最上3-493

清々しい朝。開かれた窓の外に見える鎮守府近海は穏やかで、カモメの声さえ届く。
淹れたてのコーヒーを嗜みながら、僕が青葉が刷ったばかりの朝刊を読んでいると――

「提督! おはよう!」

ノックも無しに元気良く扉を開いて、我が艦隊の秘書艦娘、最上が現れた。
「おっこれは……う~ん、いい匂い! 提督、何それコーヒー?」
部屋に入って敬礼も早々、最上は鼻をくんくん利かせて、僕のカップを指差す。
「あぁ、そうだ。最上も飲むか」
「えー、いや、まあ……僕はいいや。匂いだけで」
「苦くて嫌いなんだよな?」
「そんなコト無いよぉ。お風呂上りにいつも飲んでるし」
最上は腰に手を当てて、右手をくいっと口元で傾けて見せた。
「コーヒー牛乳だろそれは」
「絶対にコーヒー牛乳のが美味しいもんねー。間宮さんのは絶品なんだよ?」
「いつまでもお子様だと、駆逐艦娘どもにバカにされるぞ」
「なっ、余計なお世話だよ!」
最上は口を尖らせて、べぇっと小さく舌を出した。
正直このお友達感覚……もう少しどうにかならないものかと思ってはいる。
僕は黙ってコーヒーをもう一口。
「……で、それで? 提督、今日はどうするの?」
その一瞬で、最上はもう気持ちを切り替えていた。
これから始まる一日に思いを馳せ、にっと歯を見せて笑う。
この切り替えの早さや、さばけた雰囲気が、僕が彼女を秘書艦娘に指名している理由だ。
「えっと、第4艦隊はまず補給だね。そうしたら、深海棲艦の動きが活発な方面で偵察かな」
作戦の立案補助能力や、部隊への配慮も上々だし、
「この前ドックで衝突しかけちゃってさあ……あそこの角、ミラーがいるよ。まったく」
そそっかしい彼女が時折挟む他愛のない会話も、僕にとっては重要な情報源だった。

――でも。僕は一つだけ気にしていることがある。

「う~ん、そうだな……」
僕は資料やらを情報やらを最上から手渡されると、いつもあれやこれやと考えを巡らせる。、
当然その間、最上は手持ち無沙汰だ。はじめこそ、まっすぐに立って僕の様子を伺っているが、
しばらくすると癖毛をいじったり、つま先をとんとん鳴らしたり、暇そうにし始める。
「ソファ、座ってていいぞ」
「ん? いや、別にいいや」
「じゃ楽にしてろ。まだかかる」
「イエッサ~」
最上も邪魔する素振りは見せない。自分がこの鎮守府で戦闘に参加する以上、この僕の決定が
いかに重要なことか、彼女なりに理解しているのだろう。
そうして最上はいつも決まって窓の方へと向かうと、窓枠に手を突いて外を眺め始める。
開け放たれた窓から吹き込む涼しい朝の風が、栗色の髪をさあっと揺らす。
言動も服装も髪型も、どこか少年らしい最上だったが、こうやって窓の外を眺めている横顔に、
僕は最上の中に確実に存在する『少女』を意識せずにはいられない。
きっと結ばれた口元や長いまつ毛、キュロットからすっと伸びる健康そうな脚。
窓の外のに広がる果てない海を見つめるくりっとした瞳も、艦娘らしい不思議な憂いを湛えている。

――でもね?

ぐい、ぐいぐいっ。

しばらくすると最上は、決まって爪先立ちになって、窓の縁に押し付け始めるんです。

えぇ、その、キュロットの。はい。正面の。

……股の辺りを。

最上は、別にそれをしているからと言ってヘンな声を出したりするわけじゃない。
表情一つ変わらない。ただ一心に窓の外へと気持ちを傾けているはずだ。なのに――
ぎゅっ。ぎゅ。
最上は質素な窓の木枠に対し、股の辺りで全体重を預けている。
キュロットに隠された小さなお尻が時折、何かを探るように左右に揺れる。

――絶対無意識なんだよな、アレ。

僕は別にそれに対して邪心を抱いたりしない。まだ子供の、少女になりかけの艦娘がひとり、
何だか良く分からないうちに何だかイイキモチー? になっているだけなわけで。
僕は結局今日も注意することも出来ないまま作戦をまとめると、ふうっとため息をついた。
それが僕の合図だ。
最上は待ってましたとばかりにこちらをくるっと振り向き、とととっと笑顔で僕の方に
近づいてきて、執務机の角に勢い良く両手を突き――

