これも歴史の真実


慰安婦捏造詐欺の元ネタ → 朝鮮南部連続少女誘拐事件

 1932年(昭和7年)から1939年(昭和14年)にかけて、日本統治時代の朝鮮の南部地域(慶尚道・全羅道地域)で続発した連続少女誘拐事件である
犯人は京畿道京城府本町(現大韓民国ソウル特別市中区忠武路)在住の朝鮮人夫妻で、
夫は大田刑務所の元看守であった。
1932年(昭和7年)に、夫は大田刑務所を退職したが、転職の当てがなかったため、とたんに生活が苦しくなった。 そして「金儲けは娘誘拐に限る」と称し、妻と共謀して★連続少女誘拐と人身売買★を手がけるようになった。

犯行の手口

 慶尚北道大邱府南山町(現大邱広域市中区南山洞)の民家に犯人夫妻が訪れ、「俺は京城でも相当な資産家だ。子守娘を雇うのだが、君の娘はどうだろうか。京城の娘はどうも生意気で・・・」と言葉巧みに親を説得し、前金として10円を支払い、その家の娘(当時18歳)を引き取った。その後、娘を京城ではなく
中華民国の天津に連れて行き、1000円で売り飛ばしたという。
その後の7年間、同様の手口で朝鮮半島南部の少女約150人を拐し
当時は日本人と朝鮮人などの植民地の人間はパスポートなしで渡航できた満州国や中華民国の人身売買市場に連れて行き、約60000円を荒稼ぎしたという。
加害者及び被害者が全員朝鮮人だったことから、朝鮮語メディアである東亜日報や朝鮮日報が特集を組むなど、大きく取り上げられた。

国会での事実確認追及を強く求めます! 当時の記録はきちんと残っています。


朝鮮半島引き上げ時の日本女性の悲劇 「二日市保養所」

 二日市保養所は、福岡県筑紫野市にあった厚生省引揚援護庁の医療施設。 ここでは、
レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行いました。 当時堕胎は違法行為(堕胎罪)でしたが、厚生省は超法規的措置として黙認しました。
 終戦直後より在満、在朝の日本人は塗炭の苦しみを味わいました。 追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏む事なく無念のうちに斃れた者も少なくなかったのです。
これに加えて女性は、朝鮮韓国人やソ連兵等による度重なる強姦を受けた末、心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりしたにもかかわらず、何ら医療的治療が施されずにいました。
そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が少なからず出たのです。
 日赤看護婦だった村石正子さんは、46年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」 と当時の様子を証言しています。
処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった17歳の師範学校女生徒の事等を思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、50年余りがたち「歴史の 一ページとして証言しなければならない」と思ったといいます。

厚生省「超法規的措置」で保養所開設

二日市保養所。
入り口脇には「厚生省博多引揚援護局保養所」の看板
がかかっていた(福岡市総合図書館所蔵「博多引揚援護局史」より)
「不幸なるご婦人方へ至急ご注意!」。満州(現中国東北部)や朝鮮半島から博多港に向かう引き揚げ船では、こんな呼びかけで始まるビラが配られた。
「不法な暴力と脅迫により身を傷つけられたり……そのため体に異常を感じつつある方は……」「診療所へ収容し、健全なる体として故郷へご送還するので、船医にお申し出下さい」
全文を読んでも、どのような治療を行うのか明示されていなかったが、ソ連(当時)の兵隊などの暴行で妊娠していた女性には見当が付いた。
中絶手術。優生保護法が1948年に成立するまで、原則、違法とされた手術だった。
 ビラを配ったのは、現在の韓国の首都ソウルにあった京城帝大医学部の医師たちのグループ。このグループは終戦後の朝鮮半島で日本人の治療に当たっていたが、ほとんどは45年12月ごろに帰国。引き揚げ者の治療を続けるため、
外務省の外郭団体「在外同胞援護会」に働きかけ、
グループ全体を「在外同胞援護会救療部」に衣替え。
46年2月、博多港に近い日本最古の禅寺「聖福寺」に、診療所「聖福病院」を開設した。
 帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか――。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。
すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。
 外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。
医師らから提案を受けた厚生省(当時)博多引揚援護局は福岡県と交渉し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。
旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」を開設した。
 厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は
「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」
と推測する。
 京城日赤病院に勤務していた村石正子さん(80)(筑紫野市)は、45年12月に帰国した後、母親のふるさと・種子島で暮らしていた。「仕事を探しているなら二日市に来るように」。約3か月後、日赤幹部から1枚のはがきが届いた。
 二日市保養所を訪ねると、京城日赤病院時代の看護師10人が集まっていた。医師から仕事の内容を聞かされ、風呂場を改造して手術台と戸棚を置いただけの“手術室”に案内された。宿舎としてあてがわれた2階の10畳の和室では、「中絶手術って違法じゃないの?」と話し合った。
 だが、悩んでいる余裕はなかった。数日後、トラックが到着した。荷台に乗っていたのは、短い髪に汚れた顔、男性用の服をまとった人たち。「男か」と思ったが、下腹部の膨らみを見れば女性であることはすぐにわかった。

引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐

「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対する
ソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。 
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。
靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのはふつう。一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。城津での惨状は言語に絶した。(中略)朝鮮_人の男女が数十人の団体でおしかけ、干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
「博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。
また、性病に感染した女性たちにについても、匿って回復するまで治療が行われた。
「二日市保養所」の産婦人科部長だった橋爪医師の証言が、「水子の譜」に収録されている。
同医師が昭和21年6月10日付で救療部に提出した報告書によれば、
強姦の加害者は朝鮮人が最も多く
次いでソ連人、中国人、アメリカ人、そして台湾人、フィリピン人も登場する。
「正論」 平成17年 11月号
http://megalodon.jp/2013-0424-1402-06/fujisansaikyo.blog70.fc2.com/?mode=m&no=273

韓国政府は真実が書かれた都合の悪い本を発売禁止にした

 「竹の森遠く」は、1986年にアメリカで出版されました。 2005年に韓国でも「ヨーコ物語」という題名で出版さ
れていますが後に発売中止となりました。 韓国にとって都合の悪い本なので、韓国政府は発売を禁止したのでしょう。
 この本の内容は、大東亜戦争末期、朝鮮半島からの引き揚げ時、当時11才であったヨーコさんと家族が目撃した史実が書かれています。
韓国人らに追い回されて命からがら日本へ逃げ、韓国を抜けだす過程で日本人が韓国人に強姦され、暴力により日本人の人々が死んで行った目撃談です。
「So Far from the Bamboo Grove」は、1987年からアメリカの学校で社会科の教科書として採用されています。
続編の「My brother my sister and I」も、ニューヨーク・タイムズ最高賞、Publishers Weekly最高賞等多くの賞を受賞しています。 彼女の著書と講演に感動した多くの学生達の推薦により、1999年には、ピース・アビーから平和賞が贈られました。 
この賞は、世界的に有名なガンジーやマザーテレサ等、平和に貢献した人達に贈られる賞です。

日本国民を本気で怒らせたので、真実はどんどん暴かれる  慰安婦捏造詐欺の裏

「竹の森遠く」は、敗戦後の朝鮮半島で日本に引き上げようとする日本人達が、現地の朝鮮人によって、殺人・強姦・陵辱の被害を受けるドキュメントタッチの小説(韓国題「ヨーコ物語」)で、
この物語がアメリカの推薦図書になっている
ので、在米韓国人社会と韓国本国で(小説も作者も)一大排斥運動が生じているのだ。

 作者のヨーコ・カワシマ・ワトキンス氏は、一連の騒動の後、在米国韓国人団体から助っ人を依頼された731部隊研究の世界的権威(と自称する)ダニエル・バレンブラットなる人物から、執拗な吊るし上げを受けた模様である。
 ネイティブアメリカンを絶滅寸前まで追い込み、原爆で広島・長崎の一般市民までジェナサイドし、石油欲しさにイラクで好き放題を演じているアメリカ人が、正義派ヅラしてヨーコ氏に父親と731部隊の関係を迫るとは笑止千万だ。 大体、自分が奉じる正義に酔った人間が繰り広げる行動ほど、始末に終えないものはない。

 韓国各紙のプレス発表から伺い知れることは、ダニエル氏ならびに在米韓国人社会が導き出したい結論は、「竹の森深く」を著したヨーコ・カワシマ・ワトキンス氏の父親が、何がなんでも731部隊に関わった人間でないと困るようなのだ。
日本のマスコミでは、こうした一連の動きは一切報じられてはいない。

なぜ男女共同参画予算で歴史的真実を隠蔽し、事実無根の捏造を広めているのでしょうか?

