提督×北上 17-92

92 :クズ ◆MUB36kYJUE:2015/06/08(月) 23:30:47 ID:QjAZivQs
以前あきつ丸が加賀さんから提督を寝取る話を書いた者です
吹雪が初恋する話を書いたので投下します

  • 長い(三万字弱)
  • エロシーン少ない
  • 艦娘同士がギスギスする
要素を含むので苦手な方は注意をお願いします




 1

『八月二十日 早朝より家中取片付け塵を払ふ。驟雨の涼味喜ぶべし。午を待ちて妻と散歩す。上野に赴き精養軒に至り昼食を喫す。
海老フライ二尾、スープ。今生最後の機会やもしれぬと思ふに甚だ悲し。明日ラバウルへ発つにつき荷造りせんが故早々に帰りたり。
炊事の中途に妻泣き頽れるもかけるべき言葉思い至らずただ黙して肩抱くのみ。泣き声一層烈しくなるに後ろめたき気持ち湧き出ず。
詮方なきことと割り切るには悲愁余りに大きくただ酸鼻だ酸鼻だと胸の内に言ちたり』

 夜虫の鳴き声が耳にされる、真夏の彼誰時である。その男はむくりと持ち上げた上体を障子越しの月光に晒しながら、毛布を手繰り
まどろみに眼を細めていた。端整と形容するに足る顔は、だがどこかくたびれた印象を感じさせ、実齢三十前半とも思えぬ薄幸と気苦
労の雰囲気を放っている。それは生来の顔つきのみを要因とするのではなく、心の憔悴していることが表情にまで顕れた結果なのであ
った。
 ラバウルへの転属を命じられてからというもの、今日までの暮らしは思いのほか静謐になされた。彼も彼の妻も、足元に流れる悲し
みには意識して目を向けないようにして、ただ来ては過ぎ行く一日一日を大切に営むだけであった。なるたけいつも通りの、幸せの光
景を作る事に躍起になり、そしてそれはつい昨日の日暮れまで保たれ続けていたことなのでもある。
 東京で過ごす最後の日に思い出を反芻する外出をしてしまったがため、増幅した水が盆の縁を登攀するように妻から悲哀の情が溢れ
出た。気丈に振舞い続けた彼女の、心の底に燻っていた想いが、滂沱とする涙や嗚咽に吐露されて、また当然ながら男の方も平常心で
はいられなかった。無力感と自責の念に苛まれ、食事中も風呂の最中も、果ては最後の夜伽の際にあってももう温かみを得られる心地
ではなかったのだ。笑顔だけを心に留めてもらいたいという妻の願いは、このたった一度だけの失敗によりついに達成されることはな
かった。
 寝息をたてる妻を起こさぬよう、彼はじれったい速さにようやく蒲団から這い出した。扉の前に畳まれている軍服をそのまま崩さず
両手に抱え、居間に移動してから着替えを済ませる。洗面も音を立てぬよう気を使い、まとめておいた背嚢を背負ってしまえばとうと
う外に出る準備は完了した。
 見送る余地も残さず姿を消そうとしているのは、海軍の出征習慣に則ったこともあるが、以上に起きてよりの妻の有様へ恐怖を覚えて
いたためでもある。足元に縋られ懇願でもされたら、ただでさえ重苦しい足。もう職務を放棄するのに躊躇もなくなってしまうだろう。
個人の幸福と世界の海の平和とを天秤にかけ、後者を逡巡なしに選び取れるほど人間のできている彼ではなかった。玄関扉に手をかけて
から、せめて最後に顔だけでも見に戻るかと葛藤し始める惰弱さである。結局五分も佇立した後にようやく、ゆっくりと差し出された
右足が敷居を跨ぐに至ったのだった。
 空は紺色に薄明るくなっている。
 まったく酷い朝だと、彼は思った。昨日の雨と夜露の湿り気が、地表の汚さを混ぜ合わせながら空気に戻り、肺を冒してくるようだ
った。呼吸は苦しく、目眩も酷い。その作用によるものか、一瞬妻の目覚めた後の姿が脳内に虚像として想像され、もう振り返ること
もできず足を速める。
 戦争の終わるまで、帰ってはこれない。それが何時になるのかも分からない。一年か、五年か、十年か……。
