提督×長門4-173

 提督のいない鎮守府は、静かだ。
だが、かれが遠洋に出撃しているがゆえの不在の静かさと、“いない”ゆえの空席の空しさは、
どう思いを馳せてみても違う。
鎮守府筆頭が空席となる理由は、これまた様々である。
いわゆる帝国海軍における人事によるもの、提督が何らかの理由により円満な退役を見たもの。
このふたつのいずれかであれば、艦娘たちは程度の差こそあれど、去った提督を惜しみ、新たな提督を心待ちにする。
今までに何人もの提督が鎮守府に赴任してきたが、どうしても“現在”の提督が一番愛しく思えてしまうようなのだ。
しかしながら、今鎮守府にのさばる沈黙の重たさは、先に述べた状況のどちらでもない。

『提督はボラボラの浅瀬で、紅珊瑚のトナカイの夢をみておられますよ』

高雄が──満身創痍で、唯一南洋から帰還してきた高雄が、年若い妹というべき駆逐艦たちに、
たった一滴の涙を見せて、そう言い聞かせていた。
高雄は提督の秘書で、座乗艦だった。その、南洋に赴く日に限って、かれは、高雄に乗らなかった。
大事な同輩と、愛する男を南の海の底に置いて、それでもたったひとりで高雄は、鎮守府に帰ってきた。
長門の胸中に沸きあがるのは、あれだけ艦娘をとりこにしておきながら、
あっさりくたばった提督への、嫉妬にも似た怒りの念だ。
墓があったら眼前にはったと正座して、明けてから暮れるまで、もの言わぬ石に延々と説教を垂れていただろう。
死は絶対だ。死は不可逆だ。戦場に散り靖国に咲くのが武人の誉れだというならば、
恥を晒しても生きて帰ってくるのはせめて──せめて、男の甲斐性とかそういうたぐいのものではないのか。
憤懣やるかたない長門の足元で、ぱきりと小枝が折れた。
その時だった。
幾分か上擦った、本職の海の男たちにはだいぶ頼りない、耳慣れた五省を唱和する声。
鎮守府にいるのは、提督を始めとする本職の軍人だけに留まらない。
事務屋もいれば、酒保の店員もおり、珍妙な猫もたまにうろついていたりする。
長門!と呼びかける声は、唱和の声に明るく重なった。入渠を終えた金剛がそこにいて、こちらへ手を振っている。
傍らで学び舎の窓を見上げているのは、やはり入渠を終えた比叡だ。

「江田島の士官候補生デース! 未来の提督たちネ!」
「実地学習、だそうです。みな、一度は実際の艦を見て、自らがすべき職掌の重みを体感せよ、とかで」

鎮守府にあまり覚えない、そのものずばり若い娘の声に注意を引かれたと見えて、ひょこりと白い制帽が窓から覗く。
するとたちまち、そこは士官候補生たちが、我も我もと鈴なりの有様になった。
金剛は気安く笑顔で、諸手を挙げてそれに応えた。比叡は比叡で、そんな彼女を微笑ましく見つめている。

「──長門!」

そして、今にも落っこちそうなほど窓から身を乗り出した少年──まだ少年にしか見えない
“未来の提督”の声が、まっすぐに長門の鼓膜を打った。
勢い余って、その頭から制帽が落ちる。晴れた空に花弁のようにくるくると舞って、
楽しげにスウィングして、果たしてそれは──推し量ったごとく、過たず長門の胸に、ぱすんとぶつかった。

「長門! ナイスキャッチー!」
「……ちょっと、金剛ねえさま! 少しはものの言い方を──」
「比ー叡ー、ワタシを誰だと思ってるノ? 英国で生まれた帰国子女! 超弩級戦艦! 金剛デース!」
「もう、ねえさまったら!」

制帽を落っことした粗忽者は、それでも笑顔で、三人の艦娘に手を振っている。
鬼より怖いと認められる教官も、提督が不在の今、艦娘たちに『遊んでおらんで仕事をせえ』とは言いづらいのだろう。
なんとも微妙な、苦しょっぱいような顔で、教卓付近の窓から顔を出している。
長門もまた、不安なような、それでいて期待に似ているような、教官の心中とだいぶ通じるところのある心持で、
未だに手を振る少年を見上げていた。
鎮守府が、新しい提督を迎える日も近いだろう。一月や二月ではないかもしれないが、年単位ではないに違いない。
それまできっと艦娘たちは、本物の人間の娘たちを真似て繕い物に精を出してみたり、
ぼんやり海を眺めたり、まだ見ぬ提督に思いを馳せたりして──過ごすのだろう。
その、いずれ来たる提督が、自分を座乗艦に──秘書艦に──ひいては最愛の思い人にしてくれることを、待ち望みながら。

新たに鎮守府に着任した提督は、痩せっぽちの洟垂れ小僧だった。
黒縁眼鏡。生えたのだか生えてないのだか、たまにまばらな無精髭。
“着られている感”がありありな白の詰襟。敬礼は、今までの提督たちと引き比べても、全くのどへたくそ。
洗練されてもおらず、江田島でどうにか作られてしまった濫造提督、というべきありさま。
煙草は嗜まない。酒は猪口の糸尻の量を啜る程度。食も細い。夜になると少し咳き込む癖。
ほとんど雪山のような高地で療養したこともあったんだよと聞かされて、
身の寒くなる思いをした艦娘もあったが、寛解したと笑顔で断言されては追及もままならぬ。
そして、あろうことかその新米提督は、長門を秘書兼座乗艦に選んだ。
気安いわけでもなければ扱いが容易いわけでもない、ウォーシップという呼び名そのものを体現したような長門を。

「ああ、長門それから」
「……なんだ」

そして、あろうことか彼は──いつのまにか少年から青年へと成長した提督は、ある夜、長門にこう告げた。

「きみに、──きみに夜伽を命ずる。本日フタイチマルマルで執務室に出頭するように」

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最終更新:2013年11月13日 02:30