提督×秋雲5-804

前の話


秋雲がお澄まし顔で椅子に座っている。私は座布団の上に胡坐をかいて白いページと右手にもった鉛筆を交互に見ていた。
「提督~まだまだー?」
楽しそうな煽り声に私は少しむっとした。
「前にも言っただろう、絵心はないんだ!五歳児に描かせた方がまだマシなレベルだぞ」
ケラケラと秋雲は笑いながら足をバタバタさせた。
「いいじゃんいいじゃん、無茶なお願いじゃないでしょー?ほらほら、手を動かす」
「…後悔しても知らないぞ」
私は諦めて鉛筆を動かした。秋雲を見ながら、チラチラと白いページに目配せする。ゆっくり、ゆっくりと黒い線が描かれていったが―――――これは宇宙生物か何かだろうか?秋雲のように上手く描けるとは思わないが、もう少しまともに描けないのか、と自分自身に落胆する。秋雲は椅子から立ち上がって私に近寄った。スケッチブックに顔を覗かせてすぐに「プッ!」と噴出した。
「ちょっと提督~秋雲さん全然かわいくないんですけどぉー!」
大袈裟に笑いながら畳の上を腹を抱えて転がった。憎たらしいその行動にふつふつと怒りがこみあげてきた。
「……もうやってられるか。終わりだ、終わり」
私はバンッとスケッチブックを閉じてそっぽを向いた。ドタドタとした音がピタリと止んですぐに右肩に重みを感じた。
「まぁまぁ~じゃあさ、秋雲さんが提督に絵を描くコツを教えてあげるね~」
「……コツ?宇宙生物をミミズにする方法か?」
アッハッハ!とまた高い笑い声が響いた。バンバンっと強く右肩を叩かれる。少し痛い。
「あのねぇ提督ー 対象を見ながら触ったらジョーズに描けんだよー」
秋雲は私の手を取ると自身の顔へくっつけた。初めて触れた秋雲の頬は決して冷たくなかった。体温があった。私は指を少し動かした。ふにふにと、頬の弾力を指の腹に感じた。秋雲はくすぐったそうに笑った。
「もっと触ってもいいよー」
私は手を動かして顎の下をなぞった。男のそれとは違い柔らかくて滑らかで細い。それから首の後ろへと指をゆっくり移動させた。親指で耳たぶを何度か押したり引いたりして、親指と人差し指で挟み込んだ。柔らかな感触が気持ちいい。耳たぶの柔らかさを堪能した後はまたさらに指を奥に進めて指先が項に届いた。肌の表面を上下にゆっくりと撫でる。
「……んっ」
微かに聞こえた声に私の体がビクリっと跳ねた。秋雲に触れていた手をサッと引っ込める。先ほどまで女の体をなぞっていた手を凝視した。思えばこうやって異性の体に触れるのは久方ぶりだった。基地には艦娘がいるが、仕事のパートナーとしての付き合いを徹底している。見た目の美しい艦娘は多かったが、私は彼女たちをそういう目で見たことがほとんどなかったし、そういう風に触れたいとも思ったことがなかった。性欲は人間の三大欲求の一つだ。どうしても溜まってしまった時は一人で処理をしたし、たまに遠くの街へ出てそういった店を訪ねていた。艦娘たちと一定の距離を保つために思わせぶりな行動をしないように気をつけていた。しかし、私は今何をした。秋雲は触ってもいい、と言った。私は自分で定めたルールも思い出さず、秋雲に触れた。秋雲が声を出さなければもっともっと、彼女の体を堪能しようとしたはずだ。何よりも驚いたのが、私はこの状況に性的興奮を少なからず感じていることだ。
「どーしたのさ提督?触んないの?」
秋雲が不思議そうに私を見上げる。その無垢さがいやらしい気持ちを抱く私を責め、同時にゾクゾクとさせた。これ以上秋雲に触れたら引き返せなくなりそうだ。私は頭を横に振る。
