中国漢民族独立支援した日本


孫文と日本の志士達

http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h10_1/jog043.html
1.国父孫文の生誕百年式典に招かれた日本人志士遺族
 1966年11月12日、孫文生誕百年を記念する大式典が、政府主催のもとに北京で盛大に挙行された。故周恩来総理は、その記念演説のなかで「孫中山(孫文)先生の理想は、いまわれわれの手のなかで実現されつつある」と述べ、中国はアヘン戦争以来、革命の歴史を積みかさねて今日の偉大な勝利をかち取ったのであるが、そのなかで、孫文の果たした役割は、永久に消えることはないであろう、と語った。
この孫文の生誕百年祭には、孫文の独立革命を援助した多くの日本人志士の遺族も招かれたが、そのなかには、有名な宮崎滔天の遺児龍介・白蓮夫妻の姿も見られた。[1,p14]
 中共、台湾の両方から「国父」として、今も尊崇を受けている孫文は、革命家としての30年のうち、のべ約10年を日本で過ごした。その間、多くの日本の志士と友情を結び、中国の為に一命を捧げた日本人志士も少なくない。
2.宮崎滔天との出会い
 19世紀末の清国は、600万人足らずの満洲人が政府高官や軍幹部を独占して、4億人の漢民族を支配する専制国家であり、200年の泰平に馴れて、政府は腐敗しきっていた。
孫文は日本の明治維新をモデルに、漢民族による近代的独立国家を作ろうと、「滅満興漢」を掲げて、1895年(明治28年)広東での最初の武力蜂起を行うが、失敗、海外に高飛びした。
 この孫文に目をつけたのが、日中提携によるアジア独立を目指していた宮崎滔天であった。滔天は、横浜に潜伏していた孫文を見つけ出し、語り合った。
支那四億万の蒼生(人民)を救ひ、東亜黄種(アジア黄色人種)の屈辱を雪(そそ)ぎ、宇内(天下)の人道を恢復(回復)し擁護するの道、唯(ただ)我国の革命を成就するにあり
と述べる孫文の悲壮の語気に、滔天は、
誠に是(これ)東亜の珍宝なり。余は実に此時をもって彼に(心を)許せり。
と後に記している。孫文もまた初対面の滔天の印象を「他人の急を救わんとのこころざしやみがたき…現代の侠客」であると評した。 [1,p33]
宮崎滔天を通じて、孫文は日本の政府高官や志士達に紹介され、人脈を築いていく。
後の政友会総裁、首相の犬養毅、アジア各国の独立を支援した頭山満などの知己を得た。
 この頃から、孫文は「中山」と号するようになった。
日比谷公園近くの中山忠能公爵(明治天皇のご生母・中山慶子の父)邸の前を通ったとき、その表札を見てつけたという。
この号が、今や台湾の大通りの名になり、また生まれ故郷が中山市と改称されたいわれになっている。[2,p275]
3.中国・台湾で祀られた日本人志士
 孫文の革命への志に深く共鳴した一人に山田良政がいた。日本によって上海に建てられた東亜同文書院の教授をしていた山田は、1900年(明治33年)、孫文とともに広東省恵州で兵を挙げるが、捕らえられ、殺害される。中国革命のために一命を捧げた最初の日本人となった。
 孫文は山田の死を悲しみ、郷里弘前市に建てられた碑に、次のような文を寄せた。
山田良政先生は弘前の人なり。康子閏八月、革命軍恵州に起つ。君身を挺して義に赴き、遂に戦死す。鳴呼(ああ)其人道之犠牲、亜州(アジア)の先覚たり。身は湮滅(いんめつ)すと雖(いえど)も、而も其(その)志は朽ちず
 1927年(昭和2年)11月4日、中国国民党は山田良政の建碑を議決し、孫文の眠る南京、中山陵に建立した。
 台湾の忠烈祠には、後の中華民国のために命を捧げた33万人の将兵が祀られている。日本軍との戦闘での死者も多い。その中で山田良政はただ一人の日本人として、今もここに祀られている。
4.東京での中国革命同盟会結成
 1905年(明治38年)、日露戦争における日本の勝利は、アジアの人民に独立への大きな希望を与えた。
清国からも、2万人とも3万人とも言われる留学生が日本にやってきた。
孫文は滔天らの支援を受け、「中国革命同盟会」を結成し、約3千の会員を集めた。
法政大学に留学中であった汪兆銘も参加し、機関誌「民報」の編集に携わった。
