提督×加賀・あきつ丸15-326

326 名前:クズ ◆MUB36kYJUE[] 投稿日:2014/12/03(水) 14:01:52 ID:NtMtd7kw [1/26]
以前元カノ祥鳳が今カノ大鳳から提督を略奪する話を書いた者です。
加賀とあきつ丸で修羅場する話を書いたので投下します。

  • 長編未完(あともう一話だけ続く予定)
  • 軽いSM表現
  • 提督がクズ

の要素を含むので苦手な方はスルーをお願いします


 1

 難航するミッドウェーの攻略に海軍兵学校時代の友人Kの助言がもたらされたのは、作戦開始より二週間が過ぎた頃であった。慣れ
ぬ二正面作戦、入渠の管理や戦略立てなど忙殺の極みにあった当時、提督のやつれた表情はMI攻略にあたった艦娘たちを一種の無力
感に苛ませるものであった。二重に増した気遣わしさを抱える彼に、振るわぬ戦果の報告をしなければならないという口惜しさ。また
すこぶる順調な様子のアリューシャン攻略組を目にしたときの自身らの惨めさ。こと一航戦の二人は作戦開始以前にはトラウマの払拭
を目指さんと意気込んでいたために、余計に屈辱を感じているらしかった。
 不幸なことには、この鎮守府の提督は普段より内心の底知れぬ雰囲気を纏っていたこと。即ち幻滅されやしないかと彼女らが不安に思
ったとして、言葉で否定したところでその杞憂を完全に払拭させることができなかったということがある。優しげな微笑も、いたわる
視線も、信頼という対人関係上の保険の心理を持っている故にむしろ辛く思われるのだった。それは薬指に契りの証を持つ加賀につい
ても、例外ではなかった。
 この負のスパイラルに気が付きながら、しかしどう打開もできず、ただ心労を抱え込むしかなかったその時分。先述の呉の友人より
以下の電報が舞い込んだ。

 『アキツマルキカンニスベシコウロゲンテイサレル』

 つと差し伸べられた救いの手。あまりに都合の良すぎる情報にまず猜疑を抱いた提督は、だが従来の戦略に手詰まりを感じているのも
事実だった。すがりつく事のできそうなものならば藁であろうが糸であろうが手繰る気になっていた彼は、ものの試しといった心緒に
彼女を執務室へと出頭させた。
 果たして連合艦隊旗艦に任命されたあきつ丸の反応は、端から見ているだけでも気の毒に思われるものであった。それを伝えたとき
には、ふとしたら失禁するのではないかというほど体躯を震わせる。烈風の装備を命じただけで卒倒せんばかりに唇をわなつかせ、い
よいよ出撃前最後の号令を下す段ともなれば不健康な顔色を更に蒼白に染めていた。口数も少なく、自身の足先を見つめているばかり
である。
 執務室に整然と並んだ艦娘。数多の戦地を渡り歩いたという貫禄の漂う中に、やはり彼女の姿は異質だった。提督は瞳のせわしなく
動く彼女へ仔細にはにかんで見せ、それから労わる声音に話しかけた。

 「まぁ眉唾ものの情報だからそんなに気張らなくてもいい。ただ艦戦飛ばして艦爆を落とさせないようにするだけだ。簡単だろ?」

 「はい! 必ずやこのあきつ丸、期待に応えて見せるのであります!」

 異常なほど燦爛とした眼に答える彼女であったが、その会話自体、微妙に噛み合っていないということにも気が付かない様子。苦笑
しつついつもの様に「無理はしてくれるなよ」と釘を刺せば、皆一斉に敬礼して、それぞれ部屋を後にする。
 最後まで居残ったのは加賀であった。彼女は可憐に朱色を帯びているはずの下唇を真白くなるまでぎゅっと噛み締め、拳を震わし立
ち尽くしていた。何かを言いたげな視線を寄こすも一向に口を開こうとはせず、その睨むような目つきには混濁した感情の渦が見える
ようである。
 提督が知覚した心理の機微は、そのほとんどが正鵠を射たものである。陸軍の揚陸艦に旗艦の座を盗られるという屈辱と、それを是
とした提督への幻滅。かといって文句を言うには自身の立場も磐石でなく、一層それが口惜しく思われるのだろう。
 彼に抱いた幻滅の情は、また彼女自身にもその刃先の向けられているものであった。苦戦はすれども、今までこのような形に役職を
解かれたことはない。

 言うも言わぬも辛く、ただ目線で訴えかけるしかないのである。そういった悲哀を目の当たりにし、提督は心緒の梢に厭に生々しく
劣情を感じた。それは唾を嚥下した音が彼女に聞こえはしなかったかと、気を廻らすほどのものであった。

 「あきつ丸は実戦慣れしていない。きちんと守ってやってくれな」

 逡巡の後にそう口走ったのは、何も艦娘の間に軋轢の生じぬよう気を回したとか、そういった殊勝な心がけによるものではなかった。
むしろ彼女の無言の訴えを無視することによって、より悲壮を煽ろうというのだった。果たして加賀は目を見開くと、瞳を潤まし視線
を逸らす。ゆるゆると持ち上げられた左手が着物の襟をぎゅっと握り、その間呼吸も止まっていたらしい。大仰に一息いれてから、

 「わかりました」

 短く言った。平静を無理に装った為に、幾らか低すぎる声音となった。
 ここまで健気な反応をされては、提督も吊り上がる頬を押さえ込む事ができなかった。思わず口元を手で覆ってしまい、調息にも労
をとった。その仕草を認めた加賀は途端に恨めしげな視線を寄こし、呻くように呪詛を吐く。

 「そういう底意地の悪いところは嫌いだわ」

 荒い語気、突き放すような言い方に滾る怒りの一端が見える。想像以上に怒らせてしまったらしいことを自覚し、提督は慌てて

 「すまない」

 微笑し答えた。
 加賀は依然としてムスッと顔を背けるばかりである。近づき体躯を抱き寄せ、指で軽く髪を梳いた。
 サイドテールの結ばれた根元が、頤の先に触れた。服飾越しの体温はいつもより熱く、どこかそこに切ない愛おしさが感ぜられた。
 身をよじる様な僅かな抵抗にあいながらも無視して抱擁を続けていれば、しばらくの後むしろ自ずから背に手を回す加賀である。安
堵の吐息が鎖骨の下あたりを焼くように撫ぜ、提督はそのこそばゆさに背筋を鳥肌立たせた。

 「結果が出せなくたって解体はしないから、安心しろ」

 またからかう声音に言えば、肩甲骨の窪みあたりを叩かれる。遅れて鼻を啜ったらしい水音も耳朶にできて、途端に湧き出す嗜虐の
愉悦を享楽せずにはいられない。

 「泣いてるのか?」

 「泣いてません」

 「見せてみろ」

 肩を押し一尺ほど距離を開けて見ると、加賀は慌てて顔を反らす。顎に指を這わせ無理やりにこちらを向けさせてみれば、鋭く睨み
つける眼の端から雫の滑り落ちるのが見えた。
 含羞の屈辱に歪んだその表情が、彼の心を激しく打つ。滾る悦の奔流が、暗い欲望を掻き立たせた。彼女の精神的な弱点を嬲り遂に
は落涙させるにまで至ったという征服感が、痛めつけようと思えばまだ幾らでも責め苛ませることのできるという優越感が、兎角気持
ちよくてならなかったのだ。
 自身の欲情をぶつけるようにして、提督は彼女に口付けた。
 突然の事に目を白黒させる加賀は、ぬたつく舌の無遠慮に侵入してくるのをただただ驚懼の心地に感じていた。疵だらけにされた心
を容赦なく締め上げてくるような、暴力的なキスである。
 辛く切ない感覚に、彼女は彼の腕の中で身悶えた。割られた唇の間から漏れ出す声は、悲鳴なのか嬌声なのかもわからない悲痛さ。
だがそれでも未だ両手が背に這わされたままであるのは、つまり彼女も悦を感じているわけなのである。夜伽のたびに自身の性的趣向
をありありと剥き出しにされ、辱められる。その指教が彼女をすっかり被虐性愛の快味に順応させたのだった。
 現に、貪婪にもその先を欲しているのであろう。脚は艶かしく摺り寄せられ、背の窪みを指が這い回った。意識的にしろ無意識的に
しろ、少なくとも身体の方は濫りがましい欲求を滾らせているという、その証左に他ならない仕草である。
 出撃号令を下してから経過してしまった時間については、もうすっかり意識の埒外に追いやられていることだった。故に執務室の戸
の開けられた音に、両者まず何故という疑問を浮かべたほどである。