「もう充分だ。下手なりにちゃんと描いてやるさ」
そう言って秋雲と距離を取ろうとした時、強く腕を掴まれた。ニヤニヤ顔が私を見つめている。
「あ~提督ぅ、もしかして秋雲さんに触ったらこ・う・ふ・ん・しちゃったの~?」
興奮の言葉を意地悪く強調される。私は慌てて頭を振った。
「そ、そんな訳がないだろう」
秋雲の手を離そうとしたが逆に秋雲が私に顔を近づけた。
「提督っていちおー女に興奮するんだ?艦娘に全然靡かないし、正直そういう趣味の人かと思ってた」
「からかうのもいい加減にしろ!」
秋雲の肩を掴み私から引き剥がそうとした。
「いいのぉ?秋雲さんは、いいよ」
その言葉に腕の動きが止まった。
「提督になら、私、好きにされてもいいよー」
猫が頬を摺り寄せるように、秋雲は肩の上にある私の右手に顔を押し付けた。私を淫らに誘う女の目をしながら。その姿にゴクリッと喉が鳴った。同時に一つの疑問が浮かび上がる。
「………お前は、私をそういう風に慕っていたのか?」
生前の秋雲との付き合いは私にとって気軽であった。秋雲の私を見る視線には恋愛感情の類を全く感じなかったからだ。馴れ馴れしく私に接することはあったが、小動物にじゃれつかれているか、姪が叔父に懐くような、そういうものを感じていたから、私は他の艦娘よりも秋雲といるのが好きだった。
「多分、違うんじゃないかな」
秋雲は私の右手から顔をあげた。
「生前の私は提督のことは良い上司として好きだったよ。他の艦娘が提督にラブアピールしても全然気にならなかったし、嫉妬もしなかった。今も同じ気持ち。提督とこの部屋で過ごしている間に全然そういう雰囲気にならなかったのは、…私の時間も心も死んだあの時で止まっていて、新しい感情は生まれてないからじゃないかなー今もこう、胸がキュン!となってないし」
「……では、何故好きにされてもいい、など…」
さぁね、と秋雲は微笑んだ。
「でも提督が秋雲を求めるなら、それに応えてもいいかなーって。お礼代わり、って意味もあるかも」
二人の間に暫く沈黙が流れた。その沈黙に居心地の悪さを感じたのか、秋雲の微笑みに困惑の色が見え始めた。
「ごめんね~…提督のことそういう風に好きだったらまだ気分のって出来たよね……うーん、その、提督が嫌なら別にしなくてもいいよ。ただ、提督が秋雲の絵を描いてくれるだけでいいし……?提督?」
秋雲が戸惑った声で私を呼ぶ。私が秋雲の頬に触れたからだ。
「……本当に、いいんだな?」
私の右手に秋雲の手が重なる。
「絵もちゃんと描いてね~」
私はフッと笑みを零し、微笑む秋雲の小さな唇にそっと自分のを重ねた。


秋雲の体はまるで中学生のそれを同じだ。発展途上の体つきであり、初々しく穢れを知らない。とても白くて眩しい。服も下着もすべて脱がされ、一糸まとわぬ未熟な仰向けの体は布団の上で一人の成人男性の手によってゆっくりと撫でられている。秋雲は自分から誘ったが、こういったことには慣れてないようでいつもの悪戯心溢れる顔つきが今は羞恥で赤くなっていた。その情景は私の興奮をさらに加速させる。女としてまだ成長途中の果実を食す行為に背徳と罪悪と、喜びを私は感じていた。白くて柔らかな体を堪能していると、小さな手が私の右手の甲を軽く抓った。空いた手が私の膝の上にあるスケッチブックを指差す。私は渋々手を離すとスケッチブックと鉛筆を掴み、白い空間に線を描き始めた。秋雲の体とページを交互に目をやる。秋雲は描く対象を触れば絵が上達するとはいったが、触れる前に描いたものとそう大差ないものが出来上がりつつある。絵に達者な秋雲が言うのだから実際に効果があるのかもしれないが、今までとんと絵を描いたこともない素人が同じ方法を試してもその努力がすぐに反映される訳がないのだ。ただ違う点を挙げるとすれば、今は描きながら興奮している事だ。白い空間に描かれていく歪な線の集まりを見ただけでも気分が昂っていた。早く触りたい、と。