 飛行機の中にあって、彼はとうとう自身の抱く寂寞と郷愁が、そのうちに自身そのものを壊すであろうことを悟ったのであった。何
時開放されるとも知れぬ境遇に、毎夜毎夜云千キロの向こうを思い続けるのは酷だった。だから妻の顔も忘れ、上野の街も忘れ、端か
ら現地の人間であったかのように振舞おうと腹を据えたのである。妻の寝顔を見に戻らなかったことは、覚悟を決めてしまうには都合
が良かった。
 無論湧きだそうとする思い出をすぐに押さえ込むことはできないが、意識して心に検閲をかけ続ければ虚像は幽く薄らいでゆく。楽
になる決意を固めてしまうと、幾らか気も和らいだらしい。迫る胸の痛みから懸命に逃避しているうち、いつの間にか彼はリクライニ
ングに身を預けすっかり眠りに落ちていた。
 気丈に振舞っていた日々の中では、今日という日が来る事をずっと考えないようにしていたわけだ。それを逆転させるだけなのだか
ら、何も難しいことはない。忘れることは得意な男なのである。
乗り継ぎのため、一旦ポートモレスビーに降り立ったのは、東京を発ってより六時間の後。存外気候にそれほどの変化は感じられな
かった。ただ窓越しに見える椰子の木の列や英語を基準にした案内看板からは、十二分に異国の情緒が放たれていたし、何より雑踏す
るロビーにたった独りでいるという孤独は胸に堪えるものがあった。
 この空港でラバウル行きの飛行機に乗り換える手筈であったが、その便は本国が彼だけの為に特別に手配してくれたものであった。
受付へパスポートを手渡すと、裏から仰々しくスーツの大男が顕れた。何か空恐ろしくなる“over here”の声音と共に、ゲートの脇、
観葉植物に挟まれたドアの方へと案内される。
 専用の裏口を使うのは初めての経験であった。滑走路を車に乗って走るのも、搭乗橋を使わずに昇降タラップで乗るのも、そもそも
小型のビジネスジェットに乗るのも全部初めてのことである。自分ひとりだけの為に一体何人が動いていたのかと、機内のソファに座
ってから後ろめたさに頭を抱えたくなった。
 離陸の動きは機敏だった。いち早くその空港から離れられるのは、気持ちの上では楽だった。大型機よりも揺れは大きく、地に足の
着いているうちは電車の中にいるようで、空に浮かんでからは洋上のフェリーの甲板に座ったみたいな感覚がある。およそ二時間のフ
ライトは、すなわち酔いとの闘いであった。夕日の射し込む小窓を割り砕き、荒ぶる風に身を晒したい衝動に駆られもした。着陸体勢
に入る頃には、身を上げておくこともできずソファに寝そべり、呻き声を漏らし続けている始末である。吐き気はまだしも脳の蕩ける
ような目眩は、朝の空気を思い出させるから本当に勘弁ならないものがあった。
 ようやく地に降り立つことができたのは、夕日の輪郭が天穹へ滲み出し、地平線が一層朱く光っている頃合だった。機外に出て待望
の新鮮な空気を肺一杯に吸い込むと、異郷の香りが仄かに物悲しい。湿気って熱い夏の空気は東京のそれと似ているはずなのに、きっ
と都会の穢れが無いからなのであろう。慣れない清らかさが鼻につく。
 顔を上げ辺りを見渡してみると、また何ともその印象に劣らぬ殺風景な景観があるのだった。ただ真っ直ぐに整備された滑走路がど
こまでも一本伸びているだけ。一切人工の建築物はなく、林が壁のように四方を取り囲んでいた。
 昇降タラップの一段目に足をかけると、佇立し敬礼する少女の姿が視界の隅に入ってきた。髪は黒、玲瓏たる肌は夕日を写し橙色に
淡く染まっている。強風に煽られたスカートが掲揚された旗のように揺れ、プリーツ同士が叩きあってバタバタと大仰な音を発してい
た。
 田舎の小奇麗な女学生としか思えないその立ち居姿には、烈々とした場違いの感がある。眼窩に収まる大きな瞳は、期待と緊張にきら
きら輝いている風だった。

