『君が笑ってくれるなら』

 「……助けて、下さい…………!」
 喘息のように荒く乱れた息を整える間も惜しんで。その場に崩れ落ちそうになる身体を、必死に押し留めて。
 少年は苦しみに歪む顔を上げ、懇願した。
 その瞳には色濃い疲労と、それ以上の苦悩と絶望が深く影を落としている。
 「お願いしますっ…………!」
 縋るような眼差しの先には、少年を見下ろす巫女姿の美女の姿。ぞっとするような、この世のものとは思えぬ恐ろしいまでの美貌には全てをひれ伏させる無言の圧力があった。
 重苦しい沈黙が場の空気を沈殿させる。
 それを打ち消す事の出来る唯一の存在である彼女は一呼吸置くと、ゆっくりと口を開く。
 「…………私に何を期待しているのですか、一さん?」
 艶やかに流れる黒髪をかき上げ、玲瓏たる至高の麗人──────────竹取かぐや(たけとり・かぐや)は無感情に問い返す。
 古びた神社の境内に佇立する竹林が、吹き渡る一迅の風にさわさわと震えた。

 一一(にのまえ・はじめ)が危急の事態を知った時には、既にほぼ手遅れだった。
 彼の恋人である少女、埴井葦菜(はにい・あしな)が学園一の美少女に与えられる称号、ミス・ダンゲロスに選ばれるという栄誉を手にしたのも束の間、その身が転校生への生贄に捧げられる事が決定づけられたのだ。
 転校生──────────それはこの世界の理から外れた存在。異世界からの来訪者。常人を逸脱した能力を持つ魔人さえ及ばぬ、超越の絶対者。
 彼らは依頼に応じて何処からかこの世界に現れ、任務を果たした後に忽然と消え去ってゆく。依頼の報酬と共に。
 報酬。それは如何なる基準によるものか、選ばれた人間を指す。
 そして転校生に連れ去られた者は、決して還らない。
 二度と。
 永遠に。
 無論、だからと言ってそれを黙って見ている事など出来はしない。転校生がまだ依頼を果たしていない以上、生贄として異世界へ連行されるには若干の猶予がある筈。ほぼ手遅れだったとしても、完全に、ではない。そう信じて、何処かに必ず──────────恐らくは監禁されているであろう葦菜の姿を求め、一は校内を駆け回った。新校舎を、旧校舎を、部室棟を、講堂を、グラウンドを駆けずり回った。
 だが、それは全くの徒労に終わる。何処を探しても──────────誰に聞いても。
 葦菜の行方が杳として知れない。
 学園内には探し物にうってつけの魔人能力を持つ生徒も居たが、彼らの力を以ってしても探知は果たせなかった。蜂使いの能力を持つ葦菜が常に従えている蜂たちも、虚しく飛び回るばかりで女王の姿を捉える事は出来なかった。
 何の成果も出ぬままに、ハルマゲドン開戦の時が刻一刻と迫る。そうなってしまえば──────────。
 焦りと苛立ちが一の心身を苛む。
 その中で、一が最後の寄辺としたもの。残された、僅かな希望。
 それが眼前に佇む女性、竹取かぐやだった。
 彼女と一は学園内で起こった事件を何度か一緒に解決した仲であり、知らぬ同士ではない。マイペースを貫くエキセントリックな性格と言動、それを補って余りある超然たる美貌。そして会う度に異なる謎めいた能力。
 彼女の姿を求め、気付いた時には一はいつか訪れた神社へと足を運んでいた。
 そして其処にかぐやは居た。
 まるで一を待っていたかのように、当然のように。
 あるべき運命であるかのように。