あろうことかですよ、はい。そうなんです。

ぎゅーっ。

そのままの勢いで、執務机の角っこに、ぎゅぎゅぎゅ~っと押し付けるんです。
ええ、キュロットの。はい。正面の。

……オンナノコの、大事な辺りを。

「提督ッ、決まった?」

そしてそのまま、押し付けた股間を支点にして、やじろべえみたいにバランスを取って
僕に身を乗り出してくるんです。
「あ、あぁ……。だいたい最上が考えてくれた通りだ、まずは――」
聞く体勢はどうあれ、最上は真面目に僕の話に耳を傾ける。指示を二度聞き返すこともない。
最上はしっかり、秘書艦娘としての責務を果たしているのだ。

股間をぐりぐりと机の角っこに押し付けて、小さくお尻を揺らしながら。

「それじゃ提督、僕は先に作戦室で準備してるから。5分後に集合だよ?」
一通りの説明を聞くと、最上は資料を脇に挟んで足早にドアへと向かう。
そしてくるっとコマのようにこちらを振り向き、小さくウィンクして敬礼した。
「今日も僕、頑張るからね! 提督も頑張ろっ?」
ドアが閉じられて、残されたのは僕一人。
最上は部屋に長居するわけでもなく、僕に特別懐いているでもなく……。
ちょうど良い距離感を保って、僕と最上は互いの任務を果たしていると思う。
僕は冷めたコーヒーを飲み干して立ち上がり、さっきまで最上が身を預けていた執務机の角を撫でた。
まだ、ぬくもりが残っているような気がして、小さな罪悪感と虚しさ感じたが、それもそこまでだ。

――そのうち、やらなくなるだろな。

僕はちょっとだけ笑うと帽子を被り直し、最上たちの待つ作戦室へと向かった。


===============

~鎮守府 ヒトフタゴーマル~

昼食を終え、青空の中天から、陽がまっすぐに降り注ぐ時間。
誰かが聞いているのだろう。古く歪んだクラシックのレコードが、穏やかな潮風に乗って聞こえてくる。
戦時、それも軍施設の中とは思えない、ゆったりまったりした鎮守府の昼下がり。
その柔らかな空気は、提督の執務室も例外ではない。
夏が過ぎ、真昼でも過ごしやすいこの季節だ。扇風機もエアコンも、とうにお役御免。
執務机の灰皿から立ち上る紫煙も、天女の羽衣のようにすぅっ……と天井へと消えていく。
誰にも邪魔されることの無い、何にも変えがたい至福の時間だが――

バーン!

何の遠慮も無しに、木製のドアが豪快な音を立てて開け放たれた。
「提督ー! 起床おぉーッ!」
暢気な空気をブチ破る、秘書艦娘・最上の大声が部屋中に響き渡る。しかし、
「んっがー んっごー」
提督は帽子で顔を隠し、机に脚を投げ出して高いびきだ。

「起床ー! 起床きしょうキッショー! ぱっぱらっぱらっぱらっぱぱっぱらー♪」

だが最上も負けていない。両手でメガホンを作り、起床ラッパの口真似をしながら提督の
すぐ耳元で騒ぎ散らす。
「はがぁ~……許せ、あとゴフン……」
ようやく気づいたのだろうが、帽子の下から聞こえる声は夢うつつだ。
「何ノンキな事言ってるんだい提督! あと10分でヒトサンマルマルだぞ!?」
「ほわあぁぁ~……むにむに……」
「今日はこの後、お偉いさん達が会議に来るって言ってたじゃないか!」
「ん~? あと10分……あるんらろ……? いいじゃん……ぐぅ……」
「駄ぁ目っ!」
最上は提督の顔を覆っていた帽子をかっぱらうと、自分の頭の上にひょいと載せた。
白昼の眩しさに晒され、提督の眉間がぎゅーっと寄せられる。しかしそれでも起きない。
「ったくー、いーっつもこれなんだから……」
文句を垂れながらも、最上は少しだけ微笑む。
そして、食堂から持ってきていたキンキンに冷えたお絞りを提督の顔の上に広げた。
「ほらほら! シャキっとしてよ提督!」
そして乱暴な勢いで、ぐわしぐわしと脂っぽい顔をすっかりふき取ってやる。
「んが……ふわ~あぁ」
ここまでやって、ようやく提督の目覚めは半分。なおも寝ぼけ眼な状態である。
「提督、机から脚下ろして」
「あー」
「こっち向けて」
「んー」
寝ぼけている提督は、秘書艦娘――最上の言いなりだ。
背もたれつきの立派な回転椅子をくるんと半回転させ、ブーツを最上のほうに向ける。
「身支度ぐらい、自分で出来るようになってよ……ったく」
最上は腕をまくると、キュロットのポケットから布きれと靴墨、それからブラシを取り出し、
ブーツをピカピカに磨き上げる。
執務室の壁掛けの時計は、ヒトフタゴーサン。
――おっ、いいタイムじゃない? 僕。

