磯波×提督3-433

コン……コン。
控えめなノックが、執務室に漂う夜の静寂を打ち破った。
「入りたまえ」
僕は努めてぶっきらぼうに、ドアの向こうの気配へと声をかける。
「て、提督、失礼……します」
おどおどした様子のひとりの少女が、月明かりだけが照らす執務室の扉を開いた。

「い、磯波……です。ご、ご命令により……出頭いたしました」

消え入りそうな声で彼女は名乗り、執務室の入り口で敬礼をした。
僕が黙って頷くと、磯波は真鍮のドアノブを回し、静かに扉を閉めた。

しばし僕は、青白い月の光に浮かぶ磯波の姿をしげしげと観察する。
穏やかな波間を思わせる、三つ編みの黒髪。日々、遠征の任に駆り出されながらも白さを保つ若々しい肌。
膝より少しだけ高い、吹雪型のセーラー服から垣間見える、柔らかそうな太腿――。
普段彼女が足を踏み入れることも、いや、直接的に話したことさえも殆どない僕の部屋に
招かれた彼女は、いつにも増して小さく、儚く見える。兵装が完全に解かれている今は尚更だ。
現に、この部屋の中にいるのは磯波と僕だけだというのに、彼女は一向に僕と目を合わせようとしない。
照明が完全に落とされた執務室の中、磯波の長いまつ毛の奥にある瞳は、内股に寄せられたブーツへと
所在なさげに落とされたままだ。
ふぅ、と僕が大きくため息をつくと、それだけで磯波は細い肩をぴくっと躍らせた。
それでも僕は黙ったまま、磯波に更に視線を注ぎ込む。
「……ぅう」
磯波は、吹雪型が揃って纏うセーラー服の胸元の紐をいじりながら、チラチラと僕を見た。
僕からの一言を引き出そうと、必死のようだった。
海から吹き込む穏やかな風が窓から吹き込み、白いカーテンを揺らす。重たい空気の中、
時が確かに進んでいることを示すかのように。
だが、それでも僕は革張りの椅子に深く腰をかけたまま、彼女をじっ……と見つめたままだ。
磯波は、震えているようにさえ見えた。
「あっ……あのう……提督」
部屋の隅と僕の間を、まるでげっ歯類の動物のように素早く、しかし居場所なさげに視線を
揺らしながら、磯波がようやく唇を開いた。
「磯波に……何かご用でしょうか?」
彼女がこの鎮守府に配属されて2週間。僕は初めて、その声をまともに聞いたような気がした。
それは、本当に女の子らしく、か細く……そして消え入りそうな声だった。
仮に月が雲に隠れていて、磯波の実体が目の前に映し出されていなければ、耳に届いてさえ
いなかったかもしれない。
磯波はそれ程までに控えめな声で、ようやく言葉を口にしたのだった。
僕はその声の余韻を耳に感じながら、彼女を手招きする。
部屋に入ってからというもの、一歩たりとその場を動かなかった磯波が、ようやく小股で
執務机へと近づいてきた。しかし絨毯が敷いてあるとはいえ、足音がほとんどしない。
意識的に音を殺しているのだとすれば、どれだけ自分に自信がないのだろうか。