ある程度描き終えるとページをめくり、また膝の上に置くと手を少女の裸体に伸ばし、触った。秋雲は目を細めて体を震わす。その震動が手に伝わった。手はゆっくりと腰のラインに沿って下に移動し、太腿に到達した。軽く揉むとその柔らかさが心地よい。五本の指でぐにぐにとこねていると小さな声が聞こえた。秋雲の顔を見ればさらに頬が紅潮していた。私は膝のすぐ下まで手を持っていくとグイッと持ち上げた。秋雲の細かった目がビクッと大きく見開いた。私はスケッチブックを横に置き、体勢を変えた。持ち上げた片足を前に寄せて顔を近づけ、目の前の膝小僧を舐める。足がピクリと跳ねた。舌先から甘い味が広がる。私はさらに体を屈めて唇を膝小僧から下へ、脚の付け根へと這わす。チロチロと舌で太腿を味わい続けているとグイッと頭を押された。秋雲の手が私の動きを制しているのだろう。私は空いた手で秋雲の手を掴むと無理矢理引き剥がした。そのまま舌で秋雲の体をなぞる。秋雲が抗議の声をあげるが、無視をして腹を舐めた。高い声が鳴った後、続いて笑い声がした。どうやらくすぐったいようだ。私が脇腹の近くを甘く噛むと肩をバンバンと叩かれる。体も私の責めから逃げようとグイグイ動いていたが私から離れないように押さえつける。しばらく暴れていたが、諦めたのか大人しくなった。私は唇を上へ上へと移動させ、小さな膨らみの上を進み、突起を口に含んだ。固くなった突起を舌でグリグリと弄ぶ。胸がやけるような甘い味と香りに目眩を覚えそうになる。何度か女を抱いた経験はあるが、初めて好きな女を抱いた時のような高揚感を今思い出していた。私は胸から口を離すと秋雲の顔を見た。秋雲は荒い息を吐きながら赤らんだ顔で私を見つめ返している。唇が小さく動いた。提督、と呼ばれた気がして、私は顔を近づけ、服を脱がせる前にしたように、秋雲と唇を重ねた。秋雲の唇はとてもあたたかい。まるで本当に生きているようだ。死んでいるなんて、信じられない。僅かに開いた隙間に舌を差し込む。口内もあたたかかった。己の舌が秋雲のそれに絡みつき何度も何度も熱を確かめる。熱は一向に引く事はなく、益々熱くなっているようだった。その熱が嬉しくて私は、私は、
ペシペシと頬が叩かれた。秋雲の手だ。呼吸が苦しくなったのだろうか、私は秋雲から唇を離した。名残惜しそうに唾液の糸が私の舌先から垂れた。おかしなことに秋雲の顔がゆがんでぼやけている。
「……なーに泣いてんのさ、提督」
秋雲の言葉で、ようやく私は自分が泣いていることに気付いた。秋雲の手が伸びて私の頭を優しく撫でる。
「そんなんじゃ絵なんて描けないよー」
秋雲は上半身を起こすと私の顔に近寄り、目尻を舌で舐めた。溢れる涙と、涙が伝った頬をあたたかな舌が拭っていく。何か言葉をかけようと思ったが喉が詰まって何も言えなかった。
「……提督、秋雲、本当は自分が沈む所を描いて欲しいんだよね~」
私は驚いて秋雲を見た。
「でもそんなの、誰にも頼めないっしょ。でも誰かに秋雲のこと描いて欲しかった。それが提督で良かったよ」
