朝鮮奴隷制度を解放したのは日本

1894年。この年何があったか?皆さんご存知ですよね、日清戦争です。久しぶりに高校時代の教科書を開いてみました。日清戦争前後の出来事について見てみると、日本国民が知るべき内容に全く触れられていません。どのように記載されているのかというと

 1894年5月、朝鮮で民族主義的な東学を中心に、減税と排日を要求する大規模な農民の反抗が起こった(甲午農民戦争または東学の乱)。朝鮮政府は鎮圧の為に清国に派兵を要請、同年6月清国は派兵した。両国の派兵もあり農民の反抗は収まったが、日本は日清両国で朝鮮の内政改革にあたることを提案した。しかし清国政府はこれを拒否したので交渉は決裂した。

 ここまでしか書かれていません。朝鮮の内政改革とは何の事なのでしょうか?日清戦争は1894年8月1日に正式に開戦し、翌年4月の下関条約調印を持って集結します。こういう時系列を頭に入れながら、是非読んでみてください。

甲午改革

甲午改革(こうごかいかく)は李氏朝鮮で1894年(干支で甲午)から1895年にかけて行われた急進的な近代化改革である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%8D%88%E6%94%B9%E9%9D%A9

まとめ

甲午改革は日本の明治維新に似ており、次のような強烈な改革をもたらした。
1.朝鮮は主権国となる。清との宗属関係を廃止し、完全に独立する。
2.国王は単独で(両班によらず)施政を行う。
3.才能ある者は教育の機会を与えられる。
4.軍隊は素性によらず、徴兵によって築かれる。
5.人材は門地によらず実力登用とする。
6.革の加工とそれに関わる者は賎業とは見なされない。

7.奴隷制及び身分制の廃止。

 当時、李氏朝鮮の支配はロシア帝国、日本、アメリカ合衆国といった朝鮮への影響力を競う外部からの開国、改革、近代化といった強い圧力にさらされていた。
甲午改革は主として、親日派官僚集団によって行われた。
この後、三国干渉が起きるが、それを重視した朝鮮王朝では親露派の威勢が強くなり、またもや事大主義が朝鮮王朝を席巻し、

露館播遷によってこの改革を無に帰すことになる。


 朝鮮では各地で乱が続いていた。1894年に甲午農民戦争が起こり、朝鮮の力が及ばず清に救援を要請し、清は朝鮮出兵を決め天津条約に基づき日本に朝鮮への出兵を申告したものの、その中で

清は朝鮮を属領と称しており、朝鮮を独立国としてみる日本には到底看過できないものであった。

 日本はこの機に独立問題を何とかせんがため京城に朝鮮公司の大鳥圭介を送り、また邦人を護衛するために済物浦条約第五款に基づき護衛兵も日本公使館のある京城に出兵した (なお、日本と朝鮮との間には、「護衛兵派遣ノ権利保留ニ関スル往復」も存在した)。
6月28日、大鳥公司は朝鮮政府に独立国であるか否かを問うたところ、6月30日に朝鮮政府は独立国であると回答した。
日本は朝鮮の恒久的安定を得んがため、以下ような朝鮮内政改革案を6月28日に閣議決定し、これを機密命令として大鳥公司に送り、7月3日、

五カ条の改革案を以て朝鮮に内政改革を切に求めた。

 日本は嘗て朝鮮との旧交隣好を重んじ、且つ東亜の大局に鑑み他国に率先して修好条約を締結し、朝鮮が一個の独立国なることを列国に明かにした。然るに朝鮮は徒らに旧章を墨守して未だ宿弊を除去せず、内乱相次いで起り、竟(つい)に自主独立の基礎を破壊し、屢屢(しばしば)累を隣邦に及ぼし、延いて東亜大局の平和を乱さんとする恐れあるに至った。斯くの如きは我国が隣邦の情誼に於ても、又た自衛の道に於ても拱手傍観する能はざる所である。
因て朝鮮政府は秕政改革の道を講じ速に自主独立の実を挙げ、王国の栄光を永遠に維持する長計を講ずべし。