 「はじめまして、吹雪です! よろしくお願いいたします」

 声は顔つき以上に凛とし高く、まるで童女のようである。
 男がタラップを降りきると、彼女は一層背筋を伸ばし大きなその瞳に彼を見据えた。吹雪という名を耳朶にしてようやく、男は眼前
のこの少女が、上層部から聞いていた“意思を持つ新兵器”であるという事に気がついた。
 深海棲艦という超常生物が世界の海洋に出現して以来、早いものでもう四ヶ月になる。海面に浮かぶ人工物を無作為に破壊しつくす
その亡霊共は、通常兵器の一切を無効化する特殊な剛性を兼ね備えていた。出現から一週間も経たずして人類は海洋を簒奪されるに至
り、そしてその状況は好転もせず依然世界に安全な海路は絶無である。
 深海棲艦へ対抗するには、また深海棲艦と同種の力が必要であることに海軍はようやく気がついたのだ。二ヶ月前に行われた大規模
作戦。多大な物的人的資源を引き換えに捕縛した、たった一匹のイ級駆逐。その徹底的な解析によって、人類は新たな兵器を得るきっ
かけを掴んだのだった。

 「……艦娘?」

 上官より伝えられたその力の名が、独りでに口に上っていた。

 「はい! 駆逐艦、吹雪です!」

 口元に笑みを浮かべた彼女は、今一度胸を張り、誇らしげに名を宣言する。
 それは少女の形をしている。
 それは人と同じように意思を持ち口を聞く。
 それは前大戦の艦の記憶を引き継ぐ。
 詳細に聞き及んでいた事ではあったが、実際にその姿を目の前にすると、この痩躯にあの脅威へ対抗する力があるのか疑念を抱かず
にはいられなかった。
 外見の仔細を眺めていると、彼女は気まずげに視線を逸らして、眉を困らせた。

「あ、あの……司令官」

 「……すまない。これからよろしく、お願いする」

 答礼しつつの言葉が幾らか吃りぎみだったのは、果たしてどのような言葉遣いが適正なのか判断しかねていたからだった。上官の立
場になったとて威張り散らす真似はしたくない。ましてや彼女は、話が本当ならば人類の救世主といっても過言ではない存在なのであ
る。なるたけ丁寧に受け答えしようと考えるのだが、しかし眼前にあるのは野暮ったく垢抜けない少女。膝を折って目線を合わせて頭
でも撫でてあげたいような雰囲気を放っているから、また当惑してしまうのだった。男は、遠い昔に病気で死んだ、自分の従姉妹のこと
を思い出していた。
 まさかこの齢に年頃の娘へどう接すべきか悩むような羽目になるとは、しかもそれが国の安保に関わる重要な仕事の上に起こってい
る問題なのである。彼は短く嘆息をつき、どうせその内に丁度良く収まってくれるだろうと楽観して、喫緊の話題を口にした。