祝 ついに日本語版発売決定  皆さんの勝利です


詳しくは→ 東アジア黙示録
 終戦直後の朝鮮半島でやむことなく続いた蛮行の数々…『竹林はるか遠く』には、少女が目の当たりにした陰惨な歴史事実が、時に狂おしく、時に淡々と暴き出されている。まさに朝鮮の暗黒面だ。米国の児童が親しむノンフィクション作品に“異変”が起きたのは、2006年秋のことだった。
ホ・ボウンという在米2世の朝鮮人少女が学校教材の『竹林はるか遠く』に抗議したのが始まりとされる。
作品に登場する朝鮮の“国技”に激怒し、教材として使わないよう学校に強要、登校拒否を宣言したという。奇しくも、悲惨な体験をした川嶋擁子さんと同じ11歳の少女であった。
「2度と『ヨーコ物語』のような小説が幅を利かせられないようにしなければならない」少女の母親パク・ヨンスンも、猛烈な抗議を展開。
ノンフィクション作品をデタラメと糾弾したのだ。
これに米国内の南鮮人団体が呼応、全学校から『竹林はるか遠く』を追放するよう主張し始める。
「米国の学校でこの本を教材として使用するのは、韓国系生徒や保護者らに対する一種の人種差別であり、人権侵害だ」
あろうことか禁書扱いにするよう訴えたのは、駐ボストン南鮮総領事の池永善(チ・ヨンソン)だった。
南鮮の在米公館が、一冊のノンフィクション作品弾圧で前面に出てきたのである。

そして、川嶋擁子さんへの執拗な個人攻撃も波状的に始まった。

【事実無根のデマで謝罪を要求】
「京城に来て五週間が経ったある日、好が深刻な事態を知らせた。『私たちは京城を出なければいけない。朝鮮人の男たちが、薮の中へ女の人たちを引きずって行くのを見たし、若い女性に乱暴しているのも見たわ』好は震えていた。『女の人たちは金切り声を上げて日本語で助けを求めていたの』」(前掲書111~2頁)
朝鮮人にとって不都合・不愉快な歴史真実である。
南鮮人は、それを嘘と決め付け、著者個人を嘘付き呼ばわりしたのだ。歴史を直視できない野蛮人集団である。
「著者の父親は731部隊の高位幹部だった」
まったくのデタラメだった。しかし、在米の南鮮コミュニティは積極的に流言を拡散。
南鮮メディアも追従し、川嶋擁子さんに「否定するなら証拠を出せ」と脅し始めたのだ。
擁子さんの父は満州鉄道に勤務し、シベリアに6年間抑留されるという辛い体験を重ねた。しかし、南鮮人はシベリア抑留者全員を“戦犯”と断定。
そして731部隊の医官というデマを飛ばしたのである。
もっとも731部隊のどこが悪いのか不明だ。正式名称は関東軍防疫給水部本部。満州の風土病を研究し、感染症の予防に努めて何十万の現地住民を救った我が軍の専門機関だった。
「この本のため韓国人の子供たちがクラスで孤立する状況になっている。政府次元の是正活動を積極的に広げていく」
ボストン総領事・池永善は、南鮮政府も弾圧に加担していることを明言していた。実際に南鮮の外交通商省が米連邦教育省や各州に圧力をかけていた事実も発覚した。
現在、米国内で広がる腐れビッチ碑の設置と表裏一体の構造だ。『竹林はるか遠く』に関して南鮮側は「在米子弟がいじめられる」と主張していたのである。
吉田清治の架空戦記をノンフィクションと決め、偽り史実を訴える一方、川嶋擁子さんの手記を「創作」として糾弾、謝罪を求める…異常な事態が起きているのだ。
朝鮮が官民上げた弾圧活動は、一定の広がりを見せたが、限界もあった。

作品の評価は揺らがず、川嶋擁子さんの講演は数年先までスケジュールが埋まっているという。かけがえのない不朽の名作なのだ。


『水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録』(現代史出版会)

「引揚げの途中である村を通過する際に人質を出すという。~/~人質に選ばれて強制されて行くでしょう。そして朝帰ってくると、もうみんなが、同じ日本人の団員が白い眼でみていろいろいうらしいのね。~」
佐賀県・中原療養所で働いていた福士さんのことば
「兵隊同士が女の居所について情報を交換し合っていたらしく、『移動のたびに新しい兵がやってきて…』と両親は泣いていた。
その結果娘さんは妊娠してしまったわけでね」田中さんは両親から、娘をどうかもとの体にもどしてくれないか、~と泣きつかれた。
この親の申し出に、田中、泉氏ら救療部の人は、どう対処していいか迷いに迷ったあげく、とりあえずこの教え子の堕胎手術にふみきった。【168頁・堕胎手術に失敗し、母子ともに死亡した】
暴行したのはソ連軍の兵士である。
泉靖一氏たちの認識はこうであった。「戦争に暴行はつきものである。北朝鮮に進駐してきたソ連兵は、長い戦争の間、極端な耐乏生活をへてきただけに、戦禍にさらされていない朝鮮で目にうつるものは何でも欲しがった。特に最初に進駐してきたソ連軍は戦闘部隊であるだけに、粗暴なものが多かった。
婦女子への暴行は、日本人ばかりではなく、朝鮮人の女性にも見さかいがなかったようで、北部朝鮮からは朝鮮人の南下者も激増した。【169頁】
ひどいのは六十三歳になる老婆さえ暴行を受けました。【216頁・佐世保婦人相談所の問診日誌より】
http://plaza.rakuten.co.jp/chako8000V/diary/201205040000/

 帝大医学部の医師たちが、なぜ、違法な手術を決断したのか——。きっかけは、暴行されて妊娠した1人の教え子の死だったという。
 このグループの一員で、京城女子師範学校で講師も務めた医師は、引き揚げてきた教え子と久々に再会した。しかし、話しかけても泣くばかり。両親から「ソ連兵に暴行されて妊娠した」と打ち明けられた医師は、グループの他の医師と相談して中絶手術に踏み切ったが、手術は失敗し、女性も胎児も死亡した。
すでに、博多港に着きながら、暴行されて妊娠していることを苦にした別の女性が、海に飛び込んで自殺する事件も起きていた。
 外国人との間に生まれたとすぐにわかる子供を連れた母親が1人で故郷に帰り、新しい生活を始めることは極めて難しい時代。医師たちは、目立たない場所に別の診療所を作り、ひそかに中絶手術を行って故郷に帰そうと考えた。
医師らから提案を受けた厚生省(当時)博多引揚援護局は福岡県と交渉
し、同県筑紫野市・二日市温泉の一角にあった広さ約420平方メートルの木造2階の建物を借り上げた。旧愛国婦人会の保養所で、博多港から車で約40分。交通の便は良く、浴室にいつも温泉がわいている建物は医療施設としても好都合で、医師たちは医療器具を持ち込み、46年3月、「二日市保養所」を開設した。
厚生省が違法な手術を行う医療機関開設に踏み切った背景について、当時、聖福病院に勤務していた元職員は「妊娠は、暴行という国際的に違法な行為が原因。国は目をつぶって超法規的措置を取ったのだろう」と推測する。

恨みと怒りの声、手術室に響く

 引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、数日間の休養の後、手術室に通された。麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。
「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(同)は、硬い表情で思い返す。ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」——。手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。
 おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。
 幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。白い肌に赤い髪、長い指——。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。
 食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。
死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった吉田はる代さん(78)(埼玉県川口市)らの仕事だった。
手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。
 手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。会話もなく、横になっているだけ。大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。
 女性たちは1週間ほどで退院していった。村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、400〜500人にのぼると見られる。
1947年7月に設立された済生会二日市病院は、二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。
設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。島松さんは、
二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」
と記憶している。一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。
二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。
今年の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、当時を思い出しながら、むせび泣いた。「私はこの手で子供の首を絞めたんです。60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」

相談員だった母…暴行・妊娠を聞き取り

 博多港とほぼ同じ約139万人が引き揚げてきた佐世保港。「引揚第一歩の碑」が立つ
 戦後、九州で博多港とともに中国大陸などからの主な引き揚げ先となった長崎県・佐世保港。佐世保市に住む中山與子(ともこ)さん(66)の母、西村二三子さんは、終戦翌年の1946年5月、佐世保引揚援護局が設置した「婦人相談所」の相談員だった。西村さんは77年に70歳で亡くなったが、その数年前に相談員だったことを中山さんに打ち明けていた。
「相談員当時の母は、朝早く家を出て、夜には消毒薬のにおいをさせながら帰宅していました。でも、何の仕事をしているのか、具体的には全くわかりませんでした」
中山さんは振り返る。
相談員を務めたのは、女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」会員の主婦たち。
15〜50歳の女性引き揚げ者を対象に、引き揚げ中に暴行を受け、妊娠していないかどうかを聞き出し、
妊娠している場合は、中絶手術を受けさせることが役目だった。
 相談員だったことを打ち明けた西村さんは、「問診日誌」と題した、便せんをとじ込んだつづりを中山さんに手渡した。西村さんら相談員による聞き取り記録で、女性たちが満州(現中国東北部)などで受けた暴行被害が克明に記されていた。
16歳の女学生がソ連軍(当時)の司令のところに連れて行かれ、暴行されそうになったので、見るに見かねて身代わりとなった。
ソ連兵から女性を要求されたため、売春をしていた女性を雇いに行く途中に暴民に金を奪われた。やむを得ず、未婚の女性47人を出し、足りないので、さらに未婚の女性80人を出した——。
 日誌では引き揚げ者の女性たちは、つらい体験を具体的に語っていた。だが、
暴行のために妊娠した女性について、佐世保引揚援護局史には、「婦人相談所で事情を調査し、療養処置を要する婦女子は国立佐賀療養所(現在の東佐賀病院)に移送した」としか記されておらず、実態は明らかではない。
 佐賀療養所でどのような治療が行われたのか——。同援護局史には書かれていない事実の一端が、一通の手紙からうかがえる。手紙は戦争にまつわる女性の被害を調べていた九大医学部卒の産婦人科医・天児都(あまこくに)さん(71)(福岡市城南区)が97年、九大医学部産婦人科教室OBの医師数人に尋ねたところ、1人から送られてきたものだ。
「厚生省(当時)に助教授が招かれ、(中絶手術を行うように)指示があった」
「(産婦人科教室の医師が)1、2か月交代で佐賀療養所に行っていた。患者の大部分はソ連兵や現地住民に暴行されて妊娠した人で、妊娠中絶が主な仕事だった」——。
厚生省の指示によって、
国立病院で、当時は原則として違法だった中絶手術を国立大医学部の医師たちがひそかに行っていた——と告白する内容だった。
 組織ではなく、個人的に中絶手術を手がけたという医師もいる。博多引揚援護局が福岡県筑紫野市に設置した二日市保養所に下宿しながら九大医学部に通った東京医科大名誉教授・相馬広明さん(84)(東京都世田谷区)。
 相馬さんは終戦後、国立福山病院(広島県福山市、現在の福山医療センター)で、18歳くらいの女性の手術をした。卵巣の腫瘍(しゅよう)だと診察したが、開腹して妊娠と判明。慌てて腹部を縫い合わせ、麻酔から目を覚ました女性に聞くと、
「実は終戦直後にソ連兵に暴行された」と打ち明けられた。
 相馬さんは女性に中絶手術をし、ほかにも同様の手術を数件行ったという。
http://hogetest.exblog.jp/4979697
http://megalodon.jp/2013-0514-0157-56/hogetest.exblog.jp/4979697