 「提督殿! 加賀殿が中々下に降りてこないのです、が……」

 勢いよく戸を開けたあきつ丸の、頬のみるみる朱色に染まってゆくのを視界の端に捉えて、しかし提督は接吻を止めはしなかった。
無論加賀の方は水揚げされた魚の如くに激しく胸の内で暴れるが、体勢が体勢である故、顔を背ける事さえかなわない様子。執務室に
はその後たっぷり十秒ほども、水音とくぐもった嬌声とが鳴り続けた。
 口を離すと粘性の橋がつぅと伸び、自重で崩れてゆくのは淫らである。

 「ん? あぁ、あきつ丸か。すまん、ちょっとこちらも取り込んでいてね」

 唇を拭いわざとらしい声音に言いのけると、次の瞬間頬には視界の一瞬暗くなるほどの衝撃と痛みが馳騁していた。平手の一発くらい
は覚悟の上、それで羞恥に苛まれる彼女を見ることができるのだから彼にとっては安い買い物なのである。
 加賀はビンタを喰らわせた後、一目散に執務室を去っていった。部屋には悦の充溢した提督と羞恥と驚愕に目を見開くあきつ丸だけ
が取り残され、まるで時の止まったかのような沈黙が何十秒と足元を流れ去った。

 「と、時と場所とを考えていただきたい!」

 帽子を深く被りなおしようやく言い叫んだ彼女は、焦ったような早足に加賀を追う。提督はとうとう堪えきれなくなると、ふとした
ら床に転げまわりそうなほどに身もだえして、笑い続けるのだった。

 2

 午前の雑務は滞りなく消化され、ふと眺めた窓越しの海に彼女らの身を案じた時分。机上に散乱した書類を纏めつつ臨時秘書の那智
と会話をしていると、内線のけたたましいベルが鳴った。途切れた話の奇妙な間の中電飾の光る盤面を見れば、どうやら無線室からの
連絡らしかった。

 「どうかしたか」

 受話器を取り倦怠の滲んだ声音に言うと、その言葉の後尾に被る勢いをもって焦燥の声が飛び込んでくる。
 今日当番の無線技師妖精は、普段は寡黙に草の茎を口にくわえているような輩なのであった。故にその早口から事態の切迫している
らしいことだけは把握できて、彼は途端に背筋を張った。

 「緊急暗号通信です!」

 「誰から」

 「呼出符号、ライチョウ」

 「……すぐ向かう。しばし待て」

 仔細顔に勢いよく立ち上がった提督を見て、那智は怪訝な表情をとった。

 「どうした、司令」

 「すまんがこの部屋の留守を頼む。なるべく早く戻るよ」

 「……了解した」

 発せられる雰囲気に気圧されて何も状況を聞き出せず、小走りに戸の向こうに消える彼を見送るしかない。長い付き合い、これだけ
語気の逼迫した彼というのを今までに目にした事は無かった。那智は一人心内に漫然とした不安を横たえらせ、心細く床を蹴った。
 広い室内にぽつねんと佇立して、自身の心拍の上がった理由を胸の内に探ってみれば、そういえば今第一艦隊のいないということを
思い出す。だからこそ自身が秘書をしていたわけであるのだが、そういった状況の認識が遅れてやってくるほどに、焦燥が思惟を苛ん
でいた。果たしてこのえも言われぬ不安感は、杞憂と一蹴するには真に迫るものがある。そして提督とて胸に抱く感情は同じ。
 無線室に入りまず彼の目に付いたのは、肩を振るわせながら瞳を眼窩の内に右往左往させる妖精の立ち姿であった。彼は提督の姿を
視界に入れるなり幾ばくかの安堵を顔色に滲ませ、一枚の感熱紙を差し出した。

紙面の文字を追う提督は自身の予感が的中していたことを悟ると、嘆息をつく暇もなくその妖精に指示を出す。

 「繋げるか」

 「はい」

 「やってくれ」

 「……繋ぎました。どうぞ」

 訓練では飽きるほどに繰り返した手順である。だがいざそれを実践する機会を目の前にすると、自身の知識に猜疑を持つような心地
となるのだった。一息の間の後、提督は意を決して口を開いた。

 「ライチョウ。こちらオシノヤドリギ。無線チェック。オクレ」

 「オシノヤドリギ。こちらライチョウ。感明よし。オクレ」

 「オシノヤドリギからライチョウ。暗号通信を受領した。状況の説明を求む。オクレ」

 「ライチョウからオシノヤドリギ。警邏任務中、貴施設へ進行中の敵艦隊を認む。艦隊規模、およそ三十。空母棲姫、戦艦棲姫を確
認。現在地北緯三十一度四十五分十二秒東経百二十八度四十六分五十八秒。女島より南東におよそ五十キロ。敵艦は定速十六ノットで
北東に航行中。およそ六時間後に貴施設へ到達。当機は監視を継続。どうぞ」

 「オシノヤドリギからライチョウ。把握した。何か進展あり次第連絡されたし。オワリ」

 無線のぶちりと途切れる不快音を耳朶にしながら、提督は愕然とした顔つきにヘッドセットを置いた。慢心と言えばそうである。よ
りにもよって主力のいない今、まさかこの鎮守府自体を襲撃されるとは思ってもみなかったのだった。
 反省など後々存分にやればいい。彼は心内に自身をそう戒めると、今やるべき事を脳内に次々列挙していった。

 「何かまた通信があったら呼んでくれ」

 一瞥も向けずに言い放ち、返事を聞くより先に部屋を出る。
 一級、二級の艦船がいないとなれば、真正面から殴りあった所で勝てるわけもない。兎角増援を頼むことにし、そうなれば人脈のあ
る自身の立場は有利だった。
 執務室の戸を開けると、腕組みし苛立たしげに指を反復させていた那智が、食って掛かるようにして口を開いた。

 「敵か!」

 「うん。三十隻くらいだって。規模が大きすぎるから、ちょっと協力を請わなくちゃならんね」

 机を回り込むのも億劫に思えて、提督は向かい側から電話の受話器を取った。打った番号は呉鎮守府、それも私用のプライベートナ
ンバー、友人Kのみを呼び出す秘密のものである。

 「もしもし」

 随分長いコールの後、ざらつき低い熊のような声質の応答がある。

 「Kか? 俺だ」

 「知っている。何だ」

 「手短に言うがな、うちの鎮守府に敵が迫ってるんだがこちとらALとMIに主力を投入したばかりなんだ。いちいち上を通すのも
面倒だ。この俺に免じて協力してくれ」

 「……状況はわかったが、残念ながら無理な相談だな」

 事情を聞き返すこともなく一蹴されるという展開は、彼にとって思ってもみなかったものであった。
 「貴様、理由を言えよ」
 意識せず上ったこの言葉には、大いに怒気が含まれてあって、彼は言った側から自省の心地となってしまう。一語謝るより先に、そ
の心中を察したらしい。すまなさそうな調子に早口の弁解があった。

 「どうやらお前は知らないらしいが、今関東の沖合で深海棲艦が大挙して進行中だ。奴さん珍しく揚陸艇まで引っさげて九十九里と
相模から首都を狙う腹づもりでね。当然もうこっちにも収集の命令がかかっているわけさ」

 「このご時勢にダウンフォールか。奴らなりのMIの報復ってことなんだろうな。……だがなんで俺にはそれが知らされていないん
だ」

 「俺も佐世保に収集が掛かっていないってことは聞いてて疑問に思ってたんだが……お前の話を聞いて納得したよ。そっちに向かっ
てる深海棲艦には揚陸艇は含まれてないんだろ?」

 「ああ」

 「陽動だよ。こっちの敵は上陸を目的としているが、そっちの敵はせいぜいお宅のハウスを壊しに行っている程度なのさ」

 「つまり、加勢は見込めんか」

 「そう気を落とすな。勝手なこと言うようだが、お前ならやれるさ。気張れよ」

 「……あぁ。……悪いな」
 受話器を置き、それからしばらく顔をあげることもできなかった。まずなにより、何もかも後回しに状況さえ知らせてくれない大本
営、その怠慢っぷりに腹が立った。いや、いちいち知らせる時間さえも惜しい状況なのやもしれないが、だとしても薄情に過ぎるでは
ないか。胸の内に呟く呪詛は、そのまま腹底に不愉快として沈殿してゆくようだった。

