直観主義

アンリ ベルクソン

あなたが腕を上げてるとしよう。あなたは自分のする運動の単純な知覚を内的にもつ。
しかし、それを外から見る私にとって、あなたの腕はまずある一点を通過し、
ついでに他の点を通過する。それらに点の間には多くの点があり、それらを数えようと
すれば作業は限りなく続く。このように、内からみれば
絶対は単純であるが、外から眺めれば、つまり他のものと関係すれば、絶対はそれを
表現する記号に対して、小銭で決して返せない金貨となる。

このように、絶対は直観のうちにだけ与えられる。
それ以外はすべて分析の領分に属する。

私がここで直観というのは、対象の内部に身をおき、その対象がもつ唯一なもの、すなわち
表現できないものと一致する共感である。(257p)


したがって、経験論は直観と分析の混同から生まれてきている。(272p)


しかし、直観は知性によってしか伝わらない。
直観は観念を超えるが、しかし伝達されるためには観念を跨らなくてはならない。
直観はできるだけ具体的な観念を選ぶだろう。具体的な観念とは、
周囲をまだイメージで取り巻かれている観念である。
言葉では表現しがたいものを、比較や比喩が暗示するだろう。
これは決して回り道ではない。それでこそ目的へ直行するのだ。
抽象的な言語、つまり「科学的」な言語ばかり話していると、
単に精神を物質的に模倣したものしか入手できない。
なぜなら、抽象的な観念は外界から抽出され、つねに空間的表象を含んでいるからだ。
抽象的な観念を手にしただけで、物質を範型にして精神を表増し、
位置転換によって、つまり言葉の正確な意味でのメタファーによって精神を考えることになる。
外見にだまされてはならない。イメージを用いる言葉が意識的に本来の意味で語っていて
抽象的な言語が無意識に比喩的な意味で語っていることがある。
精神的な世界を取り組むとき、イメージは暗示を目指す限りにおいて、
直接的な視覚を私たちに与えうる。
一方、もともと空間的であり、物を表現する称する抽象用語は
たいていの場合私たちをメタファーの中に投げ入れる。(59p)
最終更新:2013年11月20日 19:17