二日市保養所-終戦当時、朝鮮半島で強姦された日本人を保護

http://ameblo.jp/campanera/entry-10255029198.html
多くの日本人に見てもらいたい。太平洋戦争後、朝鮮半島から日本人が日本に帰る(引き上げ)時に、多くの日本人女性が レイプされ、強姦犯の子供を宿しました。
福岡県の二日市保養所は、レイプ被害に遭った日本人女性に堕胎手術や性病の治療を行った。当時堕胎は違法行為であったが、厚生省は超法規的措置として黙認した。その病院だけでも数百人の日本人女性が麻酔無しで堕胎手術を受けた。
http://megalodon.jp/2013-1022-1207-47/ameblo.jp/campanera/entry-10255029198.html
ヤン・ジュヒョン(76) 釧路出身
父親は阿寒炭鉱で数百人の炭鉱夫をまとめる会社経営者
乗馬に興じる余裕があった程裕福な暮らしをしていた。
14歳の時釜山に引き揚げる。
釜山には不良者がたくさんいた。一人では街に出てはいけないと言われていた。街に出てみると、男たちが大声を出し、女を抱いているのを見た。
海の方に連絡船の往来を見ると日本に帰りたいと思った。
戦後最大の引揚港だった博多港
着のみ着のままの大勢の日本人を乗せた船が連日港に接岸した。
中田治子(80)
朝鮮半島からの引き揚げ者
終戦直後の混乱期にはソ連兵や現地人(韓国人、朝鮮人)らによる略奪、そして強姦が平然と繰り広げられていた。
中田さんの父親は年頃の中田治子さんのことを案じて止まなかった。
当時18,9だったから坊主にして、兄の服を着たり、男の子の格好をするように言われた。
そんなある日の夜、自宅に男たちが押し掛けます。中田さんは隣の家に身を寄せ、静かに時を過ぎるのを待ちました。何か棒を持っていて入ったのか、ガサガサ探している音が聞こえた。

朝鮮は日本統治され、発展し、朝鮮人の寿命が伸びた事実があります。
戦時中は、共に戦いましたが、日本が負けた事を知ると日本人を虐殺したり、日本人女性が強姦されたりした事は、紛れもない史実です。
台湾にいた日本人は、台湾人と涙ながらに別れて引き揚げて来ました。
しかし、朝鮮半島からは、命からがら逃げて来たのです。
終戦1週間前の1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦を布告して満州と朝鮮に侵攻して来ました。
窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫等にアリのように人間が群がった。家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。
 町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。ある人はトランクを担いで逃げる。皆走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。
引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。
南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。
北と南に民族性の違いはないのである。
「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」朱栄福著
 8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった… 文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。
元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めた
という噂が入ってきた。私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。
 そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。
ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。
その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。
私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。
ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。
 こんなに恐ろしいことになったのも、

それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、

日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、

警察官補助者であった者が保安隊員となって

報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。
 命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、
顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。
保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。
ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。
私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。
(中略)
 そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。
 秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。
 あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した… 両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。元山駅に向かって歩き出した… 数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、お互いに励まし合って、またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。戻ってみてびっくりした。家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。
実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。
その上に今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった… 布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。
 厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった… 薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。
ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。

女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった…

死者が出ても葬式をだせるはずもない… なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た… 深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。 家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした… 
保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。
噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。
(中略)
 昭和21年の正月を収容所で迎えた。その頃になると満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。 …相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどり着いたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。 …収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。 …やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された… 北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行なわれていない。命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。
それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。
いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。
元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の38度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。
 私たちの脱出グループは70人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した… 闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。38度線突破行の第一歩がこうして始まった… 東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした… 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。通行料は10円ぐらいだったと記憶している。そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、2、30円は取られていた… 38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかった… 行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。 …連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて歩くのも困難になった人が出てきた… ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。 …3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。
…国境近くになると警戒が一段と厳重になって。保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。 …疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっと安堵の胸をなで下ろした。38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。
 いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。そしてさらに、「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。 …ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが全てであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。
 夜半の12時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた… そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。無言の行進が続いた。しばらく歩いている時に、家畜商人が「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。はじめてだまされたことに気付いた。みんなはそれを知って、一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜が降りてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。
…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。 …しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。)戦争は、本当に怖く悲しいものである。アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。帰国が果たせなかった多くの人が、異郷の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。
私の三十八度線突破記録  梶山緑
北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、
在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられる事になった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。
反抗したもの、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。

ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かった。

富坪の避難民3000名中、その半数が死亡した。
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
 在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾に倒れ、人々は南に辿り着いた。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 
日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行する事になった。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。牛車代は多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。
 もうこの頃には、醵出する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、
「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」
と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。
生きて祖国へ5 死の三十八度線  引揚体験集編集委員会編
http://create21.iza.ne.jp/blog/entry/1463002/
http://megalodon.jp/2013-0514-0234-08/create21.iza.ne.jp/blog/entry/1463002/