民報は留学生や本国の青年達に革命への情熱を点火した。
当時、湖南で農民であったまだ十代の毛沢東も日本で発行された民報の愛読者だったといわれる。[1,p47]
(汪兆銘は、その後、日中戦争中に反共親日の和平運動を起して、蒋介石に対立し、40年に南京国民政府を樹立した人物である。)
 しかし清国は日本が革命運動の温床となっていることから、清国人学生の取り締まりを強く要求し、日本政府はこれを受け入れた。 日本人志士達は強く反対したが、憤慨した数千人の留学生は帰国し、これが後年の中国での排日運動の原因となったと言われている。
5.中華民国の成立
 1911年(明治44年)武昌での革命軍蜂起が成功すると、これに呼応して、全18省のうち、15省で革命が成功した。辛亥革命である。
武昌での蜂起に加わっていた日本人志士約20名のうち、数名が死傷した。
日本人志士はさらに陸続と集まって、辛亥革命に参加した。
北一輝はこの時、参謀役として働いている。
山田良政の弟純三郎と滔天は、香港にいた孫文を出迎えにいった。
 滔天らに迎えられて、1912年(大正元年)1月1日、南京に入った孫文は、大総統として、この日を民国元年とし、列国に向かって、中華民国の成立を宣言した。
犬養毅、頭山満の両巨頭を始め、滔天その他の多くの志士たちも総統就任式に参加し、感激を分かち合った。
6.桂首相との日支協力の密約
 その年の12月に桂太郎による第3次内閣が組閣された。滔天は政界の陰の実力者秋山定輔を通じて、桂首相に孫文との協力を説いた。孫文は国賓として来日し、桂首相と語り合う。その結果、
  • 新支那の建設は孫文にまかせる。日本は孫文の新政権を支援し、日支協力して、満洲を共同開発する。
  • 日支協力してダーダネルス海峡以東のアジア民族の自立達成(解放)に助力する
などの密約を交わした。日本と中国が相協力して、アジア独立のために立ち上がるという孫文や滔天の大アジア主義が、両国の正式な政策として採用されたかに見えた。
しかし、桂太郎はまもなく急死し、孫文も袁世凱にその地位を奪われて、失脚した。こうして日支提携密約は実現しなかった。
孫文は東京で、犬養、頭山、宮崎らの助力を得て、1914年(大正3年) 中華革命党を結成する。まことに不屈の革命家ではある。
しかし、われわれはまだ、日本に絶望してはいない。それはなぜか、自分は日本を愛し、亡命時代に自分をかばってくれた日本人に感謝しているからである。また、東洋の擁護者としての日本を必要とするからである。ソヴィエトと同盟するよりも、日本を盟主として、東洋民族の復興をはかることがわれわれの希望である。
 1923年に孫文がある日本人に語った言葉である。[1,p61] 
 以後の孫文はソ連からの協力を得る方向に傾いていくが、孫文は日本との提携を諦めてはいなかった。しかし、共産主義勢力という新たな攪乱要因も登場して、日支提携の望みはますます遠ざかっていく。
7.大アジア主義と東洋王道文化
 1924年軍閥間の争いに乗じて、馮玉祥は北京を占領すると、孫文を大総統に迎えた。孫文は上海から北京に向かう途中で、わざわざ日本により、神戸高等女学校で「大アジア主義」と題した有名な講演を行い、こう述べている。
日華両民族は共同戦線を結成してインドの独立を支援すべきである。中国と日本とインドの三国が一体となって起ちあがるならば、西欧の帝国主義など恐れることは何もない。西欧の文化は、鉄砲や大砲で他人を圧迫し、功利強権をはかる覇道の文化である。これに対して東洋の文化は、仁義道徳を主張する王道の文化である。われわれは東洋の王道文化をもって、西欧の覇道文化に対抗しなければならない。すなわち仁義道徳を主張するということは、正義公理によって西欧人を感化することである。
 翌年3月12日、孫文は北京で肝臓癌のため、59歳の生涯を閉じる。
 身命を抛った志士の一人、萱野長知が病床に呼ばれた。
孫文は「犬養先生、頭山先生は、お元気か」と聞き、さらに「わしが神戸でのこした演説は日本人にひびいたか、どうか?」と問うたという。
 孫文を国父として祀るために、南京に中山陵が作られた。1937年(昭和12年)、日本軍は上海から南京を攻略したが、その時の総司令官は松井石根大将であった。