 机を蹴っ飛ばしたい衝動に駆られるも艦娘のいる手前流石に自重すべきで、また外面に気を遣う自身のそういった心理の動きが忌々
しさを増大させた。
 提督の中に高まって行く内圧を察したか、那智は気遣わしげに声をかけた。

 「断られたか」

 「あぁ。陽動だからって」

 「案ずるな。たかだかその程度の艦隊、私たちの敵ではない。出撃させろ」

 自身はまだしも、他の艦娘には荷が勝ちすぎるということを那智は自覚していたのだった。しかし、かと言って何もしないわけには
いかない。今は無き帝国での経験が記憶に継がれてある以上、たとい練度の低い艦とてそういった割り切りはできるはずだ。
 彼女のこの言外の意を、提督は鮮明に知覚していた。蠢いていた怒りは砂地へ水が立ち消えになるように無くなり、後には慟哭した
いほどの寂寞が心の根にわだかまった。現世において玉砕の決心をさせてしまったという不甲斐なさ。それが胸をきつく締め付け、彼
女への反抗心にとって変わってゆく。

 「貴様、いつまでもそう俯いてもいられないだろう。それとも白旗でも掲げてみるか?」

 「名案だけど、敵が国際法を知らないってのは問題だな。……まだ出撃はしない。全艦娘は戦闘準備を整え、待機」

 「おい!」

 叱咤の声に怯みもせず、彼は那智を見据えた。

 「まだ手はある」



 非戦闘艦、妖精のいなくなった鎮守府というのは存外に寂しいものであった。工廠に煩わしい工作機械の音も途絶え、食堂に給仕妖
精の喧騒も無くなり、日の傾きかけている時分とはいえ廓寥の心内甚だ愁いに染まりすぎている。
 本棟屋上に座しているは、明石、那智、提督の三人。内、明石は自身の工具をもってして、手元に電気コードの束を弄っていた。

 「できました」

 げっそりと精気の抜けた声に宣言した明石は、両腕を上げ、その勢いのままコンクリの床に仰臥した。屋上の淵に沿うように全部で
五つ、探照灯が並んでおり、それらは一様に首をもたげて地平線を睨みつけていた。

 「ありがとう。もう避難してもいいぞ」

 「嫌味ったらしい言い方ですね!」

 頬を膨らませる彼女には微笑をもってして応えた。腕時計を確認すると時刻は一六○○を回ったところ。予定を少々押してはいるが、
かといって焦燥に気分を害するほど追いつめられているわけでもなし。焦眉の急と言ってもいいほどの状況にありながら、この鷹揚と
した空気の流れていることは不思議に思えた。

 「車で送るよ。……先に号令かけなきゃだから、ちょっと正門で待ってて」

 差し出された手にしがみつき上体を引き上げ、明石は一つ首肯した。
 普段なら最終的な出撃の命令は執務室にて行われるが、今回は総力戦。主力を除いたとて、とても艦娘全員をあの部屋に押し込むこ
となどできるわけもなく、一同はひとまず食堂に集められていたのだった。
 那智と提督がその部屋に入ると、姦しい雑談の声は一瞬にして鎮まった。まるで同時にスイッチを切ったかのような、奇妙な連帯感
が滑稽に思えた提督だったが、艦娘たちには笑顔を作る余裕も無いらしく皆一様、黙して視線を向けてくるばかりである。
 その瞳に怯えの色を湛えている者も少なくはない。遠征が主で戦闘任務は数えるほどしかこなしていない駆逐、軽巡。あるいは今回
が初めての実戦であるという者さえいるのだろう。何れは経験する事といえ戦闘処女の初めてが自身らの基地の防衛となれば、なるほ
どその重圧、忖度することさえ億劫になる。

 「出撃の時間だ」

 この宣言は変に間が開いたために、浮ついた印象のある言葉となった。提督がそのことを一人心内に恥入っている間にも、艦娘達は
一斉に立ち上がり凛々しく敬礼して見せた。
 姿勢に気後れも憂いも怯懦もない。外面には一縷の弱みも見せないという純真の立ち振る舞いが、提督の心を鬱々しくさせた。
 何か言えよと那智に視線で促される。喉の中に明るい声音を作ってから、彼は口を開いた。

 「情報によると敵に揚陸艇は含まれていないとのことだった。つまり敵方の目的は上陸になく、この鎮守府の破壊にあるということ
だ。……出撃を命ずる立場にありながらこんなこと言うのもどうかとは思うんだがな。建物なんてのは壊されたらまた直せばいいだけ
の話なんだ。いい加減タイル張りのトイレなんて不気味だし、執務室は熱がこもって馬鹿みたいに熱いし、そのせいで冷房代もかさむ
し。まぁリフォームの良い機会を貰ったと考えれば、敵にやられたところで腹も立たん。
 だが君たちは違う。替わりはいない。沈まれちゃ困るし悲しい。だからこっちのことは気にせず、無理だけはしてくれるな。怒らな
いから危なくなったらさっさと逃げろ。兎角、自身らの身命を第一に考えるように。
 では、各員に最大の成果を期待します」
 答礼すると、艦娘は一斉に駆けていった。
 中々に良いことを言ったんじゃないかと手前味噌に自身の言を振り返っていると、那智に眇められた眼を向けられる。わざとらしく
小首を傾げて見せれば、大仰な嘆息の後わき腹をずいと小突かれた。

 「なんだ貴様、さっきのあれは」

 「何って言われてもさ、何ってなんだよ」

 「もっと戦意を鼓舞するようなことを言えなかったのかという話だ」

 「がらじゃないし。明石送ってくるよ」

 ポケットから車のキーを取り出し見せびらかすように掲げ、提督は踵を返すのだった。
 武闘派の彼女からすれば小言を言いたくなるというのも分かるし、故にこれは不毛な議論となるのだった。価値観の相違に解決の手
段などあり得ない。
 無能な自身が、果たして何を言えるというのか。もう幾度目かも分からない自嘲の呟きは、口の中に停滞した。

 「貴様も、そのまま避難していればどうだ」

 戸を抜けようかというタイミングに、遅れてそう投げかけられた。身を案じての言葉なのか弱腰な事への皮肉なのか、仔細に過ぎて
判断に迷う声音である。

 「それこそ士気に関わるだろうよ」

 振り返らずに返事をしたのは、その答えを知りたくなかったからだった。
 鎮守府の敷地の外れ、普段は誰も寄りつかない工廠の裏側。ただ白線によって区切られただけに見えるその駐車場には、まるで自生
しているかのごとく二台のプリウスが止められてあった。ネイビー色に染められた車体は、即ちこれが海軍の所有するものであると無言
の内に物語る。
 中に入りエンジンをかける。尻から伝わる振動やハンドルカバーの滑らかさ、各ペダルの抵抗。随分久しい感触に一抹の不安を抱い
た提督は、しかし遅れて認知された事柄によって途端胸を撫で下ろした。佐世保の街に避難勧告が発令され、もう随分経ったのだ。今、
道路を走る乗用車などありはしないし、故に幾ら未熟な運転をしようがそうそう事故も起きないはずだ。
 正門へ向かうと、警備室の壁に背を預けた明石の姿が視界に入った。近くに止めると、彼女は後ろを回り込み助手席の戸を開けた。

 「待ったかな。ごめん」

 視線を計器盤脇の時計に流しつつ言うと、

 「ほんとですよ! 人使いが荒いんだから……」

 むくれた表情に返答される。
 提督の失敗だったのは、そこで会話を押し広げる事もできず無言のまま車を発進させたことだった。それは別段彼女の発言に気分を
害されたというわけでもなく、ただ言葉から連想された思考の萌芽が口を噤ませるほどの勢いを持って脳内を馳騁したのだった。
 不安げな目つきに顔色を伺う彼女に気付き、提督はようやく遅れて口を開いた。

 「なんだか提督職に就く奴ってのは、あくどい卑劣漢なんじゃないかと思うんだ」

 この突拍子もないように思える発言に、しかし明石は自身の良心が苛まれる、じくじくとした疼痛を覚えていた。先の言葉が提督の
心緒に波紋を広げたらしい事。例えば陶器を割ってしまうだとか大事な用事のある日に寝坊をしてしまうだとか。後にはどうすること
もできない類の不安と焦燥に、胸の内を焼かれる心地だった。