 昭和20年7月26日、ベルリン郊外のポツダムで、米英中華共同の対日宣言が発表されたが、当時の日本人の殆どは、ポツダム宣言受諾の動きなど未だ知らず、ヒタヒタと迫り来る連合軍の包囲下にあって、本土決戦、一億総特攻のかけ声に、いよいよ生と死の対決に迫られる時がきたのを感じていました。
 やがて広島、長崎に原爆が投下され、両市は一瞬のうちに壊滅しました。そして同年8月9日、ソ聯軍が対日参戦。ソ聯軍侵攻と同時に満州は戦火にさらされ、満州在住日本人は避難を開始し、ソ聯軍の攻撃に合い、暴徒と化した満人の襲撃を受け、大勢の人々が殺されたり、集団自決をしたり、略奪されたり、大変悲惨な運命にさらされていました。
 ソ聯軍は満州だけでなく、日本海に面した北朝鮮の、羅津や清津の港町にも上陸を開始し、これらの街は火の海と化し、多くの日本人が避難を開始しました。満州や北朝鮮北部の避難民が着のみ着のままで一挙に南下してきて、北朝鮮一の大都市であった平壤の街も大混乱をきたしていました。
 当時平壤中学の生徒であった私達は、これらの避難民を、学校やお寺や旅館やその他収容できる建物へ誘導してゆく役割に
日々追いまわされていました。当時平壤の人口は約40余万人、その内日本人は4万人余、避難民は在住日本人の約30%といわれています。
 やがて8月15日終戦の日を迎えました。真夏の炎天下の校庭で終戦の報に接した時は、負けて残念というより目の前が明るくなり、これで助かったという思いの方が強かった感じでした。
 当時私達一家が住んでいた巖町の社宅の下には、平壤刑務所の赤レンガの建物が広がって見え、毎日毎晩釈放されたばかりの政治犯を取り囲み、各種の団体のデモ隊が「独立万歳」を叫び、怒号と喚声と歌声とで騒然として不気味で怨念に満ちた雰囲気に包まれていました。
 8月25日、そっとカーテンの隙間から眼下の路上に目をむけると、草色の詰め襟に半長靴スタイルのソ聯軍兵士の姿が望見され、これらの兵隊達は一様に肩から小型の自動小銃をぶら下げていました。私達はこれをマンドリンと呼びました。日本軍は実弾の管理が厳しかったようですが、軍規の弛んだソ聯軍は、これらの兵士に丸型又は縦型の70数発の実弾入り弾薬の携帯も許していましたから、彼らは街中を歩きながらでも面白半分に発砲するのです。
 それからというものはマンドリンを突きつけてのソ聯兵の凄まじい略奪が始まりました。
略奪に加えて・・・暴行、強姦、拉致、殺傷などの行為は、周囲の目を意識せず公然と行うのです。
私の家にもこれらのソ聯兵が土足のまま上がって来て時計やアクセサリー等めぼしい物を略奪していきました。
 その頃。北朝鮮と南朝鮮との境界とされた38度線はソ聯軍によって完全に封鎖されたため、私達日本人は北朝鮮に閉じ込められたことになりました。やがて日本軍将兵は武装解除され、平壤市郊外の秋乙にあった旧師団に終結させられ、満州の延吉経由でシベリアに送られ、その後数年も酷寒のシベリアで過酷な強制労働に服することになります。これらの将兵達を満載したトラックの列は、平壤市内を毎日走り抜けたが、将兵達は一様に 「一足先に日本に帰ってお待ちします」 と叫び、私達は 「兵隊さん頑張って」 と叫び、お互い手を振って別れを見送ったものの、まさかこれらの将兵が酷寒のシベリア送りになるとは思いもしませんでした。
 またソ聯軍は日本軍の員数が不足しているという理由で軍人でない18才から40才までの一般男子を街頭から連行し、同じくシベリアに送り強制労働に服させたのです。私は船橋里の広場でこれらの人々がソ聯兵に連行されて行く姿を恐怖心を抱きつっ見送ったものです。私達少年は毎日の様に使役と称して飛行場や兵舎、倉庫やその他施設の資材などの運搬や貨車への積込などの労働に無償でかり出されました。また日本人の警察官、司法関係者、行政官庁の職員、大会社の幹部社員等はその頃創立されたばかりの北朝鮮保安隊に逮捕拘留されました。当時62才だった私の父も前職が刑務所長であったということで大同保安署の留置場に拘留されました。日本人がこうして逮捕、収監されたので留置場はすしづめの状態となりましたが、父達は居房内で正座を強いられ、姿勢を崩すと棒で強く叩かれたりしたそうです。父はその後3ヶ月ほど拘禁され、北朝鮮では官吏として勤務した経歴はないという主張が通って12月中旬釈放されました。
 やがて北朝鮮当局から接収という名目で私達一家は社宅から追い出されることになります。それも1時間以内に立ち退けという命令で、私達は長年愛着して使っていた家財道具を捨て、持てるだけの衣類や日用品をリックに詰め仮住まいの住居に住むことになりました。このようにしてソ聯軍の幹部達は日本人の住宅を接収して進駐中、家族を呼び寄せました。北朝鮮の当局者達もこれにならって日本人の住宅を接収して、短時間の内に立ち退きを強要し、建物のみか残された家具、調度品、その他の荷物はすべて没収してしまうのです。
 その頃父は大同保安署に留置されていたので、これらの立ち退き作業は当時43才だった母の采配で行われました。だがその第二の住宅も間もなく接収され私達は船橋里の旅館跡に押しこまれます。そして10月の中旬にはその旅館跡からも追い出され、第4の仮住まいは同じ船橋里の一軒家の四畳半の部屋に押し込まれました。 この家の前に医師の一家が仮住まいし、医院の方はソ聯の将校が居住していました。その将校の当番兵にグレイシヤという好青年がおり私達はこの若い兵士と仲良くなりました。 
 その頃「マダムダワイ」という怒号と銃声と、建物の入り口を銃床で叩いたりするソ聯兵が夜毎あとをたちませんでしたが、その都度グレイシヤがで出てきて追っ払ってくれて、
この一画だけはソ聯兵の婦女暴行の魔手から逃れることが出来ました。
それでもこの一画から一歩でも出ると、そこには日本人婦女子にとっては恐怖と汚辱とに満ちた世界であり、夜毎ソ聯兵が踏みこんできて、銃で威嚇し、女性と見れば見境なく、衆人監視の中でも平然と強姦に及びました。 
婦女子は髪を切り、顔を汚して、男のような服装をして、床下に穴を掘って隠れる等で身を守りました。
当時警察の任にあった保安隊も、日本人から検問と称して金品を奪ったり、特別な理由もないのに逮捕拷問したりする存在で、
このような時でも私達を守ってくれるどころか、私達日本人にとっては恐怖の組織にすぎませんでした。
 やがて北朝鮮にも凄惨な冬将軍が訪れます。 夏の盛り満州から着の身着のままで避難してきた人々にとってはまさに地獄の季節でした。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no19.htm
http://megalodon.jp/2013-0817-2237-12/www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no19.htm
 夏の盛り満州から着の身着のままで避難してきた人々にとってはまさに地獄の季節でした。満足な食料の配給もなく、バラック小屋などに詰み込まれて、朝になると冷たく凍った死体と化していく人々。零下20度をこえる寒気の中で、栄養失調と発疹チフスで死んでいった遺体はカチカチに凍り、菰包みにして船橋里日本人会の倉庫に積み重ねられていました。私達は日本人会の要請により、これらの遺体を大八車に山と積んで、毎日、平壤東北数キロ離れた山の中に埋葬に行きました。そして発疹チフスで亡くなられた遺体は焼却場に運びました。遺体を運んで埋葬した山には、冬期は土が凍って埋葬しにくいため、
あらかじめ日本人会の手により、暖かい季節に塹壕のような長い帯状の墓穴が掘られていました。しかし墓穴はすぐに一杯になり、私達はツルハシで凍土を削って1日かかって穴らしいものを掘ります。そして山麓からバケツリレーの要領で山の中腹に掘った墓穴まで運び埋葬し、板切れに死亡者の名前を墨で書いて墓碑として打ち込みました。やがて山全体に針の山のように墓碑が隙間もなく打ち込まれてゆきます・・・その悲惨な様子に、胸がつぶれる思いがしました。このようにして私達は毎日のように大八車に山のように菰包みにした遺体を積んで、大同江を渡り、平壤市内の中心街を通り山に運びました。
 道路には大きな金日成将軍の肖像額が掲げられて、なにかの式典が開催されていたり、多くの朝鮮人から罵声を浴びせられたりで敗戦国民の情けなさと、恐怖心を味わいました。  
 あとで知ったのですが、越冬した日本人の死亡率の最も高かったのは、ソ聯占領軍司令部、北朝鮮政権があった平壤を中心とする西北朝鮮でした。権力者のお膝元だけに、日本人に対する締め付けは厳しく、平壤地区では満州などからの避難民の死亡者は実に40%にも達していたそうです。
 戦後、北朝鮮だけは国交が正常化してないため、巡拝者や遺骨収集団などの訪問も許されずに今日に至っています。祖国に引揚の夢を抱きつつ、無念のも異国の土となられた方々のご冥福を祈るばかりです。
 当時私達は、ソ聯や北朝鮮当局の命令で使役と称する労働に駆り出されたり、日本人会の要請で遺体運搬、埋葬などの労働につきましたが、これら労働の報酬として賃金をもらったり食糧の配給を受けたりした記憶はありません。
 創立したばかりの北朝鮮の政府は、自己の政権維持に精一杯で、日本人のことなど、かまってる暇は全くなかったようです。また、ソ聯軍当局も、満州や樺太と同様、日本人の帰国や生活、その生死にさえ全く無関心であったそうです。
 だだ地区によっても異なっているようですが、北朝鮮の人民委員会から終戦の昭和20年に成人1日当たり米8勺程度、雑穀6,6勺程度の配給があったとの記録を読んだことがあります。
 こうしている内に、私達平壤在住日本人の殆どが所持金も衣類その他の物資を失って、飢餓感は日増しに強くなり、帰国への希望は益々強くなっていきました。特に満州などからの避難民の場合は、売る衣料などなにもないので、その焦燥感はより強かったものと思います。 
 昭和21年、やっと遅い春が北朝鮮を訪れたと、平壤在住日本人のすべてが、このまま二回目の冬を迎えたら、間違いなく日本人の殆どが全滅してしまうことを肌で感じていたのです。依然として38度線はソ聯軍により封鎖されており、このまま平壤に残るのも死、逃げても死なら、万に一つの生への可能性のある逃げ方を選ぶのが自然です。
 当時日本人の入浴は月に1回とされていたので、日本人は皆不潔となり、その居住区はシラミやノミやダニ等の巣くつとなり、発疹チフスやコレラが蔓延し防疫上も好ましくない環境になっていました。昭和21年6月頃から、ソ聯軍や北朝鮮当局者の中にも、日本人をこのまま抑留させておくことに疑問を感じる者が多数出てくるようになり、ボツボツ日本人の平壤脱出は黙認の形で行われるようになりました。このようにして私達一家は、昭和21年8月5日、他の日本人避難民と共に、肩に食い込む程積めこんだリックを背にして平壤駅に集合しました。まる2日間、平壤駅に寝泊りしましたが、
その間もソ聯兵の 「マダム ダワイ」の怒声に悩まされました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no20.htm
http://megalodon.jp/2013-0817-2239-00/www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no20.htm
 北朝鮮脱出のため平壤駅で寝泊りしていた私達一家6人は、3日目の昼、北朝鮮の定州からの避難民を満載した貨物列車に乗り込むことが出来ました。列車の避難民引率者が「医師はいないか。いたら乗ってくれ。」と叫んでいたので、私達一家と同行していたT医師が、「 栗本さん一家と一緒でなければ乗らない 」とこれに応じ、私達一家も乗ることが出来たのです。
 貨物列車の中は想像を超える陰惨な情景がひろがっていました。 
丸坊主の表情を失った女性達がぎっしりと積みこまれていました。
私の前にいた女性の背中には、すでに息を引き取りむくろと化した赤ちゃんがしっかりと背負われていました。列車は間もなく発車しましたが、平壤から三つ目の黒橋という小さな駅に停車して、そのまま動かなくなりました。列車の中で仮泊2日。どうやらこの列車は動かないと見た私達は、列車を降りて避難民の体列を作り、38度線まで徒歩で行くことにしました。
 やがて背負えるだけの荷物を肩にして、山野を彷徨する避難民達に飢餓が迫ってきます。私達はその都度、現地の人と交渉して、リックの中の衣類などと食料品を物々交換して飢えをしのいで歩きました。同行のT医師の奥さんは、自分と背丈の変らない娘さんを背中に背負って歩かれた。身障者の娘さんを背にして、無事日本に帰るという常人ではなし得ない驚嘆すべき愛の力には今でも敬意を表し、忘れることの出来ない思い出となって私の脳裏に焼き付いています。
 河原に石を積んで竈を作り収穫後の畑に落ちた粟や高粱、野菜のくずを拾ってきて、川の水で炊事をします。食器はソ聯軍が捨てた缶詰の空缶です。たった一つの鍋を囲み薄汚れた顔、汚れた衣類、石ころの上で済ます食事、まるで乞食のようでした。
 時々北朝鮮保安隊員の検問があり、その都度「北に帰れ!」と怒号されましたが、北に戻ることは死を意味するので、無視して南に向って歩くだけです。夜は露営で地面にごろりと横になり、星空を眺めて夢路に入り、朝は夜露に濡れた衣類を乾かす間もなく、そのまま歩き続けるだけでした。
 やがて8月も中旬になり、黄州では終戦記念日が近くなり、日本人が出歩くことは危険という理由で保安署の留置場に1週間足止めされました。留置場の中に押収した密造酒のかめがあり、この香りをしたったヤブ蚊に顔や手足を刺され、腫れあがり、帰国後も私達一家はマラリアで苦しみました。保安隊員は日本の避難民を待ち構えて、検問と称し残り少なくなったリックの中味と調べあげ、めぼしい物があれば強奪しましたが、逆に私達避難民の護衛として私達の前後につき、一般朝鮮人の暴徒から私達を守ってくれたりもしました。 
 発疹チフスやコレラに蔓延した家は赤い旗を揚げていました。
 日本人避難民はソ聯兵や保安隊に見付からない様に部落を避けながら山野そして川を越え一生懸命に南へ向って歩き続けました。山の中に死体が残されていました。老人や子供が多く力尽きて日本帰国を前にして無念であったであろうと万感の思いがしました。38度線を越えるまでは、どんなに苦しくても歩き続けるしかありません。しかし疲れ果て足が重い、一歩でも日本に近づきたい一心で歩きます。
 行く手に高い山が見えてきました。あの山の向こう側は、アメリカ軍の支配する南朝鮮だと聞かされました。国境線が近くなり、日本人避難民は、みんな一団となって坂の多い山道を最後の力をふりしぼり、あえぎながら登りました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no21.htm
http://megalodon.jp/2013-0817-2242-55/www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no21.htm
 頂上に着いた9月初旬。38度線を突破した!。豪雨の中、ずぶ濡れになりながら、米軍の管理する開城のテント村に保護されました。テントの中は筵や茣蓙でしたが、なんとも言えない温かみを感じ、ああこれで助かった!!!と涙があふれ出て、みんな言葉もなく泣いていました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no22.htm
http://megalodon.jp/2013-0817-2245-12/www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no22.htm
 満州やシベリアに関する物語は数多く出版されていますが、国交のない北朝鮮に関する物語は出版物も少なく、知られていない様です。
 北朝鮮の平壤で迎えた敗戦、そして1年余の抑留生活、そして38度線を越え、南朝鮮への脱出と日本への帰国。 今は遠い遠い思い出となりました。しかしこの出来事は、少年時代の貴重な体験として、私の心の中に生き続けています。
 敗戦で外地から引揚げた日本人総数は6,295,496人。( 民間人3,188,085人、軍人軍属3,107,411人 )
 数多くの人々が外地で死んで行きました。 