一、官司の職守を明かにし、地方官吏の情弊を矯正すべし

一、外国交渉の事宜を重んじ、職守其人を撰ぶべし。

一、裁判を公正にすべし。

一、会計出納を厳正にすべし。

一、兵制を改良し、警察の制を設くべし。
一、幣政を改定すべし。
一、交通の便を起すべし。
その後、7月9日に日本の要求は受け入れられ、朝鮮国王は「己れを罪する」の詔「改革に関する国王の勅諭」を発布し、7月10日には「校正廳設置に関する勅諭」が発布され、申正煕・金宗漢・曹寅承を挙げて改革委員に任じて、日本公司は以下の細かい改革案を提示し、改革の協議が始まった。
第一条 中央政府の制度より地方制度に至るまで適宜改革を加へ人材を選抜すべき事
一、有司百官の職制を申明する事、
一、凡そ内治外交の機務は之を議政府に統括し、掌理は故の如くにして、六曹判書は責を分ち職に当り、世道を革め権限は旧例に依る、
一、宮廷の庶務は治国の庶政と劃然区別し、所属の諸官吏は概ね一切の国政に関係す可からず、
一、各外国交渉通商の事は関係重大なるを以て、宜く之を慎み重責の大臣を挙げて之を掌らしむべし、
一、官衙にして政令を行ふに必要なるものは之を存すべく、有名無実の官廳は之を廃すべし、其他各署を合併し務めて煩を去り簡に就くべし、
一、現定せる州府郡縣の治境は其数過多なるが如し、適宜合併して務めて其数を減じ冗費を省略すべし、但治理に妨げ無き様注意を要す、
一、大小の官吏職任を分司して必ず欠く可からざる者のみ之を存し、虚設の冗員は概ね裁汰すべし、
一、歴行格式成例を廃除して、広く人材を挙ぐるの途を開くべし、
一、物を納めて官を授くるは弊生じ易し、之を厳禁すべし、
一、大小の官吏の俸禄は時宜を参酌し、明かに額数を定めて生を営み廉を養ふに足らしむべし、
一、大小の官吏銭物賄賂を索取するの悪習は法章を設けて厳禁すべし、
一、大小の官吏並に地方官私を営むの弊は、法章を設定して厳に矯正すべし、
第二条 財政を整へ富源を開くべき事
一、国家出入の財賦は審査明確にして制度を明かにすべし、
一、会計出納の政務は厳明正準なるべし、
一、速かに貨幣の制度を改定すべし、
一、各道の田沓は数額を明にし、租賦の率を改定すべし、
一、各種租税の法を改定し、併せて税源を開くべし、
一、支款の甚だ緊要ならざる者は概ね減省し、其進欵の増すべき者は力めて請求すべし、
一、官道通衢を平坦広濶にし、京城開港塲間には鉄道を布設し、各道州府縣鎮には電線を通じて往来を利し消息を便にすべし、
一、各開港塲の税関は一切の事務朝鮮国自ら管理して、他に干預せしむ可からず、
第三条 法律及び裁判の法を整頓すべき事
一、現定の法律時宜に適せざる者は概ね革罷し、時宜を参酌して別に法章を定むべし、
一、裁判の法を改正して司法の公正を申明すべし、
第四条 速に兵備警察を整理し、国内の変乱を鎮め、併せて国家の安寧を保持すべき事
一、士官を養成すべし、
一、従来の水陸兵は概ね裁革し、財力の許す限り新式の軍隊を増設すべし、
一、警察の設けは最も緊要なるを以て、京城を初め各邑に衙署を分設し章程を厳定すべし、
第五条 一般の学政を約定すべき事
一、一般の学政は時宜を参酌して改正し、各地方に小学校を分設し童幼を教養すべし、
一、小学の設け漸次緒に就かば進みて中学大学を設くべし、
一、生徒中の俊秀なる者を選抜して、外国に分遣留学せしむべし、