「はい、立ってー?」
「むー」
「襟正して、ボタン掛けてー?」
「はー」
「タバコいっぷくー?」
「すぱー」
「コーヒーひとくちー?」
「ごくー」
ここでようやく、最上は腕組みをして、目の前にもっそり立っている我らが提督の姿を
つま先から頭のてっぺんまで確認する。
「靴よし、服よし、顔……まあよし」
最上はふんっと鼻息を荒くして笑うと、背伸びして提督の頭に帽子を返した。
「よし! 提督、完成! 至急、会議室に出撃されたし!」
「ふわあ~あぁ、ありがと、もがみん……『大将』……」
あくびまじりの提督は最上の顔を半開きの目でちらっと見て、気の抜けた敬礼をする。
「『大将』って何さ。僕は重巡洋艦、も・が・み、だよ!」
意味の分からない二つ名をつけられ、最上はぶすっとしながら敬礼を返す。
「ちゃんと名前を呼んでよね。僕まで笑われるだろ?」
「はいはい……んじゃ、後よろしくな……」
おぼつかない足取りで廊下を歩いていく提督の後姿に向かって、最上は火打石を振るう。
「提督、ちゃんと話し合ってよね? 途中で寝たりしたら、僕怒っちゃうぞ?」
提督はふらふらしながら背中越しに右手を振ると、階段の方へと消えていった。
「相っ変わらず世話が焼けるんだから、ホントに……」
自分以外誰もいなくなった執務室前の廊下で、最上はふうっとため息をつく。
そうは言いつつも、最上は提督の秘書という役割が気に入っていた。普段、特に寝起きは
あんな感じだが、提督はああ見えて一応は提督になるだけの軍人である。
最上は執務室に戻り、建屋の正面玄関が見える窓から身を乗り出し、下を覗き込む。
――あ、来た。
見れば、黒塗りの高級車が既に停車しており、そこから数人の将校がぞろぞろと敷地内に
歩いてきたところだった。我らが提督も玄関から現れ、先ほどとは別人のような
きりっとした足取りと敬礼でもって迎え入れる。
最上は窓辺に押し付けた股の辺りで身体のバランスを取りながら――そうしているのが
何だか最上は好きなのだ――足をぶらぶらさせ、提督の姿が会議室のある建屋に消えるのを見届けた。

ボォン……。

執務室の柱時計が、ぴったりヒトサンマルマルを告げる。
「ふー……」
この執務室に押しかけて、ここまでたったの10分だ。
しかし、何より大きな仕事をやり遂げたような不思議な充足感が、最上の心を満たす。
自分達のリーダーのいちばん近くで仕事が出来る光栄さもあるし、鎮守府全体と海までを
一望できるこの窓を独り占めできるのも、最上は好きだった。
今頃は、駆逐艦娘で賑やかな第四艦隊が製油所地帯海域の偵察を終え、この穏やかな鎮守府へ
針路を取っている頃だろう。
――今日も、明日も……平和が続くと良いけどな。
それだと艦娘の自分は仕事が無くなってしまうし、事実、到底無理なお話だ。
しかし、だからこそ最上は思うのだ。
雨でも、風でも、毎日こうしてこの風景を見続けられるなら、
提督や仲間の艦娘たちと一緒に鎮守府で過ごしてける日が続くなら、そして――