 その彼女の心的状況を察せられぬまま、尚も彼は続けた。

 「今日、思い知った。結局現代の人類ってのは艦娘に頼らないことには自身の身すら守れないんだな。……君達は信頼という頚木に
繋がれた荷馬車の馬だ。俺は君らとの仲間意識を築いて、それを盾にしてこの卑劣なシステムを運営しているんだ」
 咄嗟にそんなことないですよと口走ろうとして、しかしそういった慰めの軽薄さ。先ほどまでの自身の放った言葉を前にしては余り
に都合がよすぎるようで、彼女は閉口した。
 単に自身の発言を取り消したり、或いは謝ったりするのも露骨に過ぎる。もどかしさと悔悟に苛まれたままなんとか言葉を捜し探し、
沈黙の痛く感じられる段になってようやく捻出かなったのは、随分つまらない文言だった。

 「でも今日は、私は探照灯を散々弄れたので、まぁ満足していますけど……」

 依然、提督は仔細顔を崩さなかった。


 明石を避難所へと送り届けた後には急いで復路を駆け抜けて、その後はずっと探照灯の元に座り込むのであった。
 宵の地平を双眼鏡越しに眺め続ける。時間の経つほどに腹底の緊張は膨らんでいった。
 脇に侍らせた妖精幾匹かも提督と同様、眼前の海面を注意深く見渡すが、どこかその様子には場慣れた余裕が感じられた。つまり戦
場に赴いたことのある者と無い者との、埋めようのない溝である。たとい同じ姿勢を取ろうとも、その発せられる雰囲気には歴然たる
差があった。
 妖精の向けてくる気をかけた視線が口惜しかった。自身の発する違和感は、褥を共する処女の不格好さと似たようなものなのであろ
う。尊大な自尊心を備えてない提督とて、この状況には堪えるのである。羞恥が胸を苛み、どうしようもなく心を痛ませた。
 どこか茫漠と感ぜられた自身の無能さが、今確信という土壌を持ってして胸の奥底に根を下ろす。甚だ傷つけられたのは、発見の報
告さえ妖精に先を越されたという事だった。

 「煙です!」

 しじまを裂いた声は声量自体それほど大きなものではなかったが、状況と彼の心の内に湧いていた危機感によって大仰に耳朶にされ
た。言われよく地平を眺めてみれば、夜空の紺に溶け消えかかってはいるが確かに薄暗い陰のような煙が立ち上っているらしい。

 「全員、位置につけ」

 静かに命ずると、妖精たちは二匹ずつそれぞれの探照灯の元に向かっていった。提督もまた立ち膝の姿勢をやめ、その場に佇立する。
 大したこともない役割だと自身を無理やりに宥めてみれば、今朝方あきつ丸に言った言葉が意識の表層に思い出された。偉そうな、
上から目線の労わり。途端顔から火のでそうなほどの羞恥にかられ、彼は歯噛みし眉を顰めるのだった。
 次第次第に露わになってゆく戦況は、大方予想通りのものであった。後進しながら迎撃する第一戦隊、那智を旗艦に構成された部隊
であるが、艤装に手傷を負っていない者は誰一人いないほどの消耗ぶり。反面敵方に目立った損害はなく、一方的と形容してもいいほ
どの状況である。
 尚も提督に焦りがないのは、即ちこれも作戦の内であったからだ。
 戦闘の行われている海域から幾ばくか離れた水面の稜線。そこから放たれた信号弾の輝きが、夜空を毒々しい緑色に染めた。敵の後
方にようやく姿を現した艦娘たちは、練度の低い者を寄せ集めた第二戦隊。経験と訓練がものを言う夜戦において、素のままでは到底
役立たない即席の部隊である。

 無論事情も何も知らない敵にとっては、驚異として勘定に入れなくてはならないほどの頭数である。混乱に足並み乱した彼奴等を見
届け、すかさず提督は命じるのであった。

 「投光!」

 くぐもったモーターの音が、遠い砲撃の喧噪をかき消してゆく。夜空へ伸びた丸太のような光線は、しばし視線を泳がせた後にかっ
ちりと敵に照準を合わせた。
 今や挟撃の準備は整った。練度不足とは言え艦娘は艦娘。これだけの状況を整えてやれば、第二戦隊の面々でも充分に火砲を当てる
ことができるはずだ。
 白光が火薬の朱と煙の黒に染められてゆくのを視界に入れ、提督は今まで呼吸の忘れていたように安堵の嘆息をついたのだった。
 そもそも入り江に大した援護もなく突撃する時点で、もう愚策もいいところなのである。割り当てられた敵の頭の無さに感謝しつつ、
されど容赦をするに足る理由はない。
 彼奴等はさながら、定置網に掛かった魚であった。もう逃げ道は失われ、遅かれ早かれ膾にされる運命である。
 無論、この作戦にも弱点はある。それは探照灯という装備の共通する、避けようのない弱み。即ち敵に本棟の正確な位置を知らせて
いる挙句、しかも艦船と違い動きようもないのであった。

 「よし、全員撤退!」

 双眼鏡から目を離し辺りを見渡すと、命令を下すより先に妖精は我先に避難を開始していた。彼らはふよふよと高度を上げ夜空の向
こうへと姿を消したが、それは提督にとって思ってもみなかった展開であった。
 つまり、一緒にこの建物の中を降りていって外に出るという行程を踏むものだと、端から思い込んでいたわけなのである。冷静に考
えてみれば、こうして宙を漂うことができる者たちに階段なぞ必要であるはずもない。独り屋上に取り残され、途端胸の内に心細さの
風が吹き、焦燥に命じられるまま彼は出口へと走って向かった。
 屋上の片隅にぽんと置かれた、立方体の建屋。本棟内部へ降りてゆくための階段とその他配電管理の機械室等を内包するペントハウ
スであるが、それは三十メートルほど向こうの対岸に鎮座していた。ものの数秒に走り抜けられる距離であるのに、ひたすら遠くもど
かしい心象だった。
 兎角、逃げねばならない。少しでも遠く安全な場所へと、強迫観念に囚われていた最中、一つ燦爛とした何かが視界の端に捉えられた。
一瞬の内に膨張したそれがつと消失した瞬間、鼓膜を裂くかのような空気の擦過音と共に、足先には猛烈な振動が伝わった。
 察知は須臾の内だった。死に際に放たれた敵戦艦決死の砲弾が、那辺かは分からないにしろこの本棟を直撃した。

 作戦立案は無能としても、その武まで手練ていない訳は無い。初手から目標に当てる技量の持ち主である。誤差の修正された次の砲
火は、洒落にならないものとなるだろう。追い詰められ、自身の死期を悟った精神状態ならば尚更である。
 提督は危殆なる状況に、膝を震わすほどであった。


 脳天を吹き飛ばされた戦艦棲姫は水面に仰臥した後、腰からゆっくりと沈んでいった。最後、助けを請うかのように伸ばされていた
腕が遂に指先まで没したのを見届け、那智はようやく安堵の吐息をつくことができた。
 張りつめていた緊張が一気に緩び、血管の一筋一筋に血の流れが生々しく感じられるような心地だった。急な目眩に膝を付き、眉間
を挟むようにして揉んでいると、駆け寄ってきた駆逐艦の身を案ずる声が耳朶にされる。顔を上げ視線に大丈夫と返信したその時、思
考の敷居の下にてくすぶっていた懸案が、わっと湧きだしてきたのであった。即ち本棟の損害の具合と、提督の安否についてである。
 戦艦棲姫はその身に数多の傷を負いながらも、尋常でない意志を持ってして執拗に攻撃を続けた。砲撃は五回、三連装砲から放たれ
た弾の一発も当たらなかった回は無く、今や探照灯の光線はその全てが消え果てている。
 急ぎ本棟に帰還すれば、彼我の距離の縮まるにつれその被害の大きさが認知され始めた。まるでカルデラの如くに穿たれた穴から、基
礎のコンクリや鉄筋がまみえる。それらは引きちぎられた血管のようにグロテスクな様相を呈しており、しかも壁の至る所にあるもの
だから凄惨に過ぎる印象だった。
 焦燥に促されるまま、那智は岸壁を登った。
 見るも無惨に吹き飛ばされた正面玄関は、最早以前どのような趣であったか厘毛のほども思い出せない有様である。散らかされた積
み木のように瓦礫の散乱する中、その片隅に彼はいた。
 ちょうど腰の高さに切り取られたコンクリ片の上、全身を灰褐色に染めた提督は憮然とした顔に座っていた。一先ず生存を確認でき
た安堵と、砲撃に巻き込まれたらしことの分かった不安が、ない交ぜになって胸を締め付けた。