 7月16日に朝鮮政府は大体を了承すると大鳥公使に返答したが、大鳥公使が朝鮮政府に公文を要求したところ、朝鮮政府は7月18日、大鳥公司に対し以下のように伝えた。
 内政改革は既に数年来自らその必要を咸じてゐる所であるから日本政府の勧告に異議はないけれども、今、日本政府が強大の兵力を京城に駐屯せしめ、厳に改革実行の期限を促すが如きは遂に内政干渉の嫌ひなき能はず。此際日本政府に於て先づその軍隊を撤退し、且つ内政の改革に関する公然の照会を撤囘せらるるならば、朝鮮は必ず自ら改革の実を挙げ、日本政府の好意を謝すべし
しかし、清が「清兵の大挙して入韓すべき」を声立して朝鮮政府を脅し日韓間の交渉を妨害していたことが発覚したため、
7月19日に日本は朝鮮政府に、清兵の撤去と朝鮮の独立に抵触する清韓間条約の破棄を求めた (なお、清に対して、日本は当初から日清両国の助力による朝鮮改革を求めていたが、清は拒絶していた)。回答期限の過ぎた7月23日に京城へ向かった所、朝鮮兵との戦闘が起き、日本軍が景福宮を占領し、開化派を中心とした金弘集政権が誕生する。朝鮮国王は改革を拒んだのは閔族及び清の李鴻章や袁世凱等の意見によるもので国王の意志ではないとし、7月24日に「新政の勅諭」「大院君に政務委任の勅諭」「閔族処刑の勅諭」を下した。

7月27日に改革の中心機関として軍国機務処が設置され、次のような改革が進められた。

1.中国の年号の使用を止め、開国紀年に変更。
2.宮内府と議政府の分離。
3.六曹(吏曹、戸曹、礼曹、兵曹、刑曹、工曹)を八衙門(内務、外務、度支(財務)、軍務、法務、学務、工務、農商務)に再編。
4.科挙の廃止。

5.封建的身分制の廃止。

6.奴婢の廃止。

7.人身売買禁止。

8.拷問廃止。

9.罪人連座法廃止。
10.早婚禁止。
11.寡婦の再婚を許諾。
12.財政改革。
13.租税の金納化。
14.通貨の銀本位制。
15.度量衡の統一。
12月には軍国機務処が廃止され、甲申政変に失敗して日本に亡命していた朴泳孝が内務大臣となり、
引き続き次のような改革が進められた。
1.議政府を内閣とし、近代的な内閣制度を導入。
2.洪範14条の発布。
3.八道を二十三府制に変える地方制度改革。
4.税制制度改革。
5.近代的な警察・軍事制度の確立。
6.司法制度の近代化。
 ところが、1895年5月に政権内部の対立で、金弘集内閣が崩壊する。朴泳孝は次の朴定陽内閣でも内務大臣となるが、
三国干渉の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、王妃の閔妃を中心に親露派の力が強まった。
朴泳孝は8月に謀反の疑いをかけられ、また日本に亡命する。
その後は親露派の内閣が生まれ、改革は停滞することとなった。

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 天木は朴次元に小高い丘の家を買い与え 自分もまた家を購入した。この地を離れた時は極貧だったが 今は少しは金に余裕がある。朴兄弟はおの祖国で新たな人生をまた送るつもりでいた。天木は丘の家を自宅兼教会にするつもりだった。天木にとって、ここ朝鮮は活動にうってつけの場所だったし 新しい天地だった。そんな天木にとって信じがたい光景がここ朝鮮がここにはあった。

人身売買 即ち 奴隷市場の存在。

奴隷のことである、売買、贈与、相続の対象となった。つまり、財物として扱われていたのである。
たとえ、両班でも党利党略に敗れれば、奴婢に転落した。
逆に奴婢は子々孫々にわたって、奴婢であり、奴婢の身分から抜け出せる人は極めて稀である

この奴婢制度は1894年に人身売買が禁じられるまで続いた。

身分制度(両班 良人(サンノム、常民、常奴)、奴婢、白丁)
 ここ 漢城の一角 天木がいる場所では奴婢が売買されていた。奴婢は食事や掃除や労働に従事していた。しかし反抗的な奴婢は木檻の中に閉じ込められたり 首に鎖を巻きつけられて座り込んでいた。
ここでは十数人の男女が売買されていた。
まだ衣服を着ているものはいいが 中には裸のまま木檻の中に入れられている人間がいた。絶望。人間としての絶望感がここには流れていた。現実ではひどい環境におかれた奴隷の中にはやせ細り動くことも出来ないものが多数存在して
外国人がそれを見て驚いて目を背ける場面が存在していた。
しかも未だに身分制度が存在して漢城(ソウル)には奴婢 白丁 僧侶はいることは出来なかった。