――誰一人欠けることなく、少しでも長く、みんなと過ごせたなら良いな。

コン、コン。
「最上ちゃん、最上ちゃん?」

開け放たれたままの執務室のドアが控え目に叩かれ、最上は背中越しに振り向いた。
ドアの陰で、短めの黒髪をサイドに纏めた艦娘が、小さく手を振っている。
「あっ、長良!」
「司令官、会議行った?」
最上は頷きながら、こちらの様子を伺っていた長良を手招きした。
「大丈夫だって。僕しかいないから。コホン……君、入りたまえ」
長良はくすくす笑いながら、執務室のドアをくぐった。
「ウチの司令官、そんなじゃないし……って……? プッ、ククク……!」
最初は最上の真似事で笑っていたであろう長良が、最上の顔を間近で見るや、今度は
口を押さえて噴き出してしまった。
「ん? 長良、どうかしたの?」
「だって……ハハハ! 最上ちゃんの、その顔! ホントに司令官ごっこするつもり?」
「はあ!? 顔……って」
黒のサイドテールを揺らして笑う長良に指摘され、最上は慌てて窓ガラスに自分の顔を映す。
「あーっ!」
最上の鼻の下には、真っ黒なひげが横一文字に描かれていた。
見れば、両手が靴墨で真っ黒だ。
――もしかして、さっきの『もがみん大将』って……ぐぬぬぬ!
「んもーっ、提督! 気づいてたなんて! 僕、本気で怒ったかんねー!」
悔しさと恥ずかしさがない交ぜになって、最上はぶんぶん拳を振り回した。
「アハハ。でも最上ちゃん、結構似合ってるよ?」
「あーっ、何? 長良までそんなこと言うの?」
「じょ、冗談だよ、冗談!」
思い切り頬を膨らませた最上に、長良もたじたじ、苦笑いで話題を変える。
「そ、それよりさ。午後、時間は大丈夫?」
「そりゃあ、もっちろんさ!」
提督の顔を拭いたばかりのタオルで自分の顔もごしごし拭きながら、最上がぱあっと
笑顔を見せた。
「走り込みでしょ? 行こう行こう! 第四艦隊が帰ってくる前に!」
「よしきたあ!」
長良はぐっとガッツポーズを見せ、こちらもにっこりと笑う。
「あ、でも長良、その前にさ」
「え?」
「ちょーっと掃除、手伝って」
バツ悪そうに最上が指差すその先には、真っ黒な指紋でべっとり汚れた窓枠があった。

~鎮守府 営舎前 ヒトサンサンマル~

「さぁーって、今日もコンディション最高! ひとっ走りいきますかあ!」
長良はぎゅっとハチマキを締めなおすと、手足の関節を入念にほぐしていく。
長良は袖の無い紅白のセーラー服に膝上丈の赤袴、それにニーソックスという、いつも通りの
服装のままだ。しかし艤装を解いたその姿は、艦娘たちの中でも一際陸上で運動するのに
適している服装だといえそうだった。ただ一点違うとすれば、腰の後ろにドラム缶を模した
水筒がくくりつけられているということだった。
「気合が入っているねえ、長良。よーし、僕も負けないよ」
ぐいぐいと腰を捻って体操する最上は、エンジ色のセーラー服の上着だけを脱いで、
白のタンクトップとキュロットという軽い出で立ちだ。長良の走りこみに付き合うときは、
いつもこの格好だった。
「ま、航続距離なら僕に軍配が上がるからね?」
「瞬発力だったら、長良の脚にだって分がありますから!」
準備体操をする二人は笑顔だったが、内心は本気だ。
負けず嫌いの艦娘の目線が、照明弾を思わせるほどの火花を散らす。
「がんばれー ふたりともー」
「お昼ごはんのすぐ後だってのに、よくやるよねー」
営舎で休んでいる非番の艦娘たちも、二人の走りには興味しんしんだ。
いつの間にやら、営舎の窓には見慣れた顔が幾つも並んでいた。
計らずも観客を背負った最上は、自分の中のエンジンがごうんと力強く動いたのを感じた。
横に並んだ長良も同じのようだ。その場で小さくぴょんぴょんと跳ねるたび、表情が
リラックスという名の深い集中に満ち溢れていく。
「ふたりともー いいー?」
待ち切れなさそうな営舎の二階からの声に、最上と長良は手を振って――