――もっとも、僕が彼女をこの部屋に呼んだ理由は、まさにそれなのだけど。

磯波は思った通り、執務机の前にたっぷり1メートルの間を取って、僕の正面に立った。
僕からは机を挟んで、ほとんど2メートルも離れていることになる。
「はぁ……」
予想はしていたことだが、僕は思わず2度目のため息をつき――
「磯波?」
ようやく彼女の名前を口にした。
優しく名前を呼んだつもりが、彼女は身体を強張らせ、両目をぎゅっと閉じてしまった。
言い訳もできず、叱られるのを待つだけの子供のようだ。
「自分がどうしてこの部屋に呼ばれたか、分かっているかい?」
首を縦にも、横に振るでもなく、ますます磯波は体を小さく、固くしてしまう。
僕はほの暗い中、デスクの書類受けに手を伸ばした。
「磯波、配属されてどれくらいになった?」
「えっ?」
「二週間だ」
忠実な秘書艦娘が纏めた数枚のレポートをぱらぱらと捲り、そのうちの一枚を彼女の方へと差し向ける。
「見たまえ」
磯波はまるで危険な生き物にでも触れるかのように、コピー用紙におどおどと手を伸ばす。
暗闇の中では読みづらいのだろう、柔和そうな垂れ気味の目が細められ、書類を走った途端――
「あ……ぅ……!」
磯波は驚愕とも恐怖ともつかない顔になり、そのまま硬直した。
「それは君の、ここ二週間の成績を纏めたものだが、見てのとおりだよ。残念ながら
、先輩諸氏のような戦績を残せてはいない。遠征にしても、作戦にしても、だ。分かるね?」
「は……はい……」
磯波はがっくりと肩を落としたまま、細い首を小さく縦に振った。
「同じ吹雪型と比較すると、なおのこと顕著だ。どうしてこんなに差が出るんだろうな? ん?」
月明かりのせいでなく、磯波の顔は、真っ青だった。
「あのっ……あの、提督……!」
磯波はレポートを持つ両手を強張らせながら、何かを伝えようと必死だった。
「これは……そのっ、私……」
「それに聞いたところによれば、何度か他の艦娘と衝突しかけたとか?」
意見しかけた磯波を、僕はより強い言葉で一蹴してやる。
「その衝突が原因で隊は陣形を乱し、結果的に燃料と弾薬を海中に失ったそうじゃないか……」
磯波は口を開いたまま、自分の意見を完全に失っていた。息をするのさえ忘れていそうだった。
「あの日は悪天候だったからな。遠征の報告書には、荒天に伴う高波の影響で物資を消失した、
とされていたよ。正式な報告書には、君の不始末はひとつも上がってきていない。言った通り、
あくまで『噂』だ」
磯波は魂が抜けたような、愕然とした表情のまま、何も映ってはいないであろう瞳をレポート用紙に
落としている。提督である僕と会話していることさえ、否定するかのように。
「だが、君の成績を見るにつけ、一度直接に確認しておかねばと思ってね。磯波、衝突は真実か?」
答える代わりに磯波は、よろけるように半歩、後ろに下がった。
「どうした磯波、答えたまえ」
「……う……わ、わた……」
「磯波! はっきり答えたまえ!」
焦れた僕は、少しだけ語気を荒げ彼女の言葉を再び遮った。それだけで――

「くぅ、 う……」

どこまでも静まり返った部屋に、たっ、たっ……と、絨毯に雫が落ちる音が響いた。
磯波の、涙だった。

磯波は薄い唇を噛みしめ、必死に涙を堪えようとしている。しかしその意志とは裏腹に、
熱い雫が白い頬に幾重もの軌跡を描いては、カーテンを透かす星の光に輝いた。
「それが貴艦の答えか、磯波?」
僕は椅子から立ち上がると、磯波の方へとゆっくり近づいていく。
「その涙が、僕に対する答えだというんだな?」
静かな僕の怒声に、ひんっと磯波が子犬のように鳴いた。
そしてまるで磁石の同極のように、僕が近づいた分だけ離れようとする。
だが、逃がすつもりは毛頭ない。
「どこへ行くんだ」
磯波の細い手首を、僕はがっしりと掴む。
「いや……あっ!」
磯波はレポートを取り落とし、僕から逃れようと顔を背けた。
「その涙が何で出来ているか、分かって泣いてるのか! 答えろ磯波!」
「うぅっ、は、放してぇ!」
「貴艦が目からこぼしているそれは、何だと聞いてるんだ、僕は!」
抵抗しようとする磯波の手を振り払い、僕はもう片方の手で磯波のきれいに編み込まれた
おさげを掴み、容赦なく引っ張った。
「きゃあぁぁ!?」
磯波の悲鳴と散らした涙がきらめいて、暗黒の絨毯へと吸い込まれていく。
「提督ッ! うあっ、痛い、いたいですぅっ!」
「まだ『無駄』にする気か、その涙を、あぁ?」
悲鳴を上げるのも構わず、僕は磯波の小さな耳を引き寄せて、息さえかかるであろう距離で言い放つ。