松井大将は孫文とも親交があり、大アジア協会を作って、日中提携を唱えていた。
松井大将はこの戦争が長く日支間の相互怨恨の因とならぬよう民衆の慰撫に腐心した。
特に中山陵に戦火が及ばないよう厳命し、それを楯に抗戦する支那兵もいたが、なんとか保全に成功した。
 松井大将は帰国後、私財を投じて、熱海・伊豆山に興亜観音を建立し、日支両軍の犠牲者の冥福を祈り、アジアの興隆と世界平和を朝晩祈念していた。しかし敗戦後の東京裁判では「南京での司令官として兵士の虐殺暴行に対して,十分に効果的な措置をとらなかつた」という訴因で死刑に処せられたのである。
 孫文の革命への志と、それを助けた滔天ら日本人志士は、錯綜する中国動乱の歴史の谷間にささやかな友情の花を咲かせた。今後、日中両国が真の友好関係を作り上げるためには、かつて芽生えたこの友情を思い起こす所から始めるのも一つの道であろう。
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山田良政・純三郎兄弟~ 孫文革命に殉じた日本武士道

清朝の圧政と列強の収奪に苦しむ民衆を見て、革命支援に立ち上がった二人の武士道精神。
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2.革命前夜の中国へ
 その日本人志士・山田良政は明治元(1868)年1月元旦、津軽藩士の長男として、青森県弘前で生まれた。長じて青森師範学校に学んだが、食事を不満とする寮騒動の首謀者として退学処分となった。本当の首謀者は友人だったのだが、その家が貧しく、退学になると学問を諦めるしかないので、自ら身代わりになったという。古武士のような無私の心を持っていたのだろう。
 同郷の著名な言論人・陸羯南(くがかつなん)を頼って東京に出た。
陸から「日本として、いま大切なのは清国の研究である」と諭された良政は、中国語の勉強に励み、北海道昆布会社の上海支店勤務を命ぜられて、大陸に渡った。
 1894(明治27)年8月、日清戦争が勃発し、良政は陸軍通訳官として従軍する。この頃には良政は完璧に中国語を話し、有数の中国通となっていた。戦争終了後、海軍に依嘱されて、ロシア、ドイツ、フランスなど列強の中国の利権を狙う動きを探った。
北京に出た良政は、清朝の圧政と列強の収奪に苦しむ民衆を目の当たりにし、諜報活動を続けながら、在野の志士として清朝政府内に台頭してきた康有為ら、変法(改革)派と親しく付き合うようになった。
彼らは清朝を救うために、日本の明治維新に習って、上からの改革を断行しようとしていた。
3.決死の北京脱出
 1898(明治31)年6月、康有為らは光緒帝を擁して近代国家建設に乗り出し、新式陸軍の創設、民間の商工業・農業振興など、次々に新法を布告した。しかし光緒帝の叔母・西太后を担ぐ守旧派は、9月21日、武力をもって変法派を弾圧した。光緒帝は幽居の身となり、康有為はかろうじて逃げ延びることができたが、同志6人は捕らえられ、刑死した。
いわゆる「戊戌(ぼじゅつ)の変」である。
その晩、良政のもとに日本人同志が集まっている所に、変法派の侍講(皇帝の教授役)・王照が飛び込んできた。
極度の興奮に顔色は青ざめ、手足をぶるぶる振るわせて、守旧派のクーデターが起こったことを伝えた。皇帝を救わねば、という王照を説得し、背広を着せて、良政は戒厳令下の深夜の都を脱出しようとした。見つかったら最後、良政も命はない。
 小舟を雇って天津に向かう。途中、総督府の蒸気船とすれ違って、臨検を受けるかと緊張したが、覚悟を決めて酒盛りを始めると、先方は疑いもかけずに通り過ぎていった。ようやく天津に着いて、停泊していた日本の警備艦・大島に王照を収容した。そこに清朝の捕吏がやってきたが、艦長・荒川中佐は毅然たる対応で撃退した。
この後、王照は日本に亡命し、良政の要請で陸羯南にかくまわれた。
この事件で、良政は革命同志の間で一躍、有名になった。
4.孫文との出会い
中国の革命運動を支援する犬養毅(後の政友会総裁、首相)は同様に康有為も日本に亡命させた。
おりしも1895(明治28)年に広州での武装蜂起に失敗した孫文が日本に来ており、犬養らは両者を協力させようとするが、うまくいかない。