 「おい、貴様! 無事か」

 走り寄りつつ声をかけると、片手を上げて首肯する。那智は提督のその仕草に一縷の違和感を覚えたのであった。
 那智とて並大抵でない艦娘である。敵の状態を見極める目は非凡の域にあり、故に彼が無意識に庇った左腕の、その仔細な動きを察
知することは容易かった。

 「見せてみろ」

 すぐ側に寄った後、開口一番そう言った。引っ込められるより先に左手を救い取れば、痛みに眉を顰める彼である。

 「転んで挫いただけだよ」

 慌てた声音に弁解があった。だがそれは彼女の屈辱をより一層煽るだけの言葉であった。
 ただでさえ戦闘以前から機嫌は悪かった。加えてこの結果、幾ら作戦の内に折り込み済みとは言え、眼前の光景には勘弁ならいもの
があった。本棟は大破し司令も手傷を負い、とても防衛を成功させたとは言えない状況で、しかも後者に関しては本人に隠蔽する意思が
あったらしいのだ。

 「折れている。歯を食いしばれ」

 返事を聞くより先に、外観よりずれていることの分かる手首を叩くようにして矯正する。途端、彼は不細工な呻き声をあげ、膝を付い
て地面にへばった。

 「医者の来るまで添え木しておけ。……気を遣うなら端から怪我なんてするんじゃない! 馬鹿!」

 胸の中にわだかまる苛々がそのまま舌に乗った。治療を名目に彼をいたぶり、正論を武装してなじっても、気の晴れることはなかっ
た。自身の不甲斐なさは怒りに置換され、罪悪感を覚える余裕さえなく、那智は悔し涙を見られないように早々に踵を返した。

 提督はそういった心理の機微悉くを認知できた訳ではなく、だから心の準備を整える間さえ与えてくれなかった彼女に対しては、一
抹の怒りを覚えるのだった。
 ようやく痛みの波が穏やかになりだした頃合、舌打ちしつつ顔を上げると艶やかな生足が視界に入った。

 「あらぁ、提督。良い格好ですねぇ」

 所々破けたアンミラ服を纏い色白の肌を煤に汚した龍田は、恍惚顔にそう言った。

 「……沈んだ奴はいないんだろうな」

 上体を起こしつつ問うと、頬に掌を当てながら嫌味たらしく、

 「ええ。派手な囮のおかげでねぇ。……これ使います?」

 彼女が差し出したのは、添え木代わりにということなのであろう。折れた槍の柄の残骸であった。丁度一尺ほどの長さがあり、確か
に都合は良さそうである。
 頷くと彼女は自身の服、切れ目の入っていた袖口を大きく破り、更に縦二つに裂いていった。露出した華奢なかいなが、月光にまざ
まざと照らされる。
 何よりもまず白さが際立った。透明なアクリル板を重ねてゆくと表面は次第に白濁してゆくが、彼女の肌の色味はそれを連想させる
ものであった。骨ばった肘や滑らかな二の腕、肩口の僅かな膨らみ。腕のちょっとした造形が厭に艶かしく映えて、提督は意識の埒外に
生唾を飲み込んでいた。

 「眼福だぜ」

 童貞でもあるまいに晒された腕ごときに欲情したことが恥ずかしく、誤魔化すように言ちた。龍田は左手を取ると、

 「壊死する前に落とした方がいいかしら」

 一瞥くれることもなくすかさず吐き出し、ふふふと含み笑いを零すのである。警告は無論冗談の類であると分かってはいたが、それ
でも尚心臓の縮み上がるほどの語気があった。居た堪れず、沈黙するより他にはなく、結局それから彼女が去るまで何一つ気散じな会話
のなされることはなかった。
 およそ無聊を感じることができたのは何時ぶりのことであろうか。仕事場を綺麗に吹き飛ばされたことによって、彼はまったく何も
やることがなくなってしまったのだった。艦娘たちは皆一様に入渠施設へ押しかけており、まさか男の出る幕もない。通りを歩くものも
おらず、気を紛らす話し相手もいなかった。
 ただただ座って海面を眺めるしかなかった。じわじわと血の巡る度に左手は疼き、その痛みによって思惟の世界へ旅立つ事も許されな
い。極めて表面的な意識の中、提督は久しい退屈という感覚にどっぷりと身を浸したのだった。

 それから一時間ほどの後、海波の合間から遂に第一艦隊の艦影が見えた。
 流石に座ったまま出迎えるのも失礼に思われ、提督は億劫ながらも重い腰を上げた。岸壁の淵に立って手を振れば、ますます速度を
上げる彼女達である。言いたい事聞きたい事が山ほどあるのだろう。もうその立ち振る舞いから、逸る気持ちが肌にぴりぴりと察知さ
れた。
 旗艦であるから当然なのだが、まず岸に上がったのはあきつ丸であった。潤む眼を拭いながら走り寄った彼女は、その勢いのまま提
督の胸に飛び込んだ。それはロマンチックな邂逅という訳でもなく、ただ感情の爆発がそのまま彼個人に向けられたというだけの仕草
であった。腕は背に回されず、鎖骨の下辺りに握りこぶしが置かれるだけ。唇をわなつかせたまま、ようやく嗚咽交じりに発せられた
言葉は、しかし支離滅裂に過ぎていた。

 「せっかく、活躍できたのであります! 自分、は。……あの、せっかくいい報告ができると、思ったのに! 何か、一体なにがあ
ったのでありますか! 自分。あの、提督殿、はお怪我は、されて……あぁ! 自分は!」

 そこから先、もう慟哭と差異の無い文言がが吐き出されるばかりであった。帽子の上から頭を撫でてやれば嗚咽はますます無様に大
きくなってゆき、もう提督も苦笑を漏らすより他に仕様がない。人目も憚らず彼女は彼の軍服に涙を染み込ませ続け、時折昂ぶってい
る心緒を示すように胸をどんと叩いていた。
 ぽつりぽつりとこの惨状の経緯を話しつつ、ようやく彼女とて気恥ずかしさを覚えるほどには心に静謐を取り戻した頃合。

 「なぁ、あきつ丸」

 そう呼びかけてみると、彼女は上目遣いに無垢な瞳を向けてきた。即ち今の状況がいかに危殆なるものか、自覚はないということだ
った。提督は暗澹たる気持ちに嘆息を吐きつつ、加賀を伺い見ながら言った。

 「いい加減、勘弁してはもらえないか。裸でくっつくのは」

 小首を傾げた彼女は数瞬の後、自身の格好と彼の近さ。それから背後より投げかけられる嫉妬の怒気。それら全てを同時に知覚する
のだった。唯でさえ白い顔をますます青く染め上げて、慌てて振り返り、加賀に弁解を始める。
 生じてしまった亀裂に関しては、今更もうどうすることもできないのである。彼はその前途に失望するばかりであった。

 3

 激戦の翌朝、なによりもまず急がれたのはプレハブ小屋の建設であった。本棟の修理が終わるまで、まさかずっと業務を滞らせるわ
けにもいかなかった。大本営からの査察があったのは明け方四時。それから六時間の後には、具体的な作業が始まり、簡易なユニット
ハウスの建てられたのは更に二十四時間後のことであった。
 提督といえば左手首の治療もそこそこに、先ず査察団の接待に追われ、彼らの帰った後には作業員の説明を拝聴し、ようやく荷が下
りたのは宵も更けに更けた時分であった。
 近場にビジネスホテルの部屋を取ることができたのは幸運だった。佐世保の市民は避難指示のあった翌日というに甲斐甲斐しく働き
に出ているらしい。普段通りに活気づく街の光景を目の当たりにすると、心の中に不遇を嘆いていた自身というものがなにやら矮小に
思われて、提督は独り徹夜明けの緩やかな思惟の中、恥入った。
 部屋に入り、まず何よりも先にシャワーを浴びた。医者から禁止されていることではあったが、髪の毛のぱさぱさとした手触り、外
に露出していた肌の何か異様なほどの滑り具合。いい加減そういった自身の状況には勘弁ならなかったのである。
 左手首の固定具にはビニール袋を被せ、輪ゴムを何重にも巻いておいた。
 体を滑る湯は、たちどころ灰褐色に濁ってゆく。粘度も増したか、しばらくのうちに排水口も詰まり、時々シャワーを止めないこと
には水たまりのできる有様だった。
 思わず「やった、泥石鹸だぜ」と言ちた。独り後から面白くなってしまい提督はしばらく哄笑したが、そんな愉快もそう長くは続か
なかった。一通り煤を洗い流した後体を拭いていると、烈々たる違和感がビニールの内より沸き上がってきたのである。
 心臓の鼓動と連動して、骨からじくじく痛みだした。ベッドに飛び込めば、徹夜明けから労働した体である。眠気もあるし倦怠もあ
るのに、その疼痛が現実に意識を引き留め続けた。
 幸い時間はあった。結局痛みの引くまで寝付くことはできなかったが、それでも十二分以上の睡眠を貪ることはできた。
 霧散しかけた意識の中で、彼は加賀の姿を幻視した。思えば帰還してより今まで一言も口を聞いておらず、しかもあきつ丸のことも
あった。一抹の不安が胸の内に走るも体を起こさせるまでには至らず、結局そういった心緒もたちまち霞んでいってしまったのだった。