横に置かれたスケッチブックを秋雲は手に取った。パラパラと前のページをめくる。最初の一枚は椅子に座っている着服の秋雲、二枚目からは服が乱れ、ページが進むごとに肌の露出が高くなっていた。絵が下手でも、その程度のことなら第三者の目から見ても分かる、はずだ。秋雲はからかうことも茶化すこともせず、静かに絵を眺めていた。その横顔は穏やかな笑みだった。私も涙がようやく落ち着き、目を強く服の袖で拭った。秋雲に近づき彼女の手からスケッチブックを取り上げる。転がっていた鉛筆も掴んだ。
「……後ろ、後姿を描く」
りょーかい、と言って秋雲は私に背を向けた。私は白紙のページを開き、鉛筆を走らせた。
そうして私は、秋雲を白い空間に何度も描き、何度も体に触れ、何度も彼女の熱を確かめた。
そして、ついに夜が明けた。


雲一つない青空が広がっている。
その空の下、港に立つ瑞鶴は深呼吸をする。心臓の音が緊張で早くなっていた。
「そこに立ってると邪魔なんだけど」
「わっ! ……って、加賀…さんですか」
後ろにいる加賀を見て瑞鶴は眉間を顰めた。はぁ、と加賀は小さく溜息を吐いた。
「久々の実戦で怖いの?やっぱり貴方は出撃しない方がいいんじゃないかしら」
「な!んなことないですし!ただの武者震いですし!」
怒る瑞鶴を見ても加賀は表情一つ変えなかった。そう、と興味なさそうに呟くだけだ。
「瑞鶴落ち着いて…ほら、もう少しで出撃の時間よ」
慌てて二人の傍に来た翔鶴が瑞鶴を宥めた。瑞鶴は頬を膨らませてツンっと横を向いた。
「やれやれ…あの二人は相変わらずだな…」
それを見ていた長門は呆れているような声を出す。
「お前たち、準備はいいか」
長門が振り返ると提督がこちらへ向かって歩いていた。その後ろでは北上が前を歩く木曾のマントの裾を面白そうに持ち上げながら歩いている。
「あぁ、司令官。私はいいぞ。…多分あいつらもいいはずだ」
長門は親指で空母たち三人を指した。
「よし、ではみんな、並んでくれ」
提督の合図で横一列に翔鶴、瑞鶴、加賀、長門、木曾、北上が並んだ。
「本日は北方海域のアルフォンシーノ方面への出撃だ。深海棲艦がまたその辺りに集い始めているとの情報があった。第一艦隊はアルフォンシーノ方面に赴き、深海棲艦を見つけ次第すべて撃滅せよ。旗艦は瑞鶴とする。途中損害が酷ければ直ちに帰投しろ。また、基地へ到着するまでは決して油断するな。慢心せず、注意を払え」
はい、と六人は返事をした。
「そして瑞鶴」
「ふぁ!?な、何ですか」
提督に急に呼ばれて瑞鶴の声が裏返っていた。
「久々の実戦で不安なことはあるかもしれないが、お前もこの基地の大事な主力の一人だ。自信を持て、前を進め。頼んだぞ」
瑞鶴は目を何回もパチパチさせた後、ピシッと姿勢を正してはい!と大きく返事をした。
「加賀と翔鶴は瑞鶴のサポートをお願いする」
「承知しました」
「了解です」
よし、と提督は安心したように頷いた。
「それでは第一艦隊、出撃せよ」


雲一つない青空が広がっていた。
第一艦隊は予定通りに港を発った。艦娘たちは既に水平線の向こうへ消えている。
男が一人、プライベートルームのドアの前に佇んでいた。数十分も何もせずにそこにいたが、意を決したようにドアノブに手をかけた。ドアは難なく開き、男を部屋の中へと招く。男はゆっくりと足を進めた。居間への襖は閉じられており、玄関側は少し薄暗い。男は靴を丁寧に脱ぐと冷たい床の上を歩いた。襖の取っ手に手をかけ、深呼吸をし、開いた。