「貴艦が流しているそれは、戦列を同じくしている駆逐艦娘達が運んできた『燃料』だろうが!?」

抵抗する磯波の体から、ふっと力が抜けたのが、良く分かった。
「日々危険な海域を掻い潜り、やせ細る兵站を何とか維持しているのに……何だ貴艦は?
燃料一滴持ち帰れもせず、ロクな戦果も無いくせに、のうのうと補給まで受けて、更に無駄遣いか!」
返事がない中、「ふっ」と僕は小さく鼻で笑い、もう一言。
「磯波……我が鎮守府はね、常に逼迫しているんだよ。燃料も弾薬も……それに鋼材も」
力の抜け切った磯波の腕を放し、僕は頬を伝う涙を指で掬った。人間のそれと同じく、熱い。
「この涙さえ、一滴も無駄にはできないんだぞ?」
言って、朴は磯波の雫を口に含んで見せた。
塩辛く、ほのかに甘い味が舌に広がり、消えた。
「常勝無敗、そんなもの僕は端から求めていやしないさ。だがね、子供のお使いにも劣るような
近海の輸送任務も果たせず、あまつさえ味方に損害を与えてしまうような艦は……僕の手には
少々余ってしまってね」
「あ……あ、ぁ……」
「君の処遇は、試験運用期間の終わりを待つまでもなく決まりそうだ、磯波。貴艦の意向は既に伺ったしな」
「え……?」
顔を背けたままの磯波が、怯えきった表情で僕を見つめた。
「わたし……まだ、何も」
「何を言ってるんだ、貴艦は。僕は確かに『聞いた』よ?」
磯波の細い肩にぽんと手を突き、僕は笑顔で首を横に振った。

「僕の質問に対して、磯波。貴艦は無言だった。即ち衝突の一件は申し開きの余地無し、と。そうだな?」

ただでさえ青白かった磯波の顔から、さああっと音を立てて血が引いていった。
「ち、ちが――」
「磯波、貴艦は最期に正しい判断をした。衝突した艦を修理するために、自ら一肌脱いで――」
「だめっ……提督! い、嫌……いやあぁ……ッ!」
僕の最後通告は、磯波のか細い悲鳴にかき消された。
硬直したままだった磯波の身体が急にがくがくっ! と震えたかと思うと――

ぽたっ、ぱたぼた……っ。

スカートの下から漏れ出した雫が、絨毯に染みを広がらせていく。やがてその波は勢いを増し――
しゅわああ、あああ……。
あふれ出した温かな金色の流れが、湯気を上げながら絨毯へと降り注いだ。
太腿にも幾筋もの細かな流れが至り、紺のハイソックスをしとどに濡らしている。
「うぅっ、うううう~ッ……」
磯波は絶望とも、解放ともつかない声で呻いた。きつく閉ざされた瞼の間からも、まだ涙が溢れている。
僕がおさげを放してやると、磯波は自分の作った水たまりの上に膝を折りへたり込んだ。
まだ全てが出切らないのだろう。細い肩を震わせ、磯波は両手で顔を覆い、すすり泣いている。
「ふっ、何だ貴艦は。燃料タンクにも欠陥があるのか?」
たった今、体を離れたばかりの生暖かく、そして若々しい磯波のにおいを吸い込みながら、僕は笑う。
「貴艦の姉さん達が聞いたら、さぞ悲しむだろうね。それこそ姉妹などとはもう――」
「いゃ……です……! て、と……く……!」
磯波は顔を覆っていた両手で濡れたスカートの裾を握りしめ、僕を食い入るように見つめていた。
「提……督……! 磯波の、お願いです……!」
そして涙に揺れる瞳に、ありったけの哀願と崩壊寸前の理性を浮かばせ、

「か、解体だけは……どうか……許してください……! えぐ……ひうっ……うぅぅ……」

何とかそれだけを言い切ると、磯波は天井を仰ぎ、静かにすすり泣き始めてしまった。
「すんっ……まだっ、まだ、磯、波は……うあぁ……あぁ……ぁぁ……」
僕の乱暴な扱いに抗ったからだろう。セーラー服はすっかり着崩れ、さらけ出た肩が夜風に震えている。
月夜に照らされながら細い顎を上げて涙にくれる磯波は、船首をもたげて静かに沈んでいく軍艦を思わせた。
磯波は、完全に堕ちかけていた。このまま放っておけば、手を下さずとも次の作戦あたりで
沈むかもしれない。
静かに彼女が朽ち果てる姿を見ていることもできる。だが、僕はそうはしなかった。