 鎮守府に帰還したのは朝方六時。門戸を抜け、まずビニールシートを絆創膏のように被せられた、痛々しい本棟の姿が視界に入った。
それから小脇、スチール壁を四枚囲い袈裟掛けに上から支えのパイプを這わした、直方体の建屋が見える。例のユニットハウスなのだ
ろうが、外観はもう結構なもので、すぐにでも執務を始められそうな雰囲気を放っていた。

 「あの、お疲れさまです。ちょっといいです?」

 近くを通った作業服の男に声を掛けると、気だるげに小首を傾げられた。

 「これって、もう完成ですか」

 「まだガスと電気と水の工事が残ってるよ」

 「……電気は分かるにしても、水とガスですか」

 「風呂トイレ付きだからねぇ。まぁまだしばらくできないが。……そうさな、午前中には終わるだろう」

 「ありがとうございます」

 踵を返しつつ、提督は感心の嘆息を漏らした。たったの一日で随分なものが建つようである。
 また何をするでもない時間が生まれ、ひとまずは食堂に向かうこととした。朝食には少し早い時刻だが、自身の部屋というものの無
い現状、落ち着いて座ることのできる場所さえ限られていた。

 食堂は本棟と廊下によって接続された建物であるが、艦娘宿舎との距離の兼ね合いによって奥まった箇所に鎮座していたために、砲
撃の被害を受けることはなかった。本棟の周りには鉄骨やぐらさえ組み立てられ始めている様子。中を通る抜けることはできないらし
く、建物を大きく迂回するしかなさそうだった。
 裏手に回ると艦娘宿舎からの渡り廊下、その柵壁に肘を置く人影が見えた。漆黒の服飾と、迷彩白粉を剥いでも尚血色悪い肌。あき
つ丸は憂いの顔つきに、ずっと遠くを眺めるばかりである。

 「おはよう」

 十歩の距離にまで近づき声をかけると、彼女は大仰に背を震わした。それから見開いた眼にしばらく提督を見つめた後、苦々しく眉
を顰めたのであった。

 「ごめん。何か邪魔したか」

 「いえ! そんなことは、ないのでありますが……」

 歯切れ悪く視線を反らしたあきつ丸は、痛む心中を堪えるように、握った掌を胸に置いた。思えば提督の帰還する時刻は知れていた。
このような所でたそがれていれば鉢合わせになるのも当然であるのに、そういった危機感をすっかり欠いてしまっていたのは失態だっ
た。
 どんな顔をして会えば良いか、思案していた矢先の邂逅だったのだ。彼女は焦燥と悔悟を混ぜ合わせた感情に、目も回る心地である。

 「どうかしたか?」

 それとなく尋常でない精神状態なのを閲歴したか、気遣う視線を向けられた。今のあきつ丸にとって、彼のそういった優しさという
ものは良心を苛む鋭利な鋏であって、大きく広げられたその刃を前にしては、とうとう勘弁ならなくなるのであった。
 懺悔するかの如くに頭を垂れ、彼女は重い口を開いた。

 「提督殿に、謝らなくてはならないことが……」

 「何?」

 「あの、昨日加賀殿が、随分荒れていたようなのでありまして……。責任は、あの、不埒な真似をしてしまった自分にあるのではと
……」

 「荒れてたって?」

 「慟哭の声とか、何か物を投げつけたらしいような音が部屋からしていたのであります。その、なんとお詫びすればいいのか……」
 最初要領を得なかった提督は、幾ばくか思惟の廻らした後、ようやく状況の概略を掴めたのであった。

 加賀の荒れていたその要因は複合的なものであるはずだ。例えば先日の作戦の無力感や、鎮守府を襲撃されたというその精神的ショッ
ク。無論、あきつ丸が中破の半裸で抱きついた事への嫉妬もあろうが、のみではない。嫉妬のみによって荒れたのだという謬見によっ
て、彼女は許しを請うているわけだった。その認識のちぐはぐさのせいで、彼女が何を言わんとしているのか、その知覚が遅れたので
ある。
 微笑ましく、健気なように見えた。この程度のことでわざわざ首を差し出しに来るのはいじらしかった。煽られた嗜虐の心根と愛お
しさ、それから唐突に思い出された自身の役職への侮蔑の念が複雑に絡み合い、提督の心情は甚だ混沌と濁ってゆく。
 意識の埒外に腕が動いていた。彼は彼女の髪を軽く指で梳いた後、その体躯を引き寄せ胸に抱く。

 「な、何をするでありますか!」

 強気な声音に咎められるも、さして抵抗がないのは不思議だった。温い体温を感じつつ、提督は思いついた言葉をそのまま舌に乗せて
いった。心の篭っていない言葉だが、しかし自身でも本心が何処にあるか、それさえ分からないのである。

 「お詫びにこうさせててよ」

 「意味がわからないのであります! こんなの誰かに見られたら……」

 「また加賀が怒る?」

 「そうでありますよ! 離してください!」

 自身の言葉に心情が追いついたのか、彼女その段になってようやく体を捩り出し、手を間に差し入れて距離を取ろうとし始めた。背
に回していた腕を一気に解いてみれば、彼女は勢い余って数歩後ずさる。その頬には朱が差して、目には怒りの色が滲む。

 「妻帯者なのでありますから! こういうことは自重していただきたい!」

 意図せず、彼女の罪悪感を払拭できたのは僥倖だった。逃げるように食堂へと向かった彼女の背を見つめ、提督は独り様々思惟を廻
らしている。


 朝食に加賀の現れることはなかった。
 宿舎の空母寮に足を踏み入れ、一航戦の相部屋をノックしてみれば、顔を出したのは赤城であった。彼女が逡巡に視線を右往左往さ
せているのを見て、提督も大方の事情は察せた。

 「無理はするなよとだけ、伝えてくれる?」

 微笑を作って言えば、安堵に目を伏せ頷く赤城だった。おずおずすまなそうな顔つきに戸を閉められ、提督はどこか心緒の片隅に寂
寞の風が凪ぐのを感じた。三行半を突きつけられた時の気持ちというのは、きっとこれと似たようなものなのであろう。そう、胸の内
に独り言ちる。
 臨時の秘書に馴染みの那智を起用せず、あえてあきつ丸を指名したのは、つまり当て付けであった。貴様がずっとふてくされている
ならばこちらもそれなりの手に出るぞという、伝える意思の無い脅迫だった。

 信頼の契り、ケッコンという終端の価値が揺らいでいるのだ。提督職への絶望が、或いはただ守られるだけの存在である人類種とい
うものへの失望が、指輪と頚木の境目を分からなくさせた。果たして加賀と結ばれたままでいることが、加賀自身の幸福に繋がってい
るのか。愛情を植えつけられた娘が戦地に向かうという異常を、今の提督は容認しかねるのだった。
 あきつ丸を連れ完成したユニットハウスを見物してみると、感動と落胆、その両極端の感情が一斉に迫ってくるようだった。たった
の一日でここまでの物ができるのかと感心しつつ、やはり簡易な構造の口惜しさもある。
 まず玄関を上がると、突然すぐ目の前に執務室が広がっていた。間仕切りも靴箱もなし。ただ部屋自体の大きさは本棟の物と遜色ない。
部屋奥の壁は片隅を半間の大きさにくり貫かれており、その先にはベッドと箪笥を置いてあるだけの小さな寝室があった。
 トイレ付きシャワー室は後から連結されたような格好になっており、一度外に出ないことには中に入れない。湯冷めしない時節であ
るのは、不幸中の幸いだった。