康有為や王照ら変法派はあくまでも清朝の改革を目指していたが、孫文ら革命派は清朝を倒して漢民族による中国を作らねばならない、と考えていたので、所詮、妥協の線を見出すことはできなかったのである。
康有為らが傷心を抱いて日本を去っていくと、日本の志士たちの気持ちは急速に孫文の革命派に傾いていった。
 1899(明治32)年7月、孫文は神田三崎町に居を構えていた良政を訪ねた。同志たちから孫文の話は聞いていたが、会うのは初めてであった。良政はすでに清朝の改革だけでは清国は救われない、と痛感していたので、孫文の革命思想を聞いて、たちまち意気投合し、その場で同志としての支援を固く約束した。
1900(明治33)年早春、良政は5月に開校となる南京同文書院の教授兼幹事として赴任することになった。
この書院を設立したのは東亜同文会。「同文同種」である日本と中国の提携を早くから説いていた貴族議員議長・近衛篤麿を会長とし、「支那を保全する」「支那の改善を助成する」ことを目的としていた。
陸羯南も会員に加わっており、良政の中国に関する知識と語学力を買って、強く教授に推したようだ。
この南京同文書院は将来の日中提携のための人材育成を目的としており、第一期生15名の中には弟の純三郎もいた。
 この前年秋に、良政は弘前で妻とし子を迎えていた。良政は「落ち着いたら迎えにくる。それまでは両親を頼む」と言って、あわただしく上京し、そこからさらに南京に渡ったわけだが、これが永久の別れになるとは知る由もなかった。
5.台湾総督府の革命援助
 その頃、中国では義和団の暴動が華北一帯に広がっていた。北京も暴徒に占拠され、公使館区域を守るために、柴五郎中佐率いる日本軍将兵が獅子奮迅の活躍をしていた頃である[b]。
孫文は義和団の乱と清朝の衰退を見て、革命の好機到来と、7月に香港海上に停泊する佐渡丸の船中で、宮崎滔天(とうてん)ら日本人志士たちと、蜂起の場所を恵州と定め、具体的な手筈を整えた。
その後、孫文は訪日して資金・武器・弾薬を調達しようとしたが、思うように集まらない。
そこに良政から、台湾へ行って総督府民政長官・後藤新平と交渉するよう連絡が入った。
後藤新平は良政の叔父で初代弘前市長、後に衆議院議員となった菊池九郎に目をかけられ、親交を続けていた関係で、良政とも懇意だった。
孫文はその勧めに従って、9月27日に台湾に赴く。
 良政も同文書院の教授を辞して、同志と共に台湾に向かう。この時、弟の純三郎は、なぜ俺を入れてくれん、と良政の同志に怒りをぶつけた。良政は同志に頼みこんで「俺はこの運動に入って死ぬつもりをしている。兄貴が死ぬのに、弟まで誘い込むことはないじゃないか」と言った。
孫文と良政は台北で落ち合って、後藤新平と台湾総督・児玉源太郎に会い、恵州挙兵の援助を求めた。
児玉は、革命軍が恵州を占領し、海岸線のある陸豊、海豊に着いた時に、3個師団分の武器を手渡そうと約束をした。日本が後押しして親日革命政権が華南に出来れば、という目論みがあったようだ。
6.破られた革命軍支援の約束
孫文は日本の援助があれば革命は成功すると自信を持ち、ただちに秘密結社三合会の首領・鄭士良に蜂起の指令を送った。
それに従って鄭士良は10月6日、恵州三洲田で蜂起した。これが中国革命の最初の烽火となった「恵州起義」である。
 孫文は台湾を基地として、恵州革命軍に指令を与えつつ、児玉総督・後藤長官と会談を重ねた。一方、良政は孫文の命を受けて、海豊で兵を挙げるべく現地に入った。
ところが、たまたまこの時、日本では内閣交代があり、山県有朋から政権を引き継いだ伊藤博文内閣は、西洋列強との協調を方針として、中国の内政への不干渉政策をとり、孫文への武器提供や日本人将校の革命軍への協力を厳禁した。
これで児玉総督の武器供与の約束もすべてご破算になってしまった。
 事ここに至っては蜂起の継続は不可能と判断して、孫文は海豊にて挙兵準備を進めていた良政ら同志数人を鄭士良の軍営に派遣し、状況説明と臨機の処置を一任した。この役は良政が自ら買って出たようだ。もともと津軽武家の生まれで、貧しい友人のために退学の身代わりまでしてやる良政のことである。自らの口利きで日本が革命援助を約して孫文らが立ち上がったのに、政権交代とは言え約束を裏切る結果となってしまった。良政が耐え難い思いをした事は想像に難くない。孫文の密使として革命の最前線に赴くことは、せめてもの罪滅ぼしであったろう。