二鬼子(アーグイズ) ・・・ 在日朝鮮人に占拠された日本メディアのタブーワード www

中国大陸が日本の支配下に置かれていた時期に、満州に住んでいた中国人が、
朝鮮人日本兵もしくは朝鮮人警察官を指して使った中国語の蔑称
転じて、朝鮮人その物に対する蔑称でもある。
 当時、日本軍は中国人に日本鬼子や鬼子兵と呼ばれており、朝鮮人はその下で働いていたので二鬼子と呼ばれるようになった。 似た意味の言葉に高麗棒子がある。

「二鬼子(意味は、傀儡(かいらい)軍)」、「高麗棒子」、これらの名称はすべて満州の国民の朝鮮日本兵と警官に対する俗称です。

蔑称の由来
「二鬼子」は傀儡軍: 満州国の領土で生活していた老人いわく、
「二鬼子」は第2次世界大戦時を指し、日本の関東軍を助け満州国を管理する朝鮮警察である。
 第二次世界大戦の中国への侵略した日本軍は、中国の庶民に、、日本の畜生、畜生兵と称されていた。 朝鮮の警察は、日本人のサービスに替わったもので、地位は日本人より高くない。だから“かいらい軍”といわれる。
「高麗棒子」: 日本人は、朝鮮半島人に対して信用しない。 だから、朝鮮の警官には、手に武器がありません。
朝鮮警察は、朝鮮婦女服の洗濯の棒を、人を打つ武器にするしかしようがなかった。
 満州の国民が、彼らをあざ笑うのためにいったのが、「高麗の棒」です。
http://xianxian8181.blog73.fc2.com/category36-1.html
http://megalodon.jp/2013-0817-2251-59/xianxian8181.blog73.fc2.com/category36-1.html

「私は日本人を非常に尊重する。日本人は絶対、後から刃物でささない。だが、高麗棒子(中国人 が韓国人を侮って呼ぶ卑語)は違う。」
台湾のテリー・ゴー(郭台銘)鴻海(ホンハイ)精密工業会長

インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵 (二鬼子 www)


「ニッポンは誤解されている」 日本教文社 1988 年 アルフレッド・スムラー著
                                     (フランスの雑誌リマッチ特派員)

 別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、
占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。
その多くは憲兵隊に属し、のち戦犯に指定された。
 たとえば戦後十年たってインドネシアで現地民の証人たちが私に話してくれたところによると、彼らは当時これらの警察官から自分たちを保護してくれた点では日本の陸、海軍に感謝しているそうだ。

月刊誌「DATUMS」1995 年10 号 キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html
http://megalodon.jp/2013-0817-2258-58/www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html

インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵 (二鬼子 www) その2

 山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。 韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った
日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。
赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。
皆がそう信じている。
 一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない
http://megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm

中国人による二鬼子についての証言  中国人は真実を知っている

「日本軍は香港で何をしたか」  著者 謝永光    翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 36~37頁

 九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。
頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。 彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。
 当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。 製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。 最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。 ところがある日、突然五、六人の‘獣兵‘が現れ、麻雀をしていた四人の女優を輪姦したという。 前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
 当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。 日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。 当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。

中国人による二鬼子についての証言 中国人は真実を知っている その2

「日本軍は香港で何をしたか」 著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 142頁>***(日本軍占領下の香港では)   アヘン販売や売春市場は、朝鮮人が中心となって取り仕切っていた。
『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.132-133
 昔から日本人は語学が拙ない。 地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、どうしても朝鮮人の警官や憲兵補助員に頼ることになる。 ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出すやらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。(略) 日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人はいないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった。
 通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイだといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。
 中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。 便利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてしまうのだった。
http://megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm

強制連行は徴用の歪曲  日本にいる朝鮮人は100%本人の意思で来日

1938年 国家総動員法 (国民徴用令は1939年)が成立
→ 日本、台湾  15~45歳までの男子、16~25歳までの女子が徴用
→ 朝鮮    徴用の代わりに、内地の企業による求人活動が許可される
1942年 人手不足により、「官斡旋」による募集が始まる
 → 日本、台湾   既に徴用済み
 → 朝鮮    日本企業への就職が斡旋される。しかし、雇用先を辞めても罰則なし。
1944年 朝鮮に初めて徴用令発布 (実質、六ヶ月間で終了)
 → 日本、台湾   既に徴用済み
 → 朝鮮  ★本人の意志を優先した★為、達成率は79%に留まる。
         → 徴用で来日し、戦後残留した朝鮮人はわずか245 人 (外務省公式発表、朝日新聞報道済)
参考)「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社 http://resistance333.web.fc2.com/html/corea_living_in_japan.htm

在日の正体    米国公文書の秘密文書を調査したブルース・カミングス・シカゴ大学教授

 戦前は、一大畜産地・済州島で牛の疫病が発生して生活難に陥った島民が、当時 存在した済阪航路に乗って大阪に大量流入し、その後全国に広がった。
大阪や東京では7割ぐらいを同島出身者が占めていた。
戦後も在日ネットワークを頼って1970年頃まで韓国人の日本への密入国が続いた。
 在日における済州島出身者の比率の異常な大きさと、朝鮮半島の総人口に占める同島民の比率の小ささを考えると、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく来日したというのも嘘だとわかる。
今日の在日韓国・朝鮮人には、戦後の密入国者とその子孫がかなりの比率を占めている。
日本政府は、在日の永住権を巡る韓国政府との外交交渉で、密入国者に関しても寛大に扱った。
http://resistance333.web.fc2.com/html/corea_living_in_japan.htm

目を覆う画像がありますので、心の準備をしてからどうぞ
http://www.destroy-china.jp/index55j.htm
http://megalodon.jp/2013-0430-0029-31/www.destroy-china.jp/index55j.htm

満州はソ連軍に蹂躙された

 ソビエト連邦にしろ中華人民共和国にしろ、共産主義が残したものは強姦と虐殺と食人だけです。1945年8月8日、ソ連は広島の原爆のうちに、日本と満洲国に宣戦したとんたに満洲に侵入した。15日の天皇陛下の玉音放送から数日の後、ソ連軍が満州の首都入城となった。ソ連軍は新京市内に入れず、日本軍と交戦していない部隊を入城させたというソ連司令部の話しだったが、
虐殺、強姦、掠奪は日常茶飯事だった。
家に押し入ってきたソ連兵が父母の面前で娘をレイプしようとする。それを止めに入った父親に“ダダダダッ”とマンドリン(ソ連製自動小銃)が火を噴く。母親も標的にされる―戦争の悲惨な姿が、一夜にして崩壊した満州帝国の首都で、絶え間なく展開されたのだった。
これから、満州では、大通りの真ん中で、日本人、満洲人と中国人女性がソ連兵に 強姦されたり、収容所で、多くの人々の前で強姦された、女性も居ました。
 現在は人口約700万人といわれ、ハルビン市、大連市と並ぶ満州屈指の大都市、瀋陽市にソ連軍が侵攻してきたのは8月19日である。
すぐにハルビン市、長春市と全く同様にソ連軍兵士たちのレイプ(強姦)凶暴・暴行・殺戮・略奪が始まった。
 中国国防大学教官の徐焔(シュ・イェン)大佐は著書の『1945年 満州進軍 日ソ戦と毛沢東の戦略』(朱建栄(ツウ・ジェン・ロン)訳 三五館 1993年8月発行)第223頁~第229頁からで次のように述べている。
「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、
同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」
 満州でのソ連軍の軍紀の乱れは目に余るものがあった。彼らは白昼堂々と倉庫の中のものを盗み出し、町で売りさばき、得た金を着服した。夜になると泥酔状態で臭気をまき散らしながら、町中「マダム」を捜し回った。恐れおののく庶民はドアと窓を締め切り、ソ連軍が一日も早く帰ることを内心に祈っていた。満州の各大都市はどこも同じような状況で、夜になるとソ連軍兵士が街角に現れ、通行人を止めては携帯物品を強奪し、女性を追い回し、時には銃をもって民家に押しかけることもよくあった。
 瀋陽の町ではソ連軍警備司令部の憲兵がトラックで巡行するのをよく見かけた。酔っ払いと軍紀違反者が多すぎるため、トラックで大量に収容するからだ。逮捕されたら厳しい処罰を受けるが、それでも軍紀違反者が後を絶たない。
 ソ連軍の軍紀退廃についての中国側の最初の報告は、満州に進出した八路軍の一番手の部隊が延安の党中央に送った電報だ。1945年9月初めに山海関を出て瀋陽に到着した部隊は、ソ連軍兵士による強奪事件を目撃し、また多くの中国人市民から訴えを受けた。
 しかしソ連軍側はまた、その原因を、兵士のファシストに対する敵愾心に帰し、ドイツでも同じ行動をしたと弁明した。この回答に八路軍は屈しなければならなく、中共はソ連の傀儡政権ですからだろう!