「よーい どん!」

背中から聞こえたスタートの合図と同時に、二人は秋の爽やかな風となって走り始めた。
「おっ先にぃ!」
先手を打ったのは長良だ。滑るように加速していく背中を見て、最上はにやりとする。
――どうやらコンディション最高っていうのは、嘘じゃないみたいだね。
こうやって長良と走るようになったのはいつからだろうか。もう良く覚えてはいないが、
最上は長良と何かとウマがあった。提督が居ないときなどは食事を一緒にとることも多いし、
他の艦娘に比べてオンナノコオンナノコしていないところが、最上には何だか安心だった。
それに何より、長良の快活で裏表の無い性格や、朝昼晩と欠かさず走り込みを続ける実直さと
体力を、最上は尊敬していた。
作戦中の素早い動きや、波間を縫って深海棲艦に肉薄する姿は、持ち前の勇敢さと日ごろの
鍛錬による自信の賜物に違いない。
――僕が提督だったら、長良を秘書にしたいなあ。
そんな事を思いながら、最上も腕を振る力を強め、長良の背中に追いすがり……そして並ぶ。
「いきなりそんなに飛ばして……。大丈夫なのかい?」
「最上ちゃんこそ、長柄の脚に着いてこれる?」
鎮守府の外周を大きく回るランニングコースにも、秋が来ているようだった。夏は吸い込む
だけで火傷しそうに暑かった空気も、軽口を叩きながらでも走れるくらいに快適だ。
快晴の空に見上げる太陽も、汗ばむ肌に心地良いぐらいである。
「すっかり良い季節だねえ」
「本当に! コンディションも良いわけだわ~」
ランニング日和というよりも行楽日和という方がしっくりくる、柔らかな昼下がりのせいだろう。
工廠の裏を抜け、鎮守府の港近くの小さな砂浜へと到達する頃には、ふたりのボルテージは
すっかり下がっていた。

「それで酷いんだよ、提督ってば。僕の顔見て『もがみん大将』なんて!」
「アハハ。今度寝てるときに、逆襲してみたらいいんじゃない?」
「あっ、いいねえ、それ! いまに見てろよ~、提督~!」
そんなお喋りが弾む、楽しいジョギングになってしまっている。
「それにしても、長良はスタイルがいいよねえ」
併走する長良のしゃきっとした姿勢を見て、最上は思ったことをそのまま口にした。
「そ、そんなことないよ。ふつうだよ」
照れながらも、長良は少し嬉しそうだ。
「謙遜しなくていいって。ランニング以外にも何かしてる?」
「うん、簡単な筋トレかな。でも、やっぱり走り込みが楽しいんだけどね」
ほうほうと、最上は長良の四肢をまじまじと観察する。軽く日焼けした肌の下で、
長良の細いフレームを包むしなやかな筋肉が躍動しているのが良く分かる。
「やだ最上ちゃん、なんだかオジサンぽいよ? 視線が」
気づいた長良が、最上の肩を冗談ぽく肘で小突いた。
「でも良いことばかりじゃないよ。長良、また脚に筋肉ついてきちゃったみたいで」
「いいじゃない、筋肉! 海兵隊みたいなモリモリマッチョマンは困るけど」
「よ、良くないよぉ~」
長良は風に流れる黒髪に滴る汗を掻き分け、はぁっと意味ありげなため息を突いた。
「あんまり鍛えすぎるとボトムヘビーになって航行しづらいし、それに……」
「それに?」
「えぇっと、その……」
珍しかった。いつも歯切れの良い長良が、言葉に詰まって頬をぽりぽりと掻いている。
「どうしたの? 顔、赤いけど」
「そっその、最上ちゃん、あの……これは長良との秘密だよ? 内緒にしてくれる?」
最上は一瞬ぎょっとした。あの長良が、自分に内緒話をしてくるとは思いも寄らなかった。
よっぽど言いづらいことが、この長柄のボディーに隠されているとでも言うのだろうか。
――うーん、約束事は慎重にすべきだけど……
「良いよ。黙ってるから」
長良の均整取れた肉体の秘密が分かるかもしれない……という好奇心にあっさり負けて、
最上は二つ返事で小指を立ててみせた。
視線を泳がせていた長良だったが、最上としっかり指切りをして、ようやくこそこそ声で話す。