 「この飛行場ってトイレはあるかな」

 「はい!? いえ、ありませんが……。ここからだと鎮守府のトイレが一番近くて、歩いて十五分ほどです」

 「……間に合わない。ごめん、ちょっとそこで吐いてくる」

 男は小走りに、林の茂みへ急いだ。


 外見から、この吹雪という娘は何にでも生真面目なタイプなのであろうと予想した彼であったが、果たしてそれはまったく正解であ
った。穴を掘り、胃液を吐けるだけ吐いてからそれを埋め、背嚢から水筒を取り出して口を濯ぐ。その一連の行為の最中、彼女はずっ
と彼に寄り添い背を擦っていた。無論男としてこれほど無様なこともないので、離れて待機しているよう初めての命令を下しもしたの
だが、彼女は頑として首を縦に振らなかった。曰く、司令を支えるのが秘書艦の役目。即ち看護も立派な勤め。司令は艦娘を使役する全
権を担うが、同時に艦娘の仕事を不自由なく行わせる義務も背負っている。その義務に背く命令は承服しかねるし、また客観的な見地
に立ってもこの判断は妥当である、とのこと。気が弱いかと思いきや、存外強情の娘でもあるらしい。
 胃の中を空にすると、砂地へ水が立ち消えになるようにすっかり気持ち悪さが無くなった。ケロリとした顔に茂みを出る彼は、無論
気恥ずかしさや情けなさに苛まれ何でもないような顔を演出していたのでもあるが、兎角吹雪に先立ち颯爽と歩を進めた。
 鎮守府への道は滑走路の南東の端、取って付けたように伸びている細道の先にあるとのこと。

 「大丈夫ですか?」

 と繰り返し問いかけてくる彼女に適当な笑顔を返信しながら、辺りの情景を眺めていると、郷愁の憂いに胸が痛む。上野を思い出そ
うとする思惟の奔流を慌ててせき止めようとした彼は、また知らずのうちに苦々しい顔となっていたらしい。吹雪の気遣う声が止むこ
とはないのであった。
 彼女の先の言葉どおり、十五分も歩くと突然視界が開けた。鉄柵の門戸が迎える先、ラバウル基地はまるで、南国リゾート地のペン
ションが連なっているかのような佇まいに敷設されてあった。どの建屋も玄関扉が大きいか、そもそも簾が掛かっているだけで間仕切
りの無い構造になっているのは、この地域の気候に合わせた様式なのであろう。またよく見れば一等大きな工廠らしき建物以外、どれ
も高床構造に作られており、何とも異国情緒に溢れた景観だった。

 「執務室と司令官の部屋があるのはあっちです」

 圧倒され立ち尽くしていた彼の前へひょっこりと身を滑らせた吹雪は、一番手前に佇立する平屋を指し示した。

 「随分、イメージと違う」

 「お気に召されませんか?」

 「いや……ただなんだか、旅行に来たような気分になる」

 「私も最初はそんな風に思ってました」

 後ろ首に手を当てながら可愛らしくはにかんだ吹雪に、彼もまた表情をほころばせた。
 その建物に近づく道すがらに、嘔吐の途中に浮かび出ていた疑問を口にする。

 「吹雪君はいつ来たの」

 「三日前です」

 「三日。……こんな広いところに三日も独りでいたの。寂しくなかった?」

 「妖精さんがたくさんいたので大丈夫でした。施設の勝手を調べるのにも忙しかったですし……。って、子供扱いしないでください!」

 「失礼。どうにも小さい娘の扱いには慣れてなくてね……」

 「……そ、それはわざとおっしゃっているのですか」

 口角のにわかに上がっていることから真剣に怒っているわけではないらしいことを察し、しかし「子供扱いをされたくない」という言
葉は本心であろうから、接し方の指針にもなる。冗談を交えつつも、彼は彼女との距離を真剣に探していて、またそれは彼女も同じな
のだろう。

 「独身でいらっしゃるのですか?」

 話の流れからして湧いて当然の疑問だった。とっさに否定の言葉を吐こうと口を開きかけた彼は、だが飛行機の中での決意に思い当た
り、逡巡した。決意に則せば首肯すべきであるが、今更の名残惜しさが急に増大し、顎を引くちょっとの動作さえをも引き留めるのだ
った。
 言葉に詰まった彼を見るや、吹雪はさぁっと顔を青くした。

 「す、すみません! あの、深入りするつもりはなかったんです!」

 「いや、いいよ。……一応、独身、かな」

 訥弁にそう言い終えてしまうと、途端悔悟の念が湧き出してくる。
 婚約者がいたがこのラバウルへの転属をきっかけに別れたというような、でまかせの創作話が口から漏れ出た。それは逡巡に言い詰
まったことへの羞恥をかき消すためだけのものであったが、彼女の関心と気まずさの混じった表情を見るとまたそれも居心地悪く、話
に区切りをつけたいのにそのタイミングが分からないといった、泥沼の焦燥に駆られる。結局建屋の中に入り、執務室の場所を吹雪に
教えられるまで、その話題は継続したのだった。
 ダンボールの乱雑に重ねられたその部屋には、まだ新居特有のニスっぽい香りが残っていた。熱も篭っていたので窓を開けると、岸
壁に波の打ち付ける音と一緒に、清涼とまでは言えないにしろそれなりには心地よい風が、さらさらと吹き込んでくる。右手手前には工
廠の大きな建屋が聳え、クレーンがゆったりと身を振っていた。航空障害灯の赤色がもう随分目立っている。左手の護岸された海辺も
すっかり暗く、白波が異様に映えていた。