――そうしては、意味が無いのだからね。

「磯波……解体は、嫌か?」
磯波はうっすらと黒い瞳を開き、言葉を知らぬ子供のようにこくっと頷いた。
まだ、魂は生きているようだ。そこは艦娘、歴戦の軍用艦の名を引き継ぐ少女達である。
「そうか……だが磯波、僕は貴艦を今のまま運用することはできない。故に『改造』する」
「かい、ぞう?」
「あぁ、そうだ」
言いながら、僕は磯波の前にしゃがみ込んで視線を同じくした。
「磯波……人にも艦にも、『向き不向き』がある。僕は貴艦らのようには戦えない。しかし、
貴艦らを率い、深海棲艦に立ち向かう術を与えることはできる。『適材適所』とでも言おうか」
「はい……」
磯波は時折しゃくりあげながら、涙声で応じる。僕はゆ磯波が落ち着くのを待ち、続ける。
「磯波、君は艦娘ではあるが、今はたまたま、戦いに『向いていない』だけかもしれない。
ならば、貴艦は生まれ変わらねばならない。貴艦が建造され、進水され、この鎮守府に就役した
ことに、意味を持たせる。それは貴艦を『改造』する事のみによって成し得ることだ。分かるね?」
「は、はい……!」
磯波は若い。蒼白だった頬に血色が戻り、何も知らない子供同然の瞳に、月と星の光が再び
差し込んでいる。暴れて着崩れたセーラー服の奥で止まりかけていた心臓が強く動き出して
いるのが手に取るように分かった。

僕はよし、と小さく頷く。
「磯波、では早速だが、改造の儀式に移る。深呼吸して、息を整えろ」
「はい、提督!」
磯波は袖で顔を拭うと、言われた通り、二度、三度と胸を開いて大きく息を吸い、少しむせながら
吐き出した。
「よおし、いいだろう」
僕は人差し指を柔らかな磯波の頬に寄せ、拭いきれなかった涙をそっ……と掬い取る。
そしてその指を、ゆっくりと磯波の鼻先へ。
「磯波……目を離すな。僕の、貴艦の提督の、人差し指から」
「はい……」
磯波の黒目がちな瞳が、しっかりと、僕の指先を捉えている。
「貴艦を改造する第一歩、それは、貴艦自信をよりよく知ることに他ならない」
「はい……」
僕はその視線を試すように、ほんの僅かに指を右へ、左へと動かしながら、静かに囁く。
「磯波、僕はこれからひとつ質問をするが」
「はぃ」
「貴艦はその答えを、もう知っている。僕は既に、貴艦に答えを与えている。磯波……いいね?」
「は…………ぃ」
極度の集中からか、磯波の表情は虚ろになりつつも、その唇は既に僕がこれから命じようと
してることを鋭敏に察していた。
僕は磯波の正中で、ぴたりと指を止め、問う。

「磯波……貴艦の身体から零れた『これ』は、何だ?」

磯波は答えるよりも早く、そっと唇を開き――
「んっ……」
僕の指を、優しく暖かな口の中へと運んで、ちゅぱっと涙を舐めとった。
「ん……ふっ……。『これ』は、皆が運んでくれた……燃料、です……提督」
「良い娘だぞ、磯波」
優しく頭を撫でてやると、雲間を抜けた月の光が、ふっと強まった。
カーテン越しに届くその静かで鮮やかな白に照らされた磯波の表情を見て、僕は少し驚いた。
磯波は、笑顔を浮かべていた。
「あ、ありがとうございます、提督……」
思わず細められた磯波の眼から、悲しみや恐怖とは違う涙がこぼれる。
「おっと、磯波?」
「も、申し訳ありません……れろ……んちゅ」
咄嗟に僕が手で受け止めたそれに、磯波は躊躇なく滑らかな舌を這わせ、丹念に舐め取る。
「は、初めて……だったので、つい」
「何がだい?」
「そのっ、提督に……褒められたのが」
磯波は僕の手を取ったまま、はにかむように小さく、口もとだけで笑った。
瞳からまた涙がこぼれるのを防いだつもりだったのかもしれない。

――成程、健気で……想像以上に早い『仕上がり』だな。

「磯波……!」
次の段階の到来を感じた僕は、へたりこんだままの磯波の足元へと手を伸ばした……。

磯波ちゃん×提督6-853に続く

タグ:

磯波
最終更新:2014年01月29日 00:43