 「かぐやさんも、ご存知だと思うんですが…………」
 気ばかり急いていた一だが、話しながら徐々に呼吸が整ってくる。が、詳細が語られるのを待つまでもなく。
 「葦菜ちゃんのことですね」
 神出鬼没、独自の情報網を持つ彼女らしく既に事態を把握しているようで、一は皆まで言う必要がない。一秒も惜しい今の状況では喜ばしいショートカットだったが──────────。
 「はっきり申しますが、私は今回の件に関わるつもりはありません」
 示された回答は一にとってあまりにも残酷なものだった。
 「え…………?」
 一と同様に葦菜もかぐやとは縁があり、友人の間柄である。勿論それだけで協力してくれると思い込むのは早計だったのかもしれないが、それにしても冷たすぎた。
 「相手は転校生なのでしょう? 関わっては命が幾つあっても足りません。悪いことは言いませんので、一さんも大人しく手を引いた方が宜しいかと」
 「何を…………言ってるんですか?」
 子どもを諭すような言葉を理解できず、一は呆然とした表情を浮かべた。そんな少年にかぐやは更に冷水を浴びせ掛ける。
 「葦菜ちゃんのことは諦めなさい、と言っているのです」
 「出来る訳ないでしょう!!」
 老竹の幹が抗議を行うように悲鳴を上げ、激した一の拳を受け止めた。衝撃に数枚の笹葉が舞い散り、湿った土の上にその身を横たえるまで沈黙は続いて。
 「あ…………ごめんなさいっ……」
 暫くして我に返った一が謝罪の言葉を告げても、かぐやは沈黙を保っていた。一の激昂に対してと同様に一切の反応を示さずに。
 痺れる指先をきつく握り締め、一は絞り出すように口を開く。
 「どうにか、ならないんですか……?」
 「…………失礼ながら、一さんは転校生を敵に回すということの本当の意味が分かっていません」
 かぐやが意図する言葉は直接対峙して戦う、という意味だけではない。転校生の恐ろしさは戦闘力の高さだけに留まらないからだ。
 「大方、葦菜ちゃんを探し出して助け、その後は見つからないように逃げ回る…………そんなことを考えているのでしょうが」
 図星だった。反論する事も許されず、一は返す言葉に詰まる。
 「それを許す程甘いものではありませんよ、彼らは」
 恐るべき戦闘力による依頼者への助力と引き換えに、転校生が所望する報酬。他の何も求めずそれのみで動く彼らはだからこそ、この上なく執着する。
 「何処に逃げようとも必ず見つけられ、追い詰められ、そして殺されます」
 「見てきたように、言うんですね…………」
 一の呟きに、かぐやは何も言わない。
 「確かにそうかもしれません、僕だけだったら…………でも、かぐやさんの力があれば」
 「買い被りです。一さんは私のことを何だと思っているんですか?」
 「だって、かぐやさんは………………」
 一は、一度だけ言葉を切って。
 そして続ける。
 「…………転校生じゃないですか」
 再び、境内に沈黙の帳が下りる。
 鳥の囀りさえ、虫の身動ぎさえ聞こえぬ絶した空間。
 「…………気付いていたのですか」
 それを打ち破ったのは、ふぅ、と憂いを帯びたかぐやの溜息と共に吐き出された言葉だった。それは即ち、肯定を意味する。
 「確かに私は…………竹取かぐやは、転校生です」
 絶大なる力持つ異邦人。神秘を宿す超越者。かぐやがミステリアスなその存在である事に、一は薄々気付いていた。だからこそ、困窮極まる現状に於いてそれを打破しうる唯一の心当たりとして彼女を頼ったのだ。
 転校生に対抗できる者が存在するとするなら、それはやはり転校生をおいて他にはない。
 「やっぱり…………じゃあ」
 「それでも、協力する事は出来ません」
 明らかになった正体。しかしそれでもなおかぐやは頑なに拒絶した。
 「…………っ!!」
 一に残された選択肢は二つ。
 一つは、かぐやの助力を諦めてこの場を後にし、別の方策を探す。
 もう一つは、この場に留まりかぐやを説得する。
 どちらも困難で、絶望的な道筋であったが。
 一が選んだのは後者だった。
 「でもっ…………!」
 意思を曲げずに尚もかぐやに言い募ろうとする一の姿に根負けしたのか。 その選択に幸運が伴ったのか。
 「…………と言っても納得出来ないようですから、少しだけお話します」
 かぐやは転校生について、そして世界の真実について語り始める──────────。

 ──────────世界は、一つではない。
 自分たちが今、生きている世界とは異なる、それでいて良く似た世界──────────並行世界。
 そこにあるのはほんの些細な違い。僅かな差。
 例えば、誰かが居ない世界。
 例えば、誰かが居る世界。
 それぞれに別の世界がある。
 その数は無数であり、無限に存在する。
 細かく枝分かれする樹形図のように。
 転校生は世界の枠外に存在し、求めに応じて時折世界を渡り歩く。
 そしてその目的は──────────。