誰もいなかった。
何の声も聞こえなかった。
男は一人だった。
男はのろのろと窓際にある椅子へと向かった。椅子の上にはスケッチブックが一冊置かれていた。男はそれを手に取り中を開いた。
瑞鶴がいた。男が港で見送ってきた、瑞鶴がいた。久々の実戦に瑞鶴は小さな不安を抱いていたが、いざ出撃した時の彼女の背中は熟練の艦娘と変わらぬ、頼もしく力強いものであった。
その絵を見ながら、男は静かに涙を流した。


「翔鶴姉、早く早く」
瑞鶴は後ろで不安そうに歩く翔鶴に声をかけた。
「待って瑞鶴…あの、本当に大丈夫なの?ここに来ても…」
「大丈夫だって!だって提督さんが瑞鶴たちを呼んだんじゃん。来いってさ」
「そ、それはそうだけど…」
瑞鶴は大きく溜息を吐くと翔鶴の手を取った。
「いいからいいから、ほら行くよ!」
「あ、もぅ瑞鶴ってば!」
煮え切らない翔鶴の手を引っ張り瑞鶴は先へドンドン進んだ。基地で比較的新参者の瑞鶴にとってこの通路の先にある部屋に行くのは二回目だったが、翔鶴や他のほとんどの艦娘はこの建物自体に足を踏み入れたことがなかった。建物の存在は誰もが知っていたが、ある意味ここを訪れることは禁止にされていたからだ。この建物の最上階には提督のプライベートルームがあるのだが、提督はその部屋に自分以外の者が立ち入ることを酷く嫌っていた。緊急事態があれば携帯への連絡を徹底し、部屋を訪れることを許していなかった。提督に猛烈にラブアピールしていた艦娘さえ、押しかけ女房のように提督のプライベートルームに行くことは躊躇うほどだ。そんなことをしてしまったら最後、解体でも近代化改修の餌にでもされかねなかったからだ。しかし、つい昨日提督は瑞鶴と翔鶴に都合が悪くなければそのプライベートルームに来て欲しい、とお願いしたのだ。
「そう心配することないと思うよ。提督さん、最近はすっごく丸くなってるし」
瑞鶴の言葉通り、提督は変わった。サブ島沖海域で連絡が途絶えた艦娘たちの捜索隊が無事に彼女たちを見つけ帰投した後から、提督は瑞鶴の謹慎を解いた。それから瑞鶴を演習に参加させるようになった。先日は久々に海域へ出撃し、深海棲艦たちを蹴散らすことも出来た。装備も強いものを与えられ、瑞鶴は強くなる機会を取り戻したのだ。それに、ビジネスライクを思わせる提督の艦娘への接し方が前より穏やかなものへと変わった。ただしやはり、分かり易くラブアピールをする艦娘には全く隙を見せることはなかった。そういうおカタい所がいいのデース、なんてまた別の意味で火がついたようだが。
「でも何の用かしら……この間の出撃は深遠部まで行ってもみんなほぼ無傷で帰還できたのに…」
「さぁ…でも瑞鶴たちに関係あることを話すんじゃないかな。……色々と、さ」
提督は瑞鶴に寮外に出ることを禁止にした理由を未だに語らなかった。もちろん翔鶴にもだ。今までの非礼の謝罪しか聞いていない。
「その話だといいんだけどなぁ……あ、見えたよ、あの部屋だ」
二人はプライベートルームの前まで来た。ドアの右側には名札が貼ってあり、左側にはインターホンが設置されていた。そういえば、前にここに来た時は興奮していたからインターホンが目に入っていなかった。無遠慮にドアを叩いてしまったことを思い出し、瑞鶴は申し訳ない気分になった。気を取り直してインターホンを押そうとした時、瑞鶴は妙な違和感に気付いた。
「瑞鶴?どうしたの?」
「あ、いや、何か足りないなと思って…」