『その、あの……結構さ。筋肉って、重くてね。長良、最近体重がさ……』

「えーっ、たいじゅう?! なー……」
「やだ――! 最上ちゃん、声おっきいってばぁ――!」
なーんだ、そんなことかあ、という言葉が放たれるよりも早く、長柄の人差し指が最上の唇を
ぎゅーっと押さえ込んだ。
『ヒミツだって、言ったばっかりでしょーっ?!』
殆ど口パクで叫ぶと、長良はおでこが当たりそうなくらいに最上に詰め寄った。
体重。その言葉一言だけで、この反応だ。
その先まで口走っていたら、一体今頃どうなっていただろう?
――あ、危なかったなぁー、僕。
作戦中に等しいぐらいに鬼気迫る長良に気圧され、最上の足は、ぴったり止まっていた。
「ご、ごめんごめん。僕が悪かったよ」
両手を合わせてぺこぺこ、最上が平謝りに謝ると、長良は「もうっ」とむくれて、どかっと
砂浜に腰を下ろした。ふたりは、丁度ランニングの半分を終えようというところまで来ていた。

「最上ちゃん、デリカシー無いんだから……」
「で、デリカシー……かい?」
普段殆ど耳にも口にもしない言葉が、しかも長良の口から飛び出して、横に座る最上はたじろいだ。
「そうだよお。最上ちゃん、全然気にしないの?」
「う、うーん……そういえば僕、もうずっと体重計には乗っていないね」
「はぁ~? お幸せですこと!」
呆れた表情の長良は、腰から水筒を外して飲むと、最上の頬にぴたっとくっつける。
「ひゃっ! ありがと!」
水筒を傾けると、キンと冷えた甘露が溢れ出し、レモンの香りと共に最上の喉を潤していく。
「ふーっ、生き返るぅ。長良のハチミツレモンは、本当に美味しいね!」
「間宮さん直伝だからね」
ひとくちふたくち味わって、もう一口飲んで、ようやく水筒を返す。
「でも何だろ、今日はいつもよりハチミツが薄目?」
「はぁ……ホントに最上ちゃん、何も気にしてないんだから……」
長柄のジトっとした非難めいた視線が、最上の身体の色んなところを突き刺す。
「長良ね、実は前から気になってたんだけど」
「え、僕?」
「そう、その……」
小さなためらいの後、長良は照れくさそうな早口で呟いた。

「最上ちゃん、いつもノーブラなの?」

「ノーブラ……ああ、うん。そうさ?」
長良の茶色い瞳が向かう先に気づいて、最上は事も無げに答えた。
タンクトップの襟元をぱたぱたしながら、そういえば……と思い出す。
「僕、ブラジャーって着けたことないなー」
「えぇっ、そうなの? 一回も?」
「一回も。だって持ってないし」
「まさか、一枚も?」
「一枚も」
ざぁ……んと、静かに寄せては返す波の音だけが、二人の間をすり抜けた。
長良はまるでその音を隠れ蓑にするかのように、座ったまま、そおっと少しだけ背伸びする。
そして、最上のはだけた襟元に視線を落とし――
「あ、そ、そっか……そうなんだ。は、ハハハ……すみません」
ぎこちなく笑いながら、もじもじと膝を抱えて小さな三角座りになった。
「なんだい? 長良ってば、変なの!」
「だ、だから……すみません、ってば……」
「それじゃあ、そういう長良はブラジャーしてるっていうのかい?」
最上がたずねると、長良はもじもじしながら鎖骨の辺りをさすってみせる。
「長良は、してるよ? スポブラだけど」
「すぽ……ぶら?」
まったく聞いたことの無い単語だったが、心当たりにポンと最上が手を打つ。
「ああ、飛行機についてるアレ?」
「最上ちゃん、それスポイラー」
「違うの?」
「違う! ぜんっぜん違う!」
長良は「艦娘にスポイラー要らないでしょうが!」と不満そうに最上に詰め寄ると、
きょろきょろと周囲を伺い、意を決したようにセーラー服の襟元を引き下げ、中を広げて見せた。
「スポブラ! スポーツブラジャーのこと!」
最上は、長良の制服の暗がりの中に目を凝らす。石鹸とレモンの混じった香りの向こうに、
長良の胸をぴったりと覆っている桃色の下着が見えた。
「こ、これがスポブラだよ。分かったでしょっ!」
これ以上たまらないという感じで、長良はまたすぐに膝を抱えてしまった。