 「プライベートルームと仕事場の間に仕切りがないってのは、なんか厭だね。ぞっとしない」

 一通り見てまわった後、執務机に腰を降ろし、まず提督はそう言った。あきつ丸も首肯したがそれは何となしに首を動かしたのでは
なく、本心からまったく同意しての仕草であった。
 どこか危機感がある。朝方の彼との抱擁を意識せずにはいられないのであった。無論信用はしているし、間違いの起こることはない
だろうと思われたが、それでも秘書艦に呼ばれた時よりずっと不安は尾を引いていた。
 こういった感情の厄介なのは、俯瞰しているもう一人の自身が、その心緒を自意識過剰だと糾弾することであった。本能的な防衛の
感と義侠的な建前とが、胸の内に激しく衝突する。
 何もないまま時が過ぎてゆけば、どちらがより勢を増すかは自明である。結局執務の終わるまで、軽いスキンシップさえないのであ
った。
 意外な心地に受け止めていたあきつ丸は、ふとしたらその感情も寂寞であるとか名残惜しさにも置換されそうで、独り頬を熱くした。
提督には相手がいる。何か特別な情を抱く事さえ憚られるべきであるし、ましてや背徳に悦を覚えるなど不品行も甚だしい。燈りかけ
た官能の熱に厭悪と恐怖を覚えた彼女は、頭を振って湧き出てきた妄想を掃ったのである。

 宵もどっぷりと更けてしまい、最早夜半と言ってもいい時分。書類の背をとんと叩き、提督は立ち上がった。

 「それじゃあ、おやすみ。俺、シャワー浴びるから」

 「あの、戸締りは?」

 「べつにいいよ。めんどくさい」

 それから着替えとタオルと輪ゴム、ビニール袋を持った彼は、颯爽と執務室を飛び出してゆく。
 ぽつねんと部屋の中央に取り残された彼女は、しばしの逡巡に身を固くしていた。施錠しないというのはやはり些か無用心に思われ、
だが、まさかシャワーの終わるまで待っているのもいらぬ誤解を与えかねない。
 本人が良いと言うのだから、もう関知せずとも責められる謂れはない。一分ほどの思考の後、そう結論付けた彼女は、壁に掛かる鍵
束から視線を外した。出口に体を向け帰路の一歩を踏み出し、だがその時、目の前に佇立していた人影が彼女を驚懼の面持ちとさせた
のである。
 玄関の敷居を跨ぐ加賀は、あきつ丸を見るなり眼を眇めた。


 シャワーを終えて部屋に戻ると、執務机の椅子に腰掛ける幽鬼の如き加賀があった。普段サイドテールに纏められている髪も、今は
ただ無造作に下ろされているだけ。うなだれたまま視線さえ寄越さず、膝の上の両手を見つめている。もしかしたら左手の薬指を凝視
していたのやもしれないが、本人以外には知りえないことであった。
 何と声を掛けるべきか提督は判断しかねていた。別段喧嘩をしていた訳でもないのに、言いしれぬ気まずさが胸を締め付けるばかり。
 下手な慰めは、寧ろ相手を辛くさせるだけである。無力感、自身の無能さへの屈辱というものは、提督とて経験した事だ。故に頭に
浮かぶ文言悉く口走ってはならないものだと裁定できたし、また何を言い掛ければ楽にできるのかも分かり得ないことだった。そして
また、自身のそういった甲斐性の無さに失望してしまうのである。
 どれほどか経ち、先に沈黙を破ったのは加賀だった。

 「何も、何をすることもできなかったわ。私」

 自嘲を吐く女性に向かってその言を否定するのは、こと気の置けない間柄であるならば、必ずしも正解の一手にはなり得ない。内心望
んでいる言葉を導く為の回りくどい布石であると、そう判断するのは早計に思えた。提督には、まさかあの加賀が矜恃を投げうち、浅
ましく女々しい手段に出るとも考えられなかったのである。

 「どういう意味?」

 彼は探り探り、問うた。

 「ミッドウェーを攻略できたのは、あの陸の娘のおかげ。私たちだけでもっと早く攻略を済ませられたなら、鎮守府が壊されること
もなかった。あなただって、怪我をしないでいられたわ」

 唐突な懺悔にはあざとさを感じた。もしの話をする無意味さを、解していない彼女ではないはずだった。真意を測りかね、苛々が腹
底に沈殿してゆく。だがその後すぐ、ゆったりと向けられた彼女の視線によって、提督の疑問はたちまち氷解に至る。
 彼女の瞳は怯懦を片隅に控える一方で、切望に燦爛としているのでもある。それを見、彼は彼女の今までの葛藤全てを閲歴したよう
な心地となった。自身に求められている慰めが如何様なものか、ようやく知覚できたわけである。
 それが勝手な思い込みでないことを証明するため、彼は加賀の側にまで近づくと頤をぐいと無理やり上向かせてみた。果たして示さ
れた反応は従順なものである。視線を逸らし、唇をほんの僅か開いていた。諦観を装った渇欲が、表情の端々に滲み出た。
 荒々しく唇を押し当てると、歓喜の悲鳴が耳朶にされる。自身の予測のまったく正しいことが分かり、提督は独り安堵と憂鬱を覚え
ていた。つまり加賀の望んでいた慰めの実態は、辱めることによる懲罰であったわけである。
 寧ろ自身が謗られるべきであるのに、罰を与えるのは躊躇われた。だがつまり同時にそれは、懇願を無碍にできる立場にもないとい
うことなのである。唯でさえ役に立たない役職にあるのだから、彼女を慰藉する役目くらい全うせねばなるまい。キスに没頭しつつ、
提督はそう腹を据えざるを得なかった。
 呼吸の暇も付かせぬほどに、彼女の口を嬲り続けた。舌根の吸われる度漏らされる声は、苦しげに切なく震えていた。
 唇の端から漏れた唾液が顎の線を滑るまでになって、ようやく彼は体を離す。見れば酸欠と悦楽に表情を蕩けさせ、肩で息をする彼
女であった。

 「脱げよ」

 見下ろし、乱雑に言い放つ。加賀は狼狽に視線を滑らせながら、か細く赦しを請うた。

 「こんな、場所では……。せめてベッドに」

 「無理ならいいよ。別に」

 一歩距離を開けると泣きそうに眉を歪ませ、彼女は提督の裾を摘んだ。

 「わかり、ました」

 手を引き立ち上がらせ、肩を押して突き放す。ぞんざいな扱いをする度、提督は罪悪感に苛まれ、己の行為の正当性を猜疑せざるを
得なくなった。加賀は口答えせず衣服に手を掛け始めており、意の合致している事は明白なのだが、恥辱に唇を噛む彼女の姿を見ると
心が締め付けられてならなかった。
 髪を下ろした加賀は幾分か、普段より幼げな印象となる。馴染みの服の、全て床に落ちた今では年頃の女学生と見紛うばかりであっ
た。鎖骨の凹を、はらりと毛先が叩く。
 時々躊躇いの視線を寄こす彼女には、黙し嘲りの目を向けてやった。度に体躯をびくつかせ、おずおずと脱衣を再開するのは健気だ
った。
 普段より夜伽では被虐の立場になる加賀は、無意識的に羞恥を鍵として情欲を滾らせるようになっていた。明るい中ストリップをする
のは初めての経験である。故に胸底の切なくなるほどの興奮が享楽され、提督の心情とは裏腹、辱めに悦びを見出していた。

 ついに裸体を晒した彼女への、提督の指示は冷淡である。

 「自分でやれ」

 幾ら自身から求めた事といえ、その言葉は酷薄に過ぎる印象だった。加賀は抗議の声を上げようとするも、彼の仕草、その意図を察
した途端に寧ろより劣情を充溢させる。
 提督は左手を差し出し、

 「動かせないからな。仕方ないだろ?」

 そう言いのけたのだ。
 それはこの被虐の感の根源であった。自身の罪を視覚的に象徴する、服従の頚木だった。
 裸である事の心細さがこの諦観の悦楽と合わさって、具体的な贖罪という目的が意識の表層に顕れた。目尻より零れた涙は悲観のそ
れではなく、寧ろ昂ぶる悦のものであった。

 「……はい」

 震えた声音に、加賀は言う。
 既にそこは濡れそぼり、指が動かされる度水音の跳ねるほどであった。左手の人差し指を噛みなんとか声を堪えようとするも、荒い
息遣いに混じって喉の震えは外へと漏れ出す。