 話を聞き終えた一はかぐやに確認する。
 「つまり、転校生同士は争わない、ってことですか?」
 「そうとも限りませんが、原則的には協力関係か、精々不干渉です」
 転校生の中ではイレギュラーな存在であるかぐやも、好き好んで彼らと対立まではしないという事なのか。
 「正直なところ、私は一さんのことは嫌いではありません。どうにかしてあげたい気持ちもないではないのです」
 「だったら……!」
 微かに見えた軟化の態度。だが、続く言葉は一の望んだものではない。
 「ですので、彼女を助ける代わりと言ってはなんですが。一さんを別の平行世界に送って差し上げます」
 「え…………?」
 「この世界と、ほんの少しだけ違う世界……B世界としましょう。其処では葦菜ちゃんを攫う転校生は訪れませんでしたが、別の要因に因って…………一さんは死亡しています」
 淡々と語るかぐや。その内容に一は二の句が継げない。
 「それ以外には此処と何の違いもありません。つまり、一さんがB世界の一さんとして蘇生したことにすれば万事解決します。B世界に居る葦菜ちゃんも、間違いなく葦菜ちゃんなのですから」
 そこで幸せに過ごせばいい、と結んだかぐやの示した提案に。
 一は即答した。
 「お気遣い有難うございます。でも、お断りします」
 「何がご不満なんですか? 平行世界とは言え、本物です。其処にあるものも、人間も。一さんの家族も、友人もみんな居ます」
 仮想現実でも、夢の世界でもない。それは確かに其処に存在する。かぐやの言葉は妄言でもなければ甘言でもない。現実にある、本物の世界なのだ。
 「…………確かに、そうかもしれません」
 かぐやの問い掛けに、一はその事実を否定しなかった。
 でも──────────と、一は続ける。
 「世界が幾つあったとしても。無数に彼女がいたとしても。この世界の…………僕の葦菜は、ここにしかいないんです。今、助けを求めている葦菜が、僕の恋人なんです」
 例え全く同じ記憶を、同じ人格を持っていても。
 それは決して同じではない。
 決して代用品にはならない。
 転校生の価値観からすれば真逆に位置するであろうその答に、かぐやはしかし異を挟まなかった。
 「そうですか……」
 ただ、残念そうに目を伏せた。
 「…………色々無理を言ってすみませんでした。僕はこれで」
 どうやってもかぐやの助力は得られない。それならば最早此処に居る意味は無い、と一は決断して。
 その瞳には、悲壮な決意があった。
 死に向かう者の覚悟があった。
 その末路は想像するまでもない。
 「かぐやさん。もし、別の世界で別の僕に会うことがあったら」
 ──────────その時もまた、仲良くしてくださいね。
 一はそう言って、儚げに微笑む。
 澄み渡る風のように透き通った、哀しい笑顔で。
 今生の別れを告げた。
 「………………」
 意を決して背を向けた一に、かぐやは常に自信と余裕に満ちた彼女らしくない逡巡の後、口を開いた。
 「一さん…………私は直接手出し出来ませんが、少しだけ」
 「…………?」
 掛けられた声に、急ごうとした足を止めて振り返った一の視界に。
 吐息の掛かる距離に、かぐやの麗貌。
 何が起こったかを悟る間もなく、一の唇は奪われていた。
 柔らかさ。驚愕。芳香。戸惑い。美酒。粘音。
 様々な感覚と思考が一の脳内で交じり合い、乱れる。抵抗すら忘れ、暫し翻弄されて。
 「………………っはぁっ……」
 漸く解放されても事態を理解出来ずに目を白黒させている一に、かぐやの落ち着いた声が掛けられる。
 「可能性を、開いておきました。一さんが他の世界で得る力、その一部の前借りです…………横流し、というべきでしょうか」
 かぐやが何を言っているのか、全てを理解は出来なかった。だが、かぐやがその主義に反してささやかながらも助力をしてくれた事だけは一にも分かった。
 「あ…………有難うございます」
 「礼には及びません。さぁ、行って下さい」
 言葉で礼を言うには、時間も何もかもが足りなすぎる。それはかぐやも承知してくれているのだろう。
 一は一度だけ頭を下げると、後は振り返らずに脇目も振らず駆け出して行く。

 ──────────その名に相応しい騎士として、クイーンを守れるよう頑張れよ。
 ──────────俺のようにクイーンを失う騎士なんてのは無様だからな。

 かつて語られた、重すぎる経験者の言葉。
 恋人を失った先達の厳しい叱咤激励が、一の脳裏に蘇る。
 「絶対に助ける! 何があっても!」
 胸に宿る固い決意。
 彼女の笑顔を再び見る為ならば。
 一は目的を果たす為の勇気を掻き集め、彼の戦場へと向かった。




 一の姿が消えてしまっても、かぐやはまだその場に一人佇んでいた。
 かぐやは知っている。
 一の行為は決して実る事はない。
 ある世界では、駆け付けた時には既に手遅れだった。
 ある世界では、果敢に転校生に挑むも敢え無く返り討ちにあった。
 ある世界では、首尾よく恋人を助け出したもののすぐに見つけられ、追い詰められ、そして殺された。
 尽く、無為に終わった。
 無数にある並行世界。その中で転校生が彼の恋人を標的にする世界は何れも、彼から全てを奪い去っていた。
 万に一つも、億に一つも例外は無い。
 無限の彼方を見たかぐやはそれを知っている。
 ──────────だが、かぐやの中のもう一人の自分が問う。
 それなら何故、力を導いたのか。
 無駄な事だと知りつつ、何故。
 人智を超えた力に引き裂かれる二人の運命は、かぐやに遠い記憶を想い起こさせる。
 叶わない願いを。届かない望みを。
 或いは、運命は変わっていたのだろうか。
 あの日あの時、自分にも彼のような少年が傍に居たなら。
 答の出ない、出たとしても無意味な自問。
 それとも──────────自分はひょっとして期待しているのだろうか。
 無限の世界で果たせぬ想いも、数え切れぬ無為な行いも。
 無限に一を加えれば生まれる、新たな可能性が切り拓く事を。
 もし、それがあり得るとするならば。
 自らの長い旅にも、意味があるのかもしれない。

 かぐやの深い瞳にはただ、何処までも続く悠久の空に儚く舞う一羽の揚羽蝶が映っていた。


                                   <了>

                         『僕は悪にでもなる』に続く