 「こっちが私の部屋かな」

 廊下に続く扉とは別、彼が半間の押し戸を指し示して聞くと、吹雪はおずおず首肯した。その仕草が露骨に物憂げであったから、

 「どうかしたかい」

 となるべく優しく聞こえるよう努力した声をかけると、何か心の中にせめぎ合っているのか、十秒も沈黙してから

 「いえ、なんでもありません」

 そう、微笑を作った。

 「そう? ……吹雪君とは、多分これから長い付き合いになると思うけど」

 「は、はい!」

 「えっとつまり、何かお互いに気を使い続けるような関係ではいたくないと……少なくとも私はそう思っているんだけど、君はどう?」

 「あ……。わ、私も、司令官と同じ思いです」

 「そうか、よかった。……無理強いしないけど、もし聞きたいことがあるなら遠慮しないでくれていいよ」

 なんと堅苦しい諭し方だと心の中に自嘲した彼は、だが彼女がスカートの裾を握って必死に言葉を選び取っている様子を見て、一先
ず胸を撫で下ろした。
 過剰な遠慮や気遣いへ釘を刺す必要があろうことを彼は察していたのだった。頑張りすぎる傾向を持つ年端もいかぬ少女となれば、
そういったケアも大切だと思われた。果たして幾分かの緊張を顔に顕しながらも、吹雪はそれを口にする。

 「司令官は、後悔していませんか。こんな所に、来てしまって」

 胸を抉る質問だった。しかし彼女の抜け目ない視線が表情の仔細を伺っている故、しかめ面になるわけにはいかなかった。
 遠慮しないよう強いた手前、また自分も彼女に対しては素直でなければ誠実とは言えない。既に重大な嘘を一つついたが、だからこ
そこれ以上は誤魔化したくなかった。

 「……無いと言えば、嘘になる。でもたとえ命令されていたのだとしても、ここに来たのは自分の意思だよ。だから大丈夫」

 自分に言い聞かせるように提督としての決意を口にすると、吹雪も一つ、頷くのだった。


『八月二十一日 ラバウルが夕陽、朱く近し。国の暮らし忘却せんと思い定めたりしもこの日記焼捨つるに忍びず。帰還すべき場所まで
も忘るるは本末転倒ゆえ日々拙文記す習慣継続せんと思い定めたり。駆逐艦吹雪清廉な娘なり。秘書艦に任命す』