 「んっ……ぅぁ……」

 我慢しきれずに漏れ出してしまう嬌声への羞恥が、何よりも胸を苛んだ。無論、自慰を見られているだけでも相当に辛いのであるが、
自分のものと思えない声を耳朶にした時の恥ずかしさというのは殊更、屈辱なのである。
 生きたまま膾にされるような心地だった。快楽が体全体を突き抜ける度、その無意識の震えが自身の淫らさの証に思え、嫌気を覚え
るのもまたしかし、悦楽と認知されるのである。同時に先の自嘲の心緒は性的なそれへと置換され、痛められれば痛められるほど癒さ
れてゆくのだった。
 落涙は止め処なかった。嗚咽交じりの喘ぎ声は、よほど無様に思われた。手折られ、踏み躙られた心の疼きが、もう性的な快味に直
結している。
 終端はものの数分の内に到来した。

 「も、もう駄目っ……です。んっ、ぁぁあッ!」

 一際大きく体をびくつかせ、加賀はその場に頽れる。荒い息をつき、しじまに自身の喘ぎの響いた事へ羞恥を感じる余裕もないよう
だった。
 絶頂の余韻に、もう数刻前の自責も立ち消えになる。快楽に侵され蕩けきった微笑には、一片も昏い所は無かった。

 放心していた加賀は、床の冷たい心地よさに意識を向けるばかりであった。だから何時の間にやら提督が背後に立っていたこと、そ
の気配を察するのもあまりに遅く、今更危殆なる感覚を得たとてどうしようもないのであった。
 背を突かれ、腰に手が這わされる。

 「待って! まだ、待ってください提督!」

 柄にもなく叫ぶようにして言うも、四つん這いの体勢にされては碌な抵抗もできなかった。加賀は容赦なく自身に進入してくる彼の
感触に、背筋も凍るような、莫大に過ぎる悦楽を無理やりに享受させられたのであった。

 「い、いやぁッ! 待って……ていと、くっ……んぅ! ぁあっ、ひぐっ……ぅ」

 振り乱した髪が背筋の窪みをさらさら滑り、肩口を落ちた房、その根元からはうなじの生毛が垣間見えた。肘の頽れる度、軽く尻臀を
平手に叩くと益々嬌声は大きくなった。
 湿潤な感触が、彼女の興奮を生々しく伝播させる。眩暈にも似た快楽の中で、しかし提督は頭の芯に冷たい思惟を残していた。
 彼女は慰められたのであろう。自責の念を性の悦びに塗り潰し、幾らかは救われたのであろう。だが一層、自身は胸の内に悔悟を沈
ませるばかりであった。不満とまではいかない僅かな苛立ちが、この陵辱の行為に転化されていった。
 最初は彼女のためを思っての演技であった。今はもう、自身が虚偽の仮面を付けているのかどうかさえ分からないような有様だった。
 暴力性に促されるまま提督は加賀を犯し続け、煮えた思考も何も情動の灰色に染まりきると、征服の証を吐き出しつくす。加賀の、
何度目かの絶頂の嬌声を聞きながら、提督は湧き出す自己嫌悪に眉を顰めた。


 空母寮にまで加賀を送るその中途、つと気が付いたことがあった。傍らに彼女を連れた状況には詳細を確認できないその事実。否、
まだ予測としか言えないほどのか弱き事柄だが、提督の心はたちまち厭悪に揺れ動いた。
 酷使してしまった加賀の体を労わる、その表面的な優しさは維持したまま、しかし思惟はすっかりその事だけに占有されてしまった
のだった。別れのキスの最中さえ、考えに耽っていたほどである。加賀の背が戸の向こうに消え果るのを見届け、提督は憮然と踵を返
した。
 寮の出入り口近く、厠の脇に彼は立った。
 夜半の静けさの中に身を浸せば、たちまち予測の正しかったことが分かった。今このトイレの中、尋常の目的外に身を潜ませる者が
ある。
 おそるおそるといった風にひょっこり身を出したそれは、提督に気が付くこともなく自身の部屋への帰路を歩みだした。

 「おい」

 最低限の声量に呼びかけると彼女は大仰に背を震わせ、勢い良く面を向けた。色白の肌に、漆黒の服飾。この寮には似つかわしくな
い小柄の体躯から、既に彼女が誰であるのかは察していた。そしてそれは、まったくぞっとしない予測を正しいものと裏付ける、何よ
りの証左でもあったのだ。あきつ丸は眼を大きく見開いたまま、ただ硬直するばかりであった。

苛立ちを隠しもせず、歩み寄る。途端身を竦ませる彼女の細い腕を乱雑に掴み、提督は寮の出口へと向かった。

 「い、痛いであります! 提督殿!」

 流石に気を使ったのか、彼女が抗議の声を上げたのは外に出た後だった。無論懇願を聞き入れることは無く、彼は彼女の体躯を適当
な壁に押さえつけた。右手を顔の脇に置いて眇めた眼に見下ろせば、狼狽と恐怖の表情は益々その色を濃くしていく。

 「お前、何時から見ていた」

 あきつ丸の口から、短く小さい悲鳴が漏れた。
 提督は嘆息を吐くと、彼女を侮蔑の視線に見据えた。この娘への憎々しさが、体中を遮二無二渦巻くようであった。よりにもよって
あんな無様を、自身のこともそうであったが何より加賀にとっても堪えられない屈辱であ
る筈だ。
 慰めの為の睦みを第三者に見られるという含羞の怒りに、提督は苦々しく歯噛みする。

 「あ、あの……提督殿」

 「答えろ」

 「ち、違うんであります。見る気はなかったのであります! ただ、あの……加賀殿と提督殿のことが、気になって……それで、隠
れていたら、あの」

 「最初からずっとか」

 「ぅ、その……申し訳、ありません」

 壁を殴りたい気分であった。流石にそれを自重するだけの理性は残っていたが、代わりに意識の埒外から呪詛が零れだしていた。

 「見損なったよ」

 顔を見ることさえ勘弁ならず、提督は踵を返した。
 ずっと、鎮守府を壊され時よりずっと引き摺っている惨めさがかつて無いほどにまで膨れ上がり、もう頭を破裂させそうなほどだっ
た。自身は汚辱の極みにある人間なのだと、卑劣で無能なクズだと自嘲するたび、怒りの念が際限なく腹の内側をのたうつのだ。壊さ
れた本棟や、加賀の切望に揺れた瞳、そしてあきつ丸の怯懦の表情がチカチカと目の前に燦爛とした。

 振れた情緒の嵐の中で、彼はただ帰路の事だけを考えようとしたが

 「提督殿!」

 背後より迫る彼女の呼びかけが、無慈悲にもそれを妨げた。
 無視しようと足を速めるより先、行く先に回りこむ彼女であった。

 「提督殿! 待って欲しいのであります!」

 「帰れ」

 「あ、あの何とお詫びすればいいのか、分からないのでありますが……。その本当に悪気は無かったのであります! ただ自分は、
無用な事とは分かっていたのでありますが、しかし心配でもありまして……」

 「帰れ! いいから帰れよ!」

 荒らげた声が静寂を裂き、だが数瞬の後にはまた蕭々たるしじまに立ち戻る。たかだかこの程度のことで、年端もいかない娘に怒鳴
り散らす自身。それを俯瞰した気になって、益々提督は惨めさに胸を締め付けられた。

 「ゆ、許してほしいので、あります……っ」

 とうとう嗚咽を漏らし始めたあきつ丸は、彼の腕に縋りつくと落涙もそのままに懇願するのだった。

 「なんでもするのであります。許してくださるならなんでもしますからぁ……っ。ぅぁ……ごめんな、さい。提督殿、どうか……」

 「なんでもするのか」

 「はいぃ……します! しますから、どうか……」

 強引に唇を重ねたとき、だが確かに提督の心の梢には慰安の風が凪いだのだった。逃げる舌を掬い取り嬲り啜る度に、その狼狽の声、
反射的に捩られた体、反応全てに愛おしさを覚えるのだ。
 十秒二十秒と経ち、彼女の方からもおずおずと舌が差し出されるに至った。互いに真意など読めはしない。だが共有された悦楽は確
かに二人を結び付け、また不貞の背徳を意識するような段ともなれば、もう行為に歯止めは利かなかった。



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最終更新:2014年12月29日 21:47