「足りない?何が?」
「うーん……なんだろ、ま、いいや」
瑞鶴がボタンを押すとピンポーンと機械音が鳴った。数秒ほど待つとガチャリとドアが開いた。
「瑞鶴、翔鶴、よく来たな」
「お、おはようございます…!」
目の前に現れた提督に、二人は頭を下げて挨拶をした。上からおはよう、と低い声が返って来た。
「来てくれてありがとう。さぁ、入ってくれ」
瑞鶴と翔鶴は恐る恐る部屋の中へと足を踏み出した。
「お邪魔します…」
提督のプライベートルームはとても質素なものだった。キッチンも綺麗に片付いており、汚いところはない。居間も本棚にギッシリ本が並んである以外、乱雑になっていなかった。ただ、窓から見た景色がとても綺麗であった。最上階であるこの部屋からは水平線も港も演習場も見渡せた。今日のように天気の良い日は、最高の眺めであった。瑞鶴と翔鶴が窓の景色を堪能していると後ろから二人の名を呼ぶ声がした。振り返ると提督が赤色のスケッチブックを差し出していた。近くにいた瑞鶴が受け取り、中を開いた。
「わっ すご…」
スケッチブックには多くの艦娘や基地の景色、そして深海棲艦の絵が描かれていた。どの絵も今にも動き出しそうなほど躍動感に溢れたものだった。
「ね、ねぇこれ!翔鶴姉だよね」
何十枚かめくった後に翔鶴のページが現れた。演習中の翔鶴を描いたもので、普段と違う真剣な表情に瑞鶴は目を奪われた。
「すごいなーかっこいいね、翔鶴姉」
翔鶴を見ると、その目が驚きで見開かれていた。自分の絵に驚いているというよりも、もっと別のことに目を奪われているような、そんな驚き方だった。
「確か瑞鶴の絵は数ページ先にあったはずだ」
「え?!本当?」
瑞鶴は急いでページをめくった。すると目当てのものが目の前に現れた。
「わぁ……」
瑞鶴はただ感嘆するしかなかった。先ほどみた翔鶴と違って動きのない絵だったが、その力強いタッチに瑞鶴の体は震えた。その震えには覚えがあった。そう、久々に出撃した時に感じたあの震え。
「それは先日描かれたものだ。瑞鶴の久しぶりの出撃の日に」
「すごい…!提督さんって絵の趣味あったんだね」
提督は頭を横に振った。
「これは私が描いたものではないんだ」
「え?じゃあ誰が描いたの?」
瑞鶴は頭をあげて提督を見た。提督は、フッと静かに笑った。その笑顔が何処か寂しそうに見えて、瑞鶴はドキリとした。
「絵を描くのが得意なやつがいたんだ…彼女は、瑞鶴と翔鶴を描きたいとよく言っていた。ついにその夢を叶えることができたんだ」
「あれ、そんな子いたんだ…?」 
瑞鶴は首を傾げた。瑞鶴はこの基地にいる艦娘全員とは顔を合わせた記憶があるが、誰からもそういった話を聞いたことがなかった。
「瑞鶴、その子にお礼言いたいな。こんなにかっこいい翔鶴姉と瑞鶴見れたもの!」
提督は再び頭を振った。
「…すまない、彼女はもうここにはいないんだ」
「え?!そ、そうなの?なんだ、いないのか…」
残念だね翔鶴姉、と声をかけようとして隣を見ると、翔鶴の表情は相変わらず険しかった。何が翔鶴をそこまで驚かせているのか、瑞鶴は不思議で仕方なかった。
「…翔鶴姉?どうしたの?」
「あ、……ううん、何でもない。何でもないわ」
翔鶴は瑞鶴に笑いかけると提督に顔を向けた。
「その人はもう、ここには戻って来ないのでしょうか」
「そうだな、きっと」
「そう、ですか…」
翔鶴と提督は黙り込んだ。二人の間に妙な沈黙が流れる。まるで二人だけは通じ合っているような、そんな沈黙。その沈黙に段々瑞鶴は居心地の悪さを感じ始めた。
