り越え、再び二人の唇は近付いて──────────。
 ぷるるるるっ♪
 「ひぁっ!?」
 突然の電子音に、葦菜の口から心臓が飛び出しそうになる。
 二人の仲を妨げる、野暮で無粋な着信音。それは邪魔者か、或いは天の助けか。
 「で、電話! 出るわね!」
 「う、うん…………」
 慌てふためきながら葦菜はポケットを探る。
 (あ、危なかったわ……具体的に何が、ってわけじゃないけど、もう少しでなんか後戻り出来なくなってた気がする…………!)
 安堵と、そして何処か残念に思う気持ちを半分ずつ抱いたまま、葦菜は電話に出た。
 「は、はいっ、もしもしっ!?」
 未だ動揺を抑えきれずに通話に応じると。
 「えっ!? べ、別に焦ったりしてないけどっ!? …………ち、違うわよ! 男と一緒とかそういうんじゃないから!」
 嘘に重ねる嘘。しどろもどろな口振りでどれだけ誤魔化せているのか、そもそも誰と話しているのか、一には分からない。黙って見守るしかなかったが──────────。
 「えっ!? ちょ、ちょっと待ってよプロデューサー!? 流れた、ってどういうこと!?」
 電話の内容が何やら怪しい方向に傾いているのだけは薄々伝わってくる。
 「主演俳優と脚本家の不倫熱愛スキャンダルでスポンサーが怒って降りちゃった……って、そんなこと言われても! じゃああたしのヒロイン役の話は…………次があるから気を落とさずに、じゃなくて!」
 あぁ、と一も何となく事情を察してしまった。
 「もっと詳しくせつめ……」
 ガチャ。ツーツーツー。
 通話が切られた後も、葦菜はしばし呆然と立ち尽くしていた。
 「あ、あの…………残念だけど、葦菜ちゃんならまたきっとチャンスが…………」
 慰めの言葉を掛ける一だったが、生憎それは何の効果もなく彼女には届かず──────────。
 「な、何よ! 折角、人が千載一遇のチャンスで喜んだと思ったら! それに、その為に恥ずかしい思いをして練習まで…………!?」
 騒ぎ立てていた葦菜と、一の目が合った。
 ごく客観的な事実を述べるとするならば。
 葦菜がドラマの為に練習した事は全くの無駄であり、無意味であり。
 一とキスをした、ただその事実だけが残った。
 しかも、二度も。
 「あ、あはは…………練習した意味、なくなっちゃったね…………」
 一も思い至ったのは同じで、曖昧な微苦笑でお茶を濁そうとしたが──────────。
 「あっ、あばばばばくぁせdrftgyふじこ!?」
 錯乱した葦菜は一に飛び掛ると、目にも留まらぬスピードで背後に回ってチョークスリーパーを決める。
 「わ、忘れるのよ! 今日のこと全部! もしくは死ぬのよ!!」
 「ぐ、ぐるじ…………」
 夕焼けの暮れなずむ公園。そこが恋人たちの場所に変わるには、まだ少しだけ早いようだった。


                                               <了>