「ええっと……」
最上は思い出しながら、自分の胸の辺りでスカスカと手を動かし、ジェスチャーする。
「こう……肩紐とカップじゃなくて、何だろ。僕のよりもピッタリした、胸だけ覆った
タンクトップ、みたいな……?」
「そう、そう!」
「そんなピタピタで、息苦しくないの?」
「ぜんっぜん! むしろ長良は動きやすいよ」
「ふーん?」
――ホントかなあ?
生返事しつつ、最上はどうもピンとこなかった。
――動きやすいって、胸が揺れないってことだよね? 一応ブラジャーだし。
今は外洋の任務にあたって鎮守府を離れている戦艦や、正規空母達なら話も分かる。
中にはドックの風呂に浮くような胸の持ち主さえいるのだ。あれを野放しにしておいたら、
両胸に水風船をぶら下げて動き回るような感覚になるのだろう。ブラジャーの必要性も頷ける。

しかし、長良の胸元はお世辞にも――

「いやぁ、分かるよ? でもさ……っと、おおっと」
最上は慌てて自分の口を両手で押さえ、またしても飛び出しそうになった言葉を飲み込んだ。
「で、デリカシーデリカシー」

「も~が~み~ちゃ~ん~?」

急に周囲が暗くなり、最上ははっと頭上を仰ぎ――腰を抜かした。
そこには、歯をぎりぎり鳴らしながら涙目で最上を見下ろす、長柄の姿があった。
日輪を背負うその姿は、まさに護国の戦姫……いや大魔神である。
「わあっ、ななな、何だよ長良! 僕は何も言っていないだろッ!?」
「目は口ほどにモノを言うって言葉、知ってるよね……?」
長良の両手が、猛禽の爪のごとくワシワシと蠢いた。
今ならリンゴだろうと弾丸だろうと、豆腐のように握りつぶしそうだ。

「もう二度とブラなんかいらないように、長良が近代化改修してあげよっか……?」

その手が向かう先を察し、最上の背筋を冷たい汗が滴り落ちる。
「やっ、やめてよ長良! 早まるなって! きっとまだまだ大きくなるさ! ホントだよ!」
ブチィンと、長柄のハチマキが音を立てて千切れた。
「うううううるさーい! もう遅い遅い遅いッ! そんな言い訳、ぜんっぜん遅――」

パッパラッパラッパラッパパッパラー!


長良が最上に飛び掛らんとしようとした、まさにその時。
秋晴れの鎮守府に、スピーカーを通して乾いたラッパの音が轟いた。

その瞬間だった。

ばし、ばしばしばしいいいっ!

背中に、赤く鋭い雷のような衝動がほとばしり、最上は思わず「ひうっ」と声を上げた。
尻餅をついたままの最上をよそに、長良もその場に慄然と立ち尽くし、鎮守府の高台にある
スピーカーを食い入るように見つめている。
ラッパの音がこだまするたびに、最上の頭の中で、胸の奥で、幾つものギアが次々と
噛み合い、海原を切り裂く鋼鉄の塊が動き出す轟音が迫る。きっと長良も同じだろう。

「「非常呼集……!」」

ランニングも。
ハチミツレモンも。
デリカシーも。
ブラジャーも。
そして、ふたりのわだかまりさえも。

艦娘たちのひとときの『非日常』は、ラッパの音がもたらす『日常』によって、既に遠く、
遥か夢の向こうへと追いやられていた。
そしてその代わりに、自分の中の『軍艦』が姿を現し、全身に熱い血を送り込んでゆく。
これが自分の本性なのかどうなのか、最上には分からない。
しかし、最上は感じるのだ。

ビーズを蒔いたようにきらめく水平線の彼方に迫る、倒すべき存在の陰、深海棲艦の姿を。

最上は長良に差し伸べられた手を取って立ち上がり、お互い目配せで「うん」と頷くと、
ここまで走ったときの何倍もの猛ダッシュで、営舎への道を引き返した。
背中を押し、大地を蹴る足を動かす、内なる衝動が命じるままに。

そう、心震わせる、あの『抜錨』の瞬間を求めて――。

=えんど=

 

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最上 長良
最終更新:2013年11月13日 01:48