仏教は迫害されていて 僧侶の地位は低く 日本人はこれに憤慨していた。

性を売る女奴隷の待遇は他の奴隷に比べるとまだまだましであった。

妓生と呼ばれる芸者は両班に使えるものが多く

妓生庁という部署が彼女達を管理していた。

一牌二牌三牌に身分が分かれており低くなると売春をしていたと言う。

但し着物から見て分かるように生活水準は高く、書を書いたり琴を演奏したりすることが出来た。


妓生

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%93%E7%94%9F
朝鮮国に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露するために準備された女性。中国の妓女制度が伝わったものともいわれる。
 李氏朝鮮時代の妓生は、
官に属する官妓(妓女・ソウルに仕える宮妓と地方の郷妓に分かれる)と、私有物である妓生が存在したが、大半は官妓だったようである。
妓生になる女性のほとんどは奴婢であるが、実家の没落・一家離散または孤児となったり、身を持ち崩すなどした両班の娘などが妓生になる場合も多かった。李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いる為の官妓を置き、それを管理するための役所妓生庁が存在した。一般的に、妓生は両班を相手とするため、歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要があった。また、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導する役目もした。

妓生制存廃論争

 1392年に李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには

妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになる

との危惧が出された。山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている。4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下が

妓生を廃止すると奉使(官吏)が人妻を奪取し犯罪に走る

と反論し、世宗はこれを認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した。

妓生庁

李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った。

妓生取締令

 日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ。1908年10月1日には、
取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。

日本統治下の公娼制

 1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された。
 他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった。当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた。第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城の花柳界は全盛を極めた。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている。

大韓民国の妓生・キーセン

 大韓民国の成立後に朝鮮戦争が勃発し、戦火で焼き尽くされた国土の復興には莫大な費用が必要になった。朴正煕大統領は、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約で獲得した資金を元に復興を進め、在韓米軍を新たな復興への資金源として見出した。
当時、駐留米軍に対する風俗店は、朝鮮語でヤクザと呼ばれる非合法の犯罪組織が関与しており、莫大な金額が地下に流出していた。

これを一斉に摘発し、新たな国営の娼館制度を代わりに据え、外貨獲得を行った。これが便宜的に国営妓生と呼ばれる制度であり、更なる外貨獲得を目指して、一時はベトナム戦争時など海外にも派遣された。

「キーセン観光」

 日本が復興し、海外旅行が再開されると、日本からの観光客に対しても、国営妓生が使われた。1990年代まで、キーセン旅行と呼ばれるほど韓国旅行が風俗旅行と同等の意味を持っていたのはこのためである。

外国人キーセン

 漢江の奇跡を経て、1980年代に韓国経済が軌道に乗り始めると、国営妓生の志望者は減少した。不足を埋める形で成長した民間の妓生では、フィリピンやインドネシアなどの東南アジアから女性を誘致するようになった。ソ連崩壊後は、ロシア人女性も誘致の対象となった。
 だが、やがて外国人娼婦に対する違法行為が頻発し、一部で社会問題化する。そして2004年に、韓国の議会は、全ての売春施設を閉鎖し、売春行為を違法とする法改正を行った。これによって、妓生は大韓民国では事実上廃止された。

キーセン・ハウス

 ソウルのキーセン・ハウスでは「清雲閣」「大苑閣」「三清閣」の「3閣」が有名だった。伝統的なキーセン・ハウスで唯一残っていた「梧珍庵」も、2010年に閉店した。

朝鮮民主主義人民共和国の妓生

 朝鮮民主主義人民共和国においての妓生の実態は不明である。ただし、李氏朝鮮時代の官妓に類似するものとして喜び組が存在する。また川村湊は現在の金氏朝鮮(北朝鮮)が全国から美女を集め「喜び組」と呼んで、気に入った女性を要人の夜伽に供していたことから、金正日は「燕山君などの正統な後継者」と評している。

最終更新:2013年07月05日 17:44