「そういえば」
先に沈黙を破ったのは提督だった。
「賞状と勲章は受け取ることにした」
賞状と勲章?瑞鶴には何の話か全く分からなかったが、翔鶴が嬉しそうに声を上げた。
「提督、本当ですか?」
「あぁ。何となく吹っ切れてな、頑なに跳ね除けなくてもいいかもしれないと思い始めたんだ。これで友人の小言からも解放されるが…… 戦ったのは私ではなく艦娘たちなのに、私の名で授与されるのが申し訳ない」
「私たち艦娘は貴方の下にいたからこそ周りから称えられるような戦果を残せたのです。私たちのことは気にせず、貴方が受け取ってください、提督」
「翔鶴……ありがとう」
先ほどよりもさらに濃厚な二人の空間に瑞鶴は気圧されていた。提督と翔鶴を交互に何度も見遣り、あー!と急に声を出した。二人は驚いて瑞鶴を見る。
「ちょっと!賞状とか勲章とか何の話?!あとスケッチブックも!結局誰が描いたのよー!瑞鶴を置いて二人の世界を作らないで!」
「ご、ごめんなさい瑞鶴…そういうつもりじゃなかったんだけど…」
翔鶴はおろおろしながら瑞鶴を宥めた。
「っていうか!提督さんはどうして瑞鶴を外出禁止にしたの?瑞鶴何かやらかしたの?」 
瑞鶴は一番の疑問を提督にぶつけた。提督は申し訳なさそうに眉間を歪める。
「すまない瑞鶴。お前を閉じ込めた理由だが…聞かないで貰えるか?君にはとても悪い事をしたと思っている。しかし私はその理由を告げることはできない。少なくとも、まだ今は」
瑞鶴は提督を見つめる。提督は目を逸らさなかった。瑞鶴には提督が何を考えているのかが全く読み取れなかった。しかし、瑞鶴に外出禁止を言い渡した時よりも、優しい目をしている気がした。
「……分かった。じゃあ聞きません」
渋々瑞鶴がそう言うと、提督が安心したように笑った。
「ありがとう、瑞鶴」
ドキリと、また瑞鶴の胸が疼いた。ビジネスライクの笑顔とは違う、何処か純朴な笑顔だった。
「ところで、この後は二人は予定はあるのか?」
「いえ、何もありませんが」
翔鶴が答えると、提督がそうか、と呟いた。
「昼が近いが、一緒に食べないか?カレーを作ってあるんだ」
「えっ えぇ!?」
瑞鶴は提督の誘いに驚きを隠せなかった。艦娘と距離を置いて接してきた提督が自らその艦娘を食事に誘うのだ。提督が以前と変わってきていることは感じていたが、ここまでその変化が影響しているのかと瑞鶴はある意味感心していた。
「久々にこの部屋で誰かと一緒に食べたくなったんだ。間宮の料理がいいなら、無理に付き合わなくてもいいが」
「えっと、瑞鶴はいいけど…翔鶴姉も大丈夫だよね?」
翔鶴はえぇ、と頷いた。
「是非、ご一緒させてください」
二人の返答を聞いて提督はちゃぶ台を指差した。
「ならゆっくりしていてくれ。準備してくる」
「何かお手伝いできることがあればやりますが」
「翔鶴も気遣わなくていい。あぁ、本棚にあるものは読んでいて構わない。他のスケッチブックもあるから見るといい」
提督はそう言うとキッチンの方へ消えていった。瑞鶴は翔鶴と顔を見合わせた。
「えぇっと…じゃあ、ゆっくりしましょうか、瑞鶴」
「うん…あ、他のスケッチブックも見たい」
瑞鶴は本棚の方へ行くとスケッチブックを探した。上から四段目の棚にスケッチブックが並んでいた。青、赤、黄色、緑――――――様々な色の表紙だった。
「黒はないんだ…」
瑞鶴は適当に四冊ほど取ってちゃぶ台に戻った。座布団に座って待っていた翔鶴の前にスケッチブックを置く。