ソ連軍は中共軍とともに満州や北朝鮮の人々を強姦、略奪および虐殺の行為が始まった

 その後、中共はソ連に媚びへつらうために、ソ連軍の命令を従り、ソ連の「義挙」を賛成した。
彼らはソ連軍とともに満州や北朝鮮の人々を強姦しまくっていた。
 日本の連合軍への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。
南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引き揚げたが、
北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。
もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。
北鮮にはいってきたソ連軍と中共軍は、満州におけると同様、
略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、
在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍と中共軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。
 満州奥地から引き揚げて来た人、ソ連軍と中共軍の侵攻と引き揚げが重なった人たちは悲惨だった。
ソ連兵、中共軍や現地の中国人は無抵抗の日本の民間人に掠奪と暴行の限りを加えた。
集団は散り散りになり、飢えと疾病で多くの人の命が失われた。
中でも日本人婦女子の惨状は想像を絶するものがあった。
特にソ連兵は日本人の女性とみれば見さかいなく襲いかかった。殆どが銃口を突きつけての強姦、輪姦であり、その実態についての記録は数多く残されている。
ソ連兵は満州だけでなく欧州においても、現地の住民を対象にしたレイプで性欲を処理するのが慣行であった。
ようやく満州から陸路朝鮮に入り、半島を南下するに際し

ここで再び現地人男性による凌辱が繰り返されたのである。

不法妊娠者の数から医師の試算するところでは、被害者は少女から中年婦人に至るまで約5,000人に及んだと推定される。

■ 福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言
 終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍と中共軍から暴行を受け妊娠した女性の堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の「旧二日市保養所」跡地で十二日、供養が行われた。当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。
 「博多引揚援護局史」などによると、旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は延べ七千九百八十一日を数えた。堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、引き揚げ史の中でも実態は詳しく分かっていない。
 日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」と当時の様子を証言した。
 処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒のことなどを思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、五十年余りがたち「歴史の一ページとして証言しなければならない」と思ったという。
 現在特別養護老人ホームがある同保養所跡には八一年、福岡市の医師が石碑を建立。以来、ホーム側が毎年、供養を続けている。証言を聞いた住民グループ「戦後五十年筑紫野語ろう会」の田辺幸子代表は「万感迫るものを感じた。ほかの引き揚げ地でも同じことがあったはず」と指摘。
 供養を主催した一人の済生会二日市病院の水田耕二院長らは「悲惨な歴史を明らかにすることが、生まれてこなかった子供たちのためにもなる」として、旧二日市保養所の実態解明を続けることにしている。

尼港(ニコライエフスク港)事件について

(前略)ところが結局この121名は投獄され、食事もろくに与えられず日本の救援軍に対する防御陣地構築に駆り出された後、零下30度のアドミラル河岸で両手を針金で後ろ手に縛られたまま共産軍によって次々と虐殺された。残された在留日本人も(この人達は当時商社などに勤めていた一般市民である)、多くが共産パルチザンの手で惨殺された。

この惨殺には、中国人と朝鮮人も加わり、日本人の死体の指を切り落として指輪を奪い、斧を振るって頭部を砕き金歯を奪って行ったと言う。

以上は、中国人の妻となっていたため難を逃れた日本女性など生き残った人の証言、及び救援軍によって掘り出された戦没将兵の手帳にある戦闘記録による。
 また誌面に限りがあるので書ききれないが、

満州から引き上げてくる無防備な日本開拓団の人々に対し、

ロシア兵も八路軍(中国共産党軍)も朝鮮八路軍(注)も暴虐の限りを尽くしている。

後からやって来た国民党の正規軍も格好は良かったが、
賄賂や婦女暴行は日常茶飯事だったという。
筆者の親戚に何度か捕らえられたが脱走し、最後には親切な中国人にかくまわれて奇跡的に一命を取り留めた人がおり、詳しい手記を残している。
 日本女性を連れ去って強姦する、それから中国残留孤児には「父親とはぐれ」と言うのが良くあるが、
これははぐれたのではない。父親は連行されて虐殺されたのである。
この親戚は、中国共産党軍が、開拓団の団長や日本の官吏であった人々を、川原に引き出して銃で撃った上、銃剣で蜂の巣のように突き刺したり、首だけ出して生き埋めにしておいて、死ぬまで軍靴で顔面を蹴り、なぶり殺しにする所をその目で見たと書いている(原文には犠牲者の名前も書いてある)。

中共兵に強姦された女性

「敗戦の翌年の2月、ソ連兵が日本軍の捕虜を連れて引き上げると、入れ代わりに国民党が共産軍と戦うために入ってきて、またしても戦争です。大勢の日本女性が殴られ、仕方なく妓女にされました。私は国民党軍の師団長に脅迫されてとらわれの身となり、乱暴されました。」
(「女たちの太平洋戦争Ⅰ」 朝日新聞社)
「列車は臨時停車し、そのたびに八路軍兵士が復員者の携帯している貴重品などを強奪する。・・・そして、彼女らは兵士に列車から引き降ろされて、・・・
連行されたところは元の天津で、『妓女戸』と呼ばれる慰安所であった。彼女たちはここで約2年、八路軍兵士のために、日夜働かされた・」
(富沢繁編「女たちの戦争よもやま物語」光人社)
「応城でのこと、一人の慰安婦が新四軍(中共軍)に拉致された。だが、運よく、日本憲兵隊で抑留していた新四軍の中隊長の妹と、その慰安婦を交換する交渉がまとまり、新溝かどこかの橋の上で相互に引き渡された。その折、慰安婦の話によると、向こう側でもやはり慰安婦をやらされたそうである。中共兵は行列を作って順番を待っているので一体、何人やらされるのかと勘定したが、30人ほど教えて面倒臭くなってよしたそうだ。中共兵は切符制なのに比べて、日本兵の場合はお金がないと遊べないから可哀想だと思ったという」
(長沢健一著「漢口慰安所」)

長春包囲戦

 長春包囲戦とは、中国国民党軍によって守られた長春市(新京)に対して中共軍によって行われた包囲作戦(兵糧攻め)のことである。1947年5月23日から10月19日までの150日間続いた。長春包囲戦は遼瀋戦役の一部であり、長春の陥落は遼瀋戦役の第一段階の終了を意味していた。
 1947年5月23日、中共軍は国民党軍に守られた長春に対して包囲を敷き始め、空輸を停止した。包囲の間、中共軍は林彪によって指揮されていた。林ははじめ、4月に長春を攻撃するつもりであったが包囲が完成した後は彼の注意は他の都市へと移った。林は最終的に10月には長春を陥落させるつもりだった。毛沢東は林に先の都市では5カ月もかからなかったと林を嘲笑する電報を送り、林に錦州を攻めるよう命令した。
 その後錦州陥落の情報が長春に届き、国民党軍の指揮官の鄭洞国は大部分の幹部と共に中共軍に投降した。この国民党軍第60軍および新第7軍の投降によって1947年10月19日に中共軍が長春に入り、150日に及ぶ包囲戦は終了した。鄭洞国らは毛個人の命令で中共軍のポストが与えられた。
 包囲の間、中共軍は役に立つ人以外は一切外に出さず、密輸者は即座に銃殺するほど徹底的に兵糧攻め作戦を行い、その結果市内では餓死者が続出した。最終的な餓死者は33万人に達し、国民党軍が降伏する間の5か月間に50万人だった市内の人口は17万人にまで減少した。共産党の軍隊が市内に初めて入って見た光景は餓死者の死体の山だったという。
 1989年8月、六四天安門事件の2カ月後に張正隆中佐が執筆した雪白血紅という本が「中国人民解放軍出版社」によって出版された。この本によると、長春包囲戦の間に150,000人の一般市民が餓死し、市から脱出しようとした一般人は国民党軍への食糧供給に圧力をかけるために追い返されたと記している。張中佐は中国革命が「コストに見合う価値がない」と考え、林彪軍の技術を毛沢東よりも優れていると称賛した。彼はまた、
中国共産党幹部は国共内戦の間にアヘン取引で私腹を肥やしたと主張した。
楊尚昆は雪白血紅が「共産党を侮辱している」と述べ、1990年の春に雪白血紅を発禁とした。
結論
統計による、強姦された中国人、日本人、満洲人と朝鮮人女性は三十万以上に至った。
内戦のとき、共産党軍に残害された中国人は一億以上にいたったかもしれない。しかし、これは共産党山積の暴行の一部だけです。