7.良政の最期
 良政らが鄭士良軍営に到着した時は、すでに弾薬は尽き果てていた。良政の説明を聞いて鄭士良は革命軍の解散を決意した。
 密使としての役割はこれで済んだので、本来なら良政がこれ以上、革命軍につきあう義理はなかった。しかし良政はあえて撤退する軍と行動をともにした。敗軍を見捨てて立ち去ることは津軽武士の誇りが許さなかったであろうし、また祖国日本が革命援助の約束を破った負い目もあったろう。
 撤退する革命軍の背後から清国官軍が襲いかかった。10月22日、恵州東方の三多祝において、良政は殿(しんがり)となって戦う最中に捕らえられた。中国服をまとい、荒縄を腰に巻いていて、日本人とは名乗らないまま処刑されたという。遺品の金縁眼鏡や千ドルという大金から、指揮官・港兆鱗は日本人の宣教師か何かであろうと思い、国際問題になることを恐れて、遺体を埋葬したあと厳重な箝口令を布いた。
8.孫文の情義
12年後の1912(明治45)年、孫文はようやく辛亥革命に成功し、翌年、準国賓として来日して、東京谷中の寺院・全生庵に「山田良政之碑」を建設した。
この時に孫文は次のような追悼の辞を述べている。
恵州の失敗は決して戦いの失敗ではない。日本政府がもしも前内閣の方針を守ったならば、児玉氏も依然その方針を改めずに我々を援助し、武器の輸出と将校の従軍とを禁じなかったであろう。従って余が内地潜入の計画も破れずに、その上、優秀な兵器と軍事知識を持った有能将校の指揮を得て、士気はこれが為に振い、その勢いをもって進撃したならば、恐らく天下の情勢は今はからざるものがあったであろう。革命軍も挫折せず、君も亦断じて死なずにすんだであろう。[1,p74]
この時に孫文は、良政の両親と未亡人とし子と会見し、「良政さんが中国革命のために、外国人として初の犠牲者となって下さったことを、全中国国民を代表してお礼申し上げます」と述べた。
 孫文は1918年の夏には、部下を恵州に派遣して、良政の遺骨を探させたが見つからず、やむなく持ち帰った三多祝の土を純三郎に手渡した。さらに1919(大正8)年には幕僚を使わして、弘前の山田家の菩提寺・貞唱寺にもう一つの碑を建て、自ら碑文を書いた。
山田良政先生は弘前の人なり。康子閏八月、革命軍恵州に起つ。君身を挺して義に赴き、遂に戦死す。鳴呼(ああ)其人道の犠牲、亜州(アジア)の先覚たり。身は湮滅(いんめつ)すと雖(いえど)も、而も其(その)志は朽ちず。
 孫文は不屈の革命家であると同時に、情義に篤い人物だった。
9.純朴なる日本武士道の発露
 良政の弟・純三郎は、兄の遺志を継いで、長く孫文に付き従ってその革命運動を助けた。辛亥革命の成功の後、孫文は中華民国臨時大総統に就任したものの、北洋軍閥の雄・袁世凱に妥協して総統を譲った。しかし袁世凱は帝政復活を目論み、それに反対する孫文は第二革命を企てる。以後、中国の革命運動は、各地の軍閥や共産主義勢力、さらには日本を含む列強が入り乱れて複雑な展開をしていく。
 孫文は不撓不屈の革命家生涯を、1925(大正14)年3月12日に終えた。満58歳だった。肝臓ガンが悪化して病床について以来、純三郎は終始、枕頭を離れずに世話を続けた。「革命未だ成功せず」という有名な遺書には、臨終に立ち会った家族後継者十数名が署名したが、純三郎は異国人なので遠慮した。
純三郎は、その後も長く上海に住んで、革命の行く末を見守りつつ、時折、蒋介石や日本政府に献言を行ったが、果てしなく乱れる大陸情勢に為す術はなかった。
日本の敗戦とともに、五十余年住み慣れた大陸を引き揚げ、1960(昭和35)年、東京にて83歳の生涯を終えた。
1976(昭和51)年、弘前の貞昌寺境内に兄良政の記念碑と並んで、純三郎の記念碑が建てられ、蒋介石の筆になる「永懐風儀」(永遠に君の情誼を忘れず)の碑銘が刻まれた。
 孫文の革命が始まってすでに百年以上も経ったが、今もなお大陸では複雑怪奇な情勢が続いている。しかし少なくともその起点において示された山田良政・純三郎兄弟の義挙は、純朴なる日本武士道の発露であった。