「あ、ねぇ翔鶴姉はこの絵を描いた人のこと知ってるの?」
「え?どうして?」
「いや…何か知ってそうだったから」
翔鶴は困ったように笑った。
「…思い当たる人はいるけど…私の勘違いかもしれないから。それに提督は話したくないようだから、私も話さないわ」
「話したくないって…それって瑞鶴を閉じ込めた理由だけじゃないの?」
「もしかしたらそれに関係する人かもしれないから、ね」
翔鶴の話は腑に落ちなかったが、瑞鶴はそれで納得するしかなかった。仲間外れにされた気分だが、二人とも話す気がないから深く問い詰めるのも気が引けた。
「……じゃあさ、賞状とかの話は?」
「南方海域まで行けるようになったでしょう?それの表彰よ」
「そうなんだ…って、何で翔鶴姉が知ってるの?」
「提督のお知り合いの議員の人が話してくれたのよ」
「ふーん…」
外出禁止を命じられている間、翔鶴以外の艦娘との交流もあまりなかった。会話までは禁止されていなかったが、理由が不明なのと提督の態度に周りは瑞鶴とどう接していいのか分からなくなっていたらしい。寮外に出ることを禁止されている瑞鶴に外の話をすることで瑞鶴を傷つけるのではないか、と心配していたことを他の艦娘から聞いた。謹慎を解除されてからは艦娘たちは色んな話を瑞鶴にしてくれた。あの加賀でさえ、演習場では瑞鶴の面倒を見たり海域ではフォローをしてくれた。提督の命令もあったからだろうが、何となく加賀の優しさも感じないこともなかった。そうやって周りが瑞鶴との距離を埋めようとしていたしそれを嬉しくも思っていたが、やはり、寂しさは拭えなかった。
瑞鶴はスケッチブックを一冊取って中を開いた。先ほど翔鶴と一緒に見た物に描かれていなかった艦娘がいた。遊んでいる所や寝ている所、ご飯を食べている所など、日常的な場面が多く描かれていた。間宮が料理を作っている絵もあった。仕事中の提督もいた。そこには瑞鶴の知らない光景ばかり描かれていた。
「カレーが出来たぞ。上を片付けてくれ」
提督の声が聞こえ、瑞鶴と翔鶴はちゃぶ台に置いていたスケッチブックを床に置いた。提督はトレイにカレーを二皿乗せて運んできた。カレーの良い香りが鼻の奥を擽り、口の中で涎がじわりと溢れる。提督は瑞鶴と翔鶴の前にカレーを置くとまたキッチンの方へ行った。美味しそうなカレーを前にしてぐぅ、と小さな音が瑞鶴の腹から鳴った。恥ずかしそうに顔を赤らめる瑞鶴を見て翔鶴は小さく笑う。
「笑わないでよ翔鶴姉!」
「ごめんなさい怒らないで…ふふ」
提督が片手にカレー、片手にスプーンを三つ持って戻って来た。ちゃぶ台の前に座るとスプーンを二つ、瑞鶴と翔鶴に渡した。
「待たせたな、じゃあ食べよう」
提督は手を合わせた。瑞鶴と翔鶴もそれに倣う。瑞鶴は手を合わせながら、絵描きの人がいたらこの場面も描いてくれただろうか、と考えた。瑞鶴はまだ色んな事を知らない。絵描きの人が知っている景色のほとんどをまだ直接見た事がない。それはとても寂しいことではあるけれども、これから自分自身の目で見ていけばいいのだ。きっとそこには絵描きの人が知っている景色も、知らない景色もあるだろう。
けれども、今は、この食事を楽しむのが先だ。
「いただきます」
三人の声が重なった。
今日は金曜日、カレー日和だ。
 

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最終更新:2013年12月19日 20:49