89 - 衆 - 本会議 - 3 号(回) 昭和20年11月29日

福家俊一君 
 諸君、私は復員兵の一人として不幸にして生きて還つて參りました、茲に再び本院の議席を汚すに至りまして、復員兵たる私の立場上已むに已まれない氣持の下に、大體四點の質疑を總理大臣、陸海軍大臣、其の他關係諸大臣に質したいと存ずるのであります
 質疑の第三は滿洲、關東州、北鮮、樺太に於ける同胞の救出に關する問題であります、此處には百萬近い軍隊と、百六十萬を超ゆる居留民が、終戰「ラツパ」と共にどう云ふ生活に陷つて居るかと云ふことは、私が説明するまでもなく政府が一番能く御存じの筈であります、現に恐怖に戰慄き、饑餓と寒さに喘いで居るに拘らず、今にして其の救援の手が伸びず、復員の時期に對しても見透しが付かないと云ふ實情であるのでありますか、若し斯かる事實であるならば、政府の怠慢甚だしいと言ふべきであります(拍手)
 我が方に於きましては「マッカーサー」元帥自らが米國民に放送せられたる如く一君の下萬民擧げて「ポツダム」宣言の忠實なる履行に專念し、武裝解除も時短日の間に完了し、而も國内の政治、經濟、社會各界に亙る民主主義化の努力も、今や着々其の成果を擧げつつあると申されて居りますが、此の復員問題を解決せずして何の民主主義かと私は言ひたいのであります(拍手)
 國運を賭して戰つた將兵、千里に使ひした軍屬竝に其の居留民にして、尚ほ異境の空に取殘されて何等の恩典に浴さないやうでは、國内の建直りが果して出來るでせうか、成程「アメリカ」軍占領下に於ける武裝解除後の我が將兵に對する待遇を聞きますと、其の道義的にして好意ある處置に對しては我我國民として洵に感謝して居ります、而して復員軍隊は速かに其の家庭に歸らしめ、決して日本人を奴隸の境地に置かないと言明され、著々と復員されつつありますに拘らず、「ソ」聯軍の占領下にあつては果してどうでありませう、我が復員軍隊は今尚ほ現地に抑留された上、苦役の鞭に呻吟し、寒さと飢ゑに迫られて居るのです、又
在留同胞は暴行、掠奪、強姦等、聞くも怖しき目に遭はされ、奴隷にも劣る取扱ひを受けつつあるのである、
如何に敗戰したとは云へ、民族的誇りを持つ私共日本人としては、果して耐え得られるでせうか、現地を脱して歸還した同胞の語る所に依りますと、錦州では二十幾名の同胞が生埋めにせられ、奉天、安東、鳳凰城に於ては、相當の曝し首を見たと云ふことであります、又
北鮮の端川地區に於ては最も掠奪強姦が酷く、
いたいけな十二三歳の少女まで犯されるに至り、聞くも哀れな話でありますが、
其の母や或は未亡人は申合せて自ら慰安婦人會を組織して、どうか私共は「ソ」聯兵の犧牲になりますから、皆さんは一刻も速く此の娘を連れて逃げ伸びて下さいと、此の慘劇の中に母は娘の犠牲となつて敢然と殘留して居ると云ふことであります、
洵に涙なくしては聞けぬ暗黒地獄の出來事としか想像出來ませぬ、果して斯かる非合法な、非人道的鬼畜行爲が許されるでせうか、私は「ポツダム」宣言は人權尊重の上に立つて、民主的にして而も道義的世界の建直しを目指して居るのだと思ひます(拍手) 
 私は敢て此の場合「ポツダム」宣言を批判したくはありませぬが、日本は既に此の宣言を忠實に履行して居るに拘らず、「ソ」聯軍の占領下にあつては、此の精神は蹂躙せられ、或は泥濘の中に踏み躙られて居るのではないでせうか、此の事實に對して一體政府はどう御考へになつて居られますか、國際正義に照し、且又人道の上からも、一日と雖も看過すべからざる問題であると存じます、尤も政府では「スエーデン」を通じ「ソ」聯に對し、是が解決方を交渉したと聞及んで居ります、然るに「ソ」聯は終戰後利益代表國たる資格が消滅して居るとの理由で、我が方の申出を取合はぬと拒絶されて居るのみならず、日本人の生命財産の保障は、一方的に之を處理する旨の囘答に接して居ると云ふことでありまするが、此の眞僞は事實でありますかどうか、政府は斯く申せば必ず外交上何等の機能を有せざる我が國の現状では、如何ともなすべき方法がないと御答へになると思ひますが、併し是は餘りにも官僚的な言ひ逃れであつて、責任轉化論に過ぎませぬ、斯樣な説明では全國民が承服致し兼ねると私は信じます(拍手)
 宜しく政府は此の問題解決に對し、今後如何なる方針を持つて居るか、七千萬同胞に對し責任ある答辯をすべきであります、先づ其の所見を伺ひたいのであります

「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑

夜明けの舞台裏    中保与作(元京城日報主筆)
(終戦とともに)朝鮮人は、全鮮各地で、公然と日本の諸機関や日本人の財産の接収を始めだした。
京城では、総督府に近い中心の鍾路をはじめ幾つもの警察署が朝鮮人の手に帰した。ピストルを狙って襲撃する者もある。警察官にも襲撃者側にもぞくぞく死傷者が出た。ほとんど、どの駐在所からも巡査が姿を消してしまった。

駐在巡査の大部分は朝鮮人であったが、職場を守ろうにも、大勢で襲撃されるので2人や3人では守っていられなくなったのである。

このように警察が力を失い出した矢先、安在鴻の放送があった(朝鮮の建国準備委員会が政治の実権を握ったかのように放送した)ので日本人に日頃恨みを抱く者や泥棒は、この時とばかり、目ぼしい日本人の家へ押しかけた。
泥棒はたいていピストルか刃物を持っているので、街々にはあちらでも、こちらでも、たまげるような悲鳴が起こった。「助けて!」と呼んでも呼んでも、誰も表へ出るものがなかった。日本人はもう互いに助け合わないと知ると、今度は3人、5人と組む集団強盗が横行した。
(中略)
(米軍進駐後、筆者の勤める京城日報社は米軍の管理下に置かれることになった)米軍政府は間もなく朝鮮人李相哲を管理人に指名した。江原道で鉱山の仕事をしていた李にこうした任務を与えたのは、米軍政長官の側近にいる知り合いの旧宣教師が斡旋したからであると言われた。「あなた方は、運悪く、とんでもない悪党に、管理されることになりましたね」と李の甥にあたる、毎日申報幹部が私たちに同情した。(中略)当時の米軍政庁は、英語さえできれば、どんな朝鮮人でも重用し、一々その言うことに従った。一般の朝鮮人はそれを「通訳政治」だといってあざ笑った。
英語を話したり、米軍に好意を寄せるものは、たいてい極端な反日家である。これらの人々は、何事につけ、日本人を極悪非道の人間に印象づけようとし、朝鮮にある日本人の財産は全て搾取し略奪したものであると言い続けたのである。
(中略)
李管理人は、1年前からの伝票を取り出して一々収支を調べさせ備え付けの写真機などの比較的値段の高いものはもちろん、1冊の書物、紙片1枚に至るまで猜疑の目を光らして点検した。足りないと思うものについては一々弁償を要求した。私ども社長、副社長に対する解散手当ても前年度の賞与も不当であるといって返還を迫った。日本人社員が引揚げ後、生活の道を得るまで、補助機関として設けた京日互助会の基金50万円も取上げてしまった。私はそれをよこせという要求を受けたとき、「それは、互助会のものである。君は互助会までも管理しに来ているのではない」と拒んだが、私の留守に米兵を連れてきて金庫を開けさせ、それをどこかへ持って行ってしまった。
当時の50万円といえば、300倍に計算しても今の1億5千万円である。
李は、彼が雇い入れた朝鮮人たちを使って、「日本人の幹部連は隠していた50万円を、それぞれ山分けしてふところに入れた」と宣伝させた。どの団体も、どの会社も多かれ少なかれこれに似た災難にあったのである。中には帳尻が不明だというだけの理由で投獄されるものさえあった。自宅の畳の下や、便所の上に2、3万円の金を隠していたということで拘引される者もあった。本社の地方部長なども北緯38度線以北から南下する支局員たちの給料や解散手当てを預かっていたのをみんな取上げられてしまった。猜疑心の深い李は刑事を使ってまで私たちを脅迫した。20代のその刑事は「きょうは、留置場入りの用意をして来るように」と家へ電話したこともあった。
(中略)
ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、ひとり、京城日報だけのことではない。30年、40年、親子2代、3代にわたって営々と築いた血と汗の結晶も、およそ目ぼしい日本人の財産はことごとく強奪されたのだ。後で記すように、託送荷物までもことごとく取上げてしまったのである。日本人の土地、日本人の家屋、全ての日本人の不動産は朝鮮人に直接売ることを禁じられた。それは、事実上その代金を朝鮮人から受け取ることを禁じたのである。
(中略)
日本人の預金は全部凍結された。1家族1ヶ月千円払い戻されるだけになった。どんな財産を持っていた者もこの千円が、最後の命の綱となったのである。引揚げにはリュックサック1つしか許されない。なまじ家財らしい物を持っていると強盗に付け狙われるのである。むしろ、それを売って金に換えたほうが始末がいい…というので、思い出のこもった家具も什器もいっせいに街頭へ並べ出した。8月16日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。中には、「いずれ遠からず、戻ってくるから… 」と、家も家具も什器も、全てを懇意な朝鮮人に預けて日本へ帰った人もあったが、大抵の日本人はもはや、リュックサック一つが唯一の財産になってしまった。それでも、2人、3人と組んだ強盗が宵の口を狙って、最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。
米軍の保護は、少しも日本人には及ばなかった。
日本人がどんな被害を受けても、それを取り調べようともしない。
言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割り込みたくないという態度である。目の前で行なわれる暴力沙汰は一応抑えるが、「いま、強盗が入ったから… 」と、MP(米軍憲兵)の駐在所に訴えても、駈けつけてくれはしない。知ってか知らずか、