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汪兆銘~革命未だ成功せず

売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。中国の国民の幸せのために。
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1.失敗すれば、家族全体が末代までも批判される
今、父が計画していることが成功すれば、中国の国民に幸せが訪れる。しかし失敗すれば、家族全体が末代までも人々から批判されるかもしれない。お前はそれでもいいか。
 汪兆銘は17歳の娘、汪文琳にこう問いかけた。時に1937 (昭和12)年。
汪兆銘は国父孫文の大アジア主義を継承して、日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道である、と確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した。
 結果はこの言葉の後半そのままとなった。妻は獄死、子どもたちは海外にちりぢりとなった。汪兆銘本人は「漢奸」(中国の売国奴)と今でも非難されている。そしてなによりも、彼が幸せを願った中国の国民には、さらなる戦乱と、共産党独裁政権のもとでの圧制という過酷な運命が待っていた。
 汪兆銘を抜きにしては、近代中国の悲劇も、日中関係の不幸も語れない。
2.革命の決心
 1925年2月24日、孫文の病状が絶望的になった時、後継者の筆頭として汪兆銘は代筆していた遺言を孫文に聞かせた。孫文は満足そうにうなづき、「大賛成である」と言った。そして3月12日、死の前日に署名をした。汪兆銘は自分の代筆した遺書を、孫文が一字一句も直そうとしなかったことを生涯の誇りとした。[1,p113] その遺書は、
「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由平等を求むるに在り」から始まり、「現在革命未だ成功せず」という有名な一句を含んでいる。
 孫文は、1894(明治27)年、広州で最初の革命の兵を挙げて以来、宮崎滔天など日本の朝野の志士の支援を受けて、革命運動を続けていた。[a]
日露戦争後、東京には清国の留学生が1万人以上も滞在し、日本の驚異的な発展に続こうとしていたが、汪兆銘もその一人だった。
1905(明治38)年、孫文の二度目の来日を機に、中国同盟会が東京で設立され、汪兆銘はわずか22歳で書記長に抜擢された。そして機関誌「民報」で健筆をふるった。
24歳の時に発表した「革命之決心」には次の一節がある。
革命の決心は、だれもが持っている惻陰の情、言うならば困っている人を見捨てておけない心情から始まるものだ。たとえば子供が井戸に落ちていると聞けば、だれもが思わずその子を救いたくなるだろう。[2,p93]
3.兵乱は絶えることなく
 1912(大正元)年、辛亥革命が成功し、清朝は滅びたが、実権は北洋軍閥の総帥袁世凱が握った。その後の中国の政情について、汪兆銘は「国民党史概論」において次のように論じている。[1,p103]
彼(袁世凱)の死するや、部下の将領は四分五裂して蜂起した。その混乱状態は、今日に至るまで全く収束されていない。・・・それ以来北方の反革命家は大軍閥となり、南方の変節せる革命党員は小軍閥となった・・・かくて14年、兵乱は絶えることなく、中華民国は太陽なき暗黒となった。
 1921(大正10)年、中国共産党が結成された。この時、レーニンの秘書マーリンが、上海での共産党代表大会に参加し、孫文とも会って、新経済政策を吹き込んだ。また中国共産党員がコミンテルンの指示で、次々と国民党に入党し、主導権をとろうとしていた。
 孫文の遺書にある「革命未だ成功せず」とは、まさしくこのような内憂外患の状況であった。
4.ソ連の魂胆
 孫文の死後、国民党右派の中心人物となったのが、蒋介石であった。
蒋は、日本陸軍で4年ばかり学んだ後、1924(大正13)年に新しく設立された黄埔軍官学校の校長となった。
長年の失意の経験から、革命には近代的軍事力が不可欠であるという孫文の構想であった。