家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。

U総務局長の建てたばかりの住宅を、タダで引き渡せといってきた朝鮮人があったが、米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、英語で話しかけるその男の言葉に耳を傾けた。Uは、「どういうわけで、私があなたに私の家を提供しなければならないのか」となじると、「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことですナ」と言って、また米軍大尉に耳打ちするのであった。「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、座っているようだね」と私たちは語り合った。1日1日、昼でも、街のひとり歩きが危ぶまれだした。
〃倭奴、早く帰れ〃 という宣伝ビラがまかれてゆく。それには、「船便がなければ、泳いで玄海灘を渡れ」とも書いてある。「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」と固い決心をしていた人々も、「もはや、これまでだ」と言い出した。「親兄弟の墓を守りたい」と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋やヤキトリ屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足に踏みにじられ、不浄なものさえかけられているのは、とても見るに忍びないのである。
(中略)
 私は、毎日のようにバルコニーへ出て、引揚げ列車が無事に漢江の鉄橋を渡りきるのを見送った。やがて、私自身も暮れ近い鉄橋を、引揚げ列車で渡った… 引揚げ列車といっても貨車にむしろをひいたものである。隙間から研ぎ澄ました刃のような寒風が入るのである… 危険なのは、途中で汽車をすめることである。停車すると、たちまち群衆が押し寄せて金をせびり、女を引きずり出そうとした。機関手や車掌が3万円、5万円というチップ要求し、誰もそれを出さぬと、「機関車が故障を起こした」といって山中や野原で、ガタンと車を停めたこともあった。
(中略)
 引揚げ列車が出る竜山駅へ、くる日もくる日も、延々と長蛇の列が続いている。ひとり者のBのお婆さんが、竜山へ出かけたばかりなのにあわただしく帰って来て、ガラン洞の我が家で泣いていたこともあった。訪ねてゆくと、「私はもう、国へ帰れない」と言って、身もだえしているのである。「婆さんしばらく、あんたも帰るんですか」となれなれしく近寄る若い男があるので、「ながながお世話さまで」と挨拶すると、
「その荷物、私が担いで上げましょう」と親切気に取り上げて、その男は間もなく人ごみの中へ姿を消してしまったのであった。
もしや元の家へ戻ってはいはせぬかと来てはみたが、「もう誰もいやしません」と、身寄りのないこのお婆さんはサメザメと泣き伏した。
駅前で用を足している間に、最後の財産であるトランクを盗まれてしまった人もあった。血まなこになって走り回ると、2、3町先の路傍でそれを開いて、セリ売りを始めている男がある。「それは僕のものだ」と言い寄ると、その男は「ナニッ!なんの証拠があって、そんな言い掛かりをつけるのか」とつかみ掛かるのであった。群集が、「なんだ、なんだ」と取り囲むと、打つ、殴る、蹴るの狼藉。――たちまち、顔も手も血と泥にまみれて動かなくなってしまった。
 路傍では、ツギのあたったあわせや、赤子のオシメを指でつまみながら売っているのを見たこともある。「こんなものまで盗らなくてもよさそうなものだ」と思った。それと同時に、こんなものをせめてもの財産として大事に持って帰ろうとした人には、どんなに深刻な痛手であろうと思うと、とめ度もなく涙が溢れ出るのであった。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2114/jijisama/rekisi2.htm#hikiage
http://megalodon.jp/2013-0519-2038-31/www.geocities.co.jp/WallStreet/2114/jijisama/rekisi2.htm

『高松宮日記 第八巻』 第175頁~第176頁

http://megalodon.jp/2013-1022-1201-24/toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2455.html
「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて通行中の婦女を犯す。汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。
元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ(引き受け者の)人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり

日本婦人の全部は強姦せらる。(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。」


『検証・シベリア抑留』 ウィリアム・ニンモ著 加藤隆訳(時事通信社 1991年3月発行)第47頁
「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、口ではいい表せないほどひどいものだった。暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。
      • とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、抵抗するものは片っぱしから殺した。ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、いまでもぞっとするほど残虐なものだった」

「雨森芳洲」 上垣外憲一 1989年 中公新書

新井白石の朝鮮観 (江戸中期の儒学者・政治家 1657~1725)

 日本に送られてくる通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀をうたいながら、朝鮮の文献を読んでみると、敵情探索を目的としている。これは恩義を忘れたものである。
大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。
「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、蓋○狢之俗、天性固然」
(朝鮮人は狡猾でいつわりが多く、利のあるときには信義をかえりみない。狢(むじな=タヌキの異称)の類の風俗は、天性からしてそうなのである 「国書復号経事」)。
 白石の通信使待遇格下げの根底には、このように朝鮮を軽侮する心理が働いている。日本の文人たちは、朝鮮のことを礼儀の国などといって持ち上げているが、歴史に照らしてみれば、かくのごとく信義のなき国である。そうした国の使節をそれほどまでに優遇することはない。こうした論理である。
「朝鮮幽囚記」 ヘンドリック・ハメル (生田滋訳 1969年 平凡社東洋文庫)
(ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き、1653~66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた。)
この国民の誠実、不誠実および勇気について
彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。
「新・韓国風土記 第1巻」 ソウル市根の深い木社編 安宇植訳 1989年 読売新聞社
両班階級は常民との約束は到底信用できないもの、彼らに誠意や真実、信義や正直、良識などの徳目を期待するのは無駄なことと決め付けた。
さらには、そうした徳目を悪魔に売り渡した階層として扱うより他ないとまで認識するようになった。
常民階級が徳目に背を向け… したがって彼らは、ほんのわずかでもおのれの利益につながると判断すると、喜怒哀楽の感情を度が過ぎるほど、行為や言葉によって示した。大声を張り上げたり、暴言を吐いたり、下卑た言葉で口汚く罵倒したり、時には腕をまくったり拳を振り上げたり、目を剥いて睨んだり胸ぐらを掴んだりするのもそのためであることが少なくなかった。そうしてこうした粗野な言動こそが、しばしば彼らに利益をもたらしたのである。
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
 暮らし向きの楽な人々は一軒また一軒と場所を変えて時間をつぶす。政治については危険すぎるので話題にしないが、宮廷や市内のゴシップや著名人をさかなにした冷やかしを受け売りしたり、ニュースを仕入れたり、披露したり、でっち上げたりする。(中略)庶民は通りや家の前で宿屋で人と会う。そしてお互いの商売、仕事、ふところぐあいなど、かなりぶしつけと思われることについてえんえんと尋ね合ったり最新のニュースを仕入れ合ったりするのである。どんな男もできるかぎりニュースを集め、あるいはつくる。
耳に入れたことを嘘と誇張で潤色する。朝鮮は流言蜚語の国なのである。
朝鮮人は知っていること、というより耳にしたことを人に話す。
ノース・チャイナ・ヘラルド紙 1905年5月5日号 (「外国新聞に見る日本3」 1992年 毎日コミニュケーションズ)
朝鮮ほど贈賄や腐敗がよく見られる国もないだろう。
また、この半島ほどなんの理由もなくだましたり、だまされたりすることが広く行なわれている国もない。

そして、これまで朝鮮政府ほど詐欺、うそ、横領が満ちあふれ、骨の髄まで堕落した政府はなかった。

しかし、朝鮮はそのような自分たちのやり方に慣れ、これには気づかなくなっており、他人の欠点ばかりが見えるのだ。 (エッソン・サード記者)
「悲劇の朝鮮」 アーソン・グレブスト 1912年 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)
(学者である両班は)礼節上、天地の間に起こることならすべからく知っていなければならないし、質問されたことにはことごとく答えられなければならないわけですが、ただ、わざと騙そうとするのではありませんが、
その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたらまったく驚くべきほどです。
自分が正しい場合がほとんどないにもかかわらず悪びれる様子がほとんどない。
もし誰かが彼の言うことを受け入れないで別の論理で反駁を加えたりすると、彼は礼を守り抜くために必死の努力をするんです。なかなか信じようとしない人を説得したり、または自分の正しさを納得させたと自分自身思えるまでは、決して投げ出したりはしません。
「朝鮮の悲劇」 F.A.マッケンジー 1908年 (渡辺学訳 1973年 平凡社東洋文庫)

韓国人は、遺伝と教育とによって、その大部分が、おおげさな物言いをする人間か厚顔無恥の嘘つきかである。

それで、日本人の非行についての彼らの陳述は、検証なしに、これを受け入れることはできない。(ジョージ・ケナン、ニューヨーク・アウトルック紙の論説から引用している)
「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年 亜紀書房
〔佐藤氏は金嬉老事件の裁判で特別弁護人をつとめた(1968年春、在日コリアン金嬉老が借金の取り立てのトラブルから暴力団員を射殺、静岡県寸又峡の旅館に立てこもり、宿泊客を人質にして民族差別の不当性を訴えた事件)〕
誤解を恐れずにあえて書くと、今になって振り返ってみると、はじめて、庶民つまり「原コリアン」に会ったのである。なぜ「原コリアン」かというと、彼は正直に自分の感情を表明する。そして、
自分の不利になるようなことは、事実であっても断固として認めようとしない。
しかし、相手側の非は、どんな小さなことでも針小棒大に言い立てる… 
次に目立つことが大好きだ。天才的とも思える組織能力、つまりある特定の人に狙いをつけたらあらゆる方法で接近を図る。
看守に贈り物をし、相手がそのワイロを受け取る。それを逆手にとって次ぎ次ぎと要求をエスカレートさせていく。
彼の独房の中は、写真で見る限り書斎のようであり、料理する出刃包丁まであった。
その結果、一人の看守を自殺に追いやってしまう

慰安婦捏造問題の真相も見てみる

こちらも知っておかないと手遅れになります。

日清戦争の本質

最終更新:2013年10月22日 12:13