 蒋介石はその前年にソ連を訪問し、その侵略的な意図をかぎつけて、孫文に次のような報告をしている。
ソ連はまるで誠意を持っていない。・・・ソ連共産党の中国に対する唯一の目的は中国共産党をその分身とすること・・・ 彼らのいわゆるインターナショナリズムとか、世界革命とかも、その実はウィルヘルムⅡ世の帝国主義となんら変わることなく、ただ名前を変えて世間を惑わそうとするものだ。[1,p121]
 蒋介石は孫文の死後、共産党勢力の排除に乗り出す。上海でクーデターを起こし、南京国民政府を設立して、武漢の国民党中央と対立するまでに至った。
一方、汪兆銘も偶然、ソ連から派遣された国民政府最高顧問ボロディンへのコミンテルンからの訓令の内容を知り、ソ連の真意を知った。
そこには、汪兆銘、蒋介石らを駆除すること、クーデター後、コミンテルンの命令に従い党の改組を行うこと、などの内容があった。
中国共産党は、まさしくソ連共産党の手先であり、それと組んでいることは、中国の自主性を奪われることであると気づいた。
こうして汪兆銘と蒋介石の見方が一致し、両者は協力して32(昭和7)年、南京で国民政府を組織した。
5.汪兆銘・蒋介石の日中和平路線
 この前年、満洲事変が勃発していたが、汪兆銘は「一面抵抗、一面交渉」という基本姿勢を示した。その前提は、孫文の遺訓でもある「日中戦うべからず」であった。汪兆銘は青年時代に日本で、アジアの自立と解放を学んだ。現在の日本は、国際的な孤立や経済的苦境から大陸進出を企んでいるが、内心は中国との協力、提携を求めているに違いない。軍事的には抵抗しつつ、外交的には妥協と歩み寄りを求める。
 33年(昭和8)年、塘沽停戦協定が締結された。35(昭和10)年には、広田弘毅外相が議会での姿勢演説で、日中双方の「不脅威・不侵略」を強調し、日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担する、と主張した。
 この誠意に満ちた演説は、中国側に好感をもって迎えられ、一週間後、蒋介石は次のような声明を発表した。
中国の過去における反日感情と日本の対支優越態度は、共にこれを是正すれば、隣邦親睦の途を進むことができよう。わが同胞も正々堂々の態度を以て理知と道義に従い、一時の衝動と反日行動を押さえ、信義を示したならば、日本もまたかならずや信義をもって相応じてくることと信ずる。[1,p190]
 このような形で、汪兆銘と蒋介石の指導のもと、日中和平路線が着々と進められたが、これを喜ばない勢力もあった。1935 (昭和10)年11月、国民党六中全国大会で、汪兆銘はカメラマンに扮した刺客から3発の銃弾を受けた。危うく一命はとりとめたが、療養のため、ヨーロッパへ渡った。
6.「最後の5分間」から蘇生した中共軍
日中和平を喜ばない勢力の一つに、中国共産党があった。
 蒋介石は、30(昭和5)年からの数次にわたる共産軍掃討作戦を進め、36年頃には共産軍は数万人規模にまで落ち込み、蒋介石の表現によれば、掃討戦は「最後の5分間」の段階に来ていた。[3,p364-374]
共産軍が最後の拠り所としたのが、「一致抗日」をスローガンとして中国人の民族意識に訴える宣伝戦であった。
各地で在留邦人を狙ったテロ事件が続発し、日中和平を阻もうという動きが激化した。
汪兆銘は後に次のように述べている。
中国共産党は、コミンテルンの命令を受け、階級闘争のスローガンに代わるものとして抗日を打ち出していたのです。コミンテルンが中国の民族意識を利用して、中日戦争を扇動しているの私は読みとりました。謀略にひっかかってはなりません。[2上,p246]
 共産軍を「最後の5分間」から蘇生させたのが、36(昭和11)年11月の西安事件であった。蒋介石が西安で共産軍掃討戦を行っている張学良を督励するために訪れた時、突如逮捕監禁された。8年前、父親・張作霖を日本軍に爆殺され、満洲から追われた学良は、抗日意識の盛り上がりに乗じて、共産党と通じたのである。
共産党がモスクワの指示を仰いだところ、スターリンは蒋介石を釈放し、「連蒋抗日」を命じた。蒋介石を殺せば、国民党軍により中共軍が壊滅せられ、汪兆銘がトップとなることを恐れたものであろう。
蒋介石を殺すべしと考えていた毛沢東は真っ赤になって怒ったと伝えられている。[3,p374-380]
 西安事件で蒋介石と共産党との間でどのような密約が交わされたのかは分かっていないが、蒋介石は国共合作・抗日へと方針を急転換し、掃討戦を中止した。さらにこの7ヶ月後の廬溝橋での日中両軍の衝突が起こり、ここに33年5月の塘沽停戦協定から4年2ヶ月にわたる日中和平の時期は終わりを遂げた。
 (31年9月の満洲事変勃発から、45年8月の大東亜戦争終戦までを「日中15年戦争」などと称する言い方があるが、この期間は合計しても13年11ヶ月にしかならず、なおかつ
4年2ヶ月もの和平期間を無視している。学問的な用語というより、コミンテルン史観に基づくプロパガンダ用語と解すべきである。)
7.我は苦難の道を行く
 西安事件の直後、ヨーロッパでの療養から帰国した汪兆銘は、国民党副主席の地位についていたが、戦いの陰で日中和平工作を進めた。
人々は、簡単に抗日を国内統一の手段にしようなどというか、抗日戦争で負ければ我々は滅亡するのだ。いちかばちかの賭けに出て滅亡した場合誰がどう責任をとるのか。[3上,p136]
蒋介石は表に対日抗戦を叫びつつ、裏で汪兆銘に和平工作を進めさせ、また反共を信じながら、表で容共を説いていた。
しかしその間、国民政府軍は上海、南京、漢口と敗走を続け、重慶にまで追い込まれた。そして撤退のたびに、南京、武漢、長沙などの都市を焦土作戦で火の海とした。この状況下では、日本側の条件を呑んで、和平を選ぶしかないのだが、それをすれば共産軍に蒋介石打倒の口実を与える。
中日戦争の見通しは明るくない。中国を救うには日本との和平しかないと自分は考えており、近く重慶を出て、別の地から和平工作を手がけるつもりだ。どこに抜け出そうと、戦争している相手国と和平ルートをつくる役割は、周囲から非難中傷を受けるのみならず、危険も伴うに違いない。しかし、自分が身を捨てる覚悟でにやり遂げるつもりだ。[3上、p166]
 1939(昭和14)年、汪兆銘は蒋介石に対して、「君は安易な道を行け、我は苦難の道を行く」との書簡を送り、重慶からハノイに脱出して、以後、単独で日本政府との交渉を進めた。それは、冒頭の言葉にもあったように、成功すれば中国の国民に平和をもたらすが、失敗すれば末代まで「売国奴」の汚名を着せられるまさしく「苦難の道」であった。
8.革命未だ成功せず
 汪兆銘の重慶脱出と呼応して、雲南、四川、西康、貴州の四省が同盟して、対日和平に立ち上がる根回しが進んでいたが、蒋介石に阻まれてしまった。
 汪兆銘は国民政府の分裂を避けたかったが、事ここにいたって、日本政府の援助のもとに、翌40年、南京に新政府を樹立した。しかし日本政府も蒋介石政権との和平ルートを模索するなど腰が定まらず、汪兆銘政府を正式に承認したのは8ヶ月も後だった。
 1941(昭和16)年5月、来日した汪兆銘は、日本国民の熱狂的な歓迎に感激した。また昭和天皇に拝謁し、日中間の「真の提携」を願っているとのお言葉に、この一言だけで訪日目的の大半は達せられたと述べた。「日中戦うべからず」との孫文の遺訓を抱く汪兆銘は、昭和天皇と日本国民に相通ずる心を見いだしたのであろう。
 同年12月8日、日米開戦。汪兆銘は次のように言った。
この戦争は間違いです。日本はアメリカと組んでソビエトと戦わねばならないのです。真の敵はアメリカではありません。しかし、こうして開戦した以上わが国民政府はお国に協力します。同生共死ということです。[4,p83]
 44(昭和19)年3月、南京で病に倒れた汪兆銘は、名古屋で治療を受けたが、11月10日帰らぬ人となった。南京空港から公館までの道のりを民衆が詰めかけて、棺を迎えた。
 翌年、日本が敗れ、南京政府も瓦解した。孫文を祀った中山陵の傍らに作られた汪兆銘の墓は、蒋介石の指令で爆破された。その蒋介石も共産軍に敗れ、やがて台湾に逃げ込む。
汪兆銘が国民革命に一生を捧げて救おうとした中国人民には、共産党独裁政権のもとで、大躍進や文化大革命で数千万人が餓死するなど、さらに過酷な運命が待っていた。
そして今に至るまで一度も民主選挙で自らの政府を選んだことがないという点では、清朝時代の人民と変わらない。
「革命未だ成功せず」。

最終更新:2013年08月18日 02:31