 2

『九月二十四日 秋暑熾なり。気付けばラバウル赴任より一月過ぐ。辣腕無き故戦力増強遅遅なれど今ラバウルが艦保有数二十を越し
たり。今朝雷巡の建造開始せむ』

 午後のラバウルは蒸し暑い。もうずっと水風呂の中に入っていたいと思わせるほど、その気候は苛烈で過酷だった。
 執務室は空調設備によって全体快適な温度と湿度を保っていたが、生憎この提督は窓も戸も閉め切られた環境にあると、どうしても
じっとしていられなくなる性分なのであった。窓を開けては熱風の吹き込むのに耐えられず、閉める。席につくと落ち着かなくなり、また
窓を開けに腰を上げる。そんなことを十回も繰り返していたのだから、もしかしたら軽度の閉所恐怖症なのやもしれない。今まで精神
科に掛かったことはない為詳しいことは知れないが、兎角この提督には、窓の閉ざすことを条件とした涼味の享楽を受け入れることは
できないのである。
 深海棲艦の出現する前、日本本土にあった頃は、机の前にふんぞり返っていられるような立場にはなかった。寧ろ泥臭い外仕事が多
かったから、別段この性質が何か仕事に支障をきたすようなこともなかった。
 たった数ヶ月の戦争が多くの将官を非業の死に追いやった。本来この任に就くべきであったのは、適性があり才気にも富んだ、智勇
兼備の人であった。この提督も無能とまでは言えないにしろ、本国からの臥竜鳳雛であるべしという期待を背負うには余りに乏しい両
の肩。その日も吹雪を旗艦とする第一艦隊、その任務成功の知らせを聞くや、彼は書類仕事を放り出して颯爽と外に繰り出してた。お
目付け役のいない今、何をしたところでそれを引き止める者はない。流石に戦闘指揮はさぼれないにしろ彼女らも帰還くらいは通信無
しにできるわけで、ともなればこの提督、心の中の天使と悪魔の対決は既に終えているのだった。
 大方そういった事情で鎮守府の敷地内を散策する彼は、だが照りつける太陽から逃避したいのでもあった。既に常習化していると言
ってもいいほどにサボりの回数を重ねていた為、それを都合よく解決できる場所も熟知していて、足の向かう先に一切迷いはない。
 執務棟から二、三十メートル。景観にそぐわない無機質の壁を持った建屋は、この基地内に最大の大きさを誇る一施設でもある。中
では小型のクレーンが右往左往し、素材の箱を持つ妖精があちらこちらを駆けてゆく。ラバウルの工廠は今日も変わらず、各々が任を
果たさんと騒然たる様子だった。
 中は吹き抜けの広い一間だが、脇の階段を昇った先には吊り廊下とそれぞれ四隅に小部屋があって、まるでひさしのように内側へは
み出ている。提督は慣れた様子に、北側の部屋の前にまでするする進んでゆくと、元より開かれている扉を二回ノックした。
 特徴的なおさげを揺らし、中の彼女は振り返った。本部よりの資材提供のうち、特殊な支給の管理を担当するその娘は、提督の姿を
見るなり大仰な嘆息をつく。

 「また、サボりですか?」

 呆れた声音の明石は、それでも薄らと口元に笑みを浮かべていた。

 「人聞き悪い。視察視察。邪魔だった?」

 「まぁ、私はいいんですけど……。この間吹雪ちゃんが愚痴っていました」

 「へぇ。なんて?」

 「うちの提督は良い人だけど、私がいないと仕事をしないって」

 したり顔の明石から思わず視線を逸らした彼は、つまりそれだけ胸に痛みを覚えていたわけでもある。あの吹雪であるから、尋常な
ストレスでは上官への愚痴など吐かないであろう。或いはそれくらいの悪態をつけるほどに距離が縮まったとも解釈できるが、兎角影
で自身の仕事ぶりを批判され、それに何も感じないほど真摯さを欠く彼ではなかった。

 「真面目になろうとは努力しているんだよ。ただ上の要求が過大だと……ほら、萎えるじゃない?」

 思わず惨めに言い訳をしてから、こういうところが駄目なのだと気付き自嘲する。目を伏せた彼を見、想像以上に深手を与えすぎた
らしいことを察した明石は、

 「そこの椅子、どうぞ」

 そう言って場を取り持つのだった。
 何時ものキャスター付きの安物椅子に腰掛けると、吹き抜けに面した窓から一階の作業の様子が見て取れた。建造機からの物静かな
脈動が、遠くからでも感じられる風である。
 何度眺めても、ぞっとしない光景だった。一個の知的生命体が、数多のホースに繋がれたあの得体の知れない装置からむくむくと生
まれてくる。しかも年端もいかぬ少女の形に、闘争を目的としてである。人類にとって必要だからと倫理に背くことを是するのは、この
提督には辛い事だった。
 装置を眺める彼の横顔を暫時観察した明石は、また吹雪の話題から逃避もしたくて視線の先の物について口に出した。

 「明日の朝までには建造完了するらしいですよ。例の軽巡の娘」

 「軽巡? 雷巡って話ではなかったか? たしか名前は……北上」

 「知らないんですか? 最初は軽巡、練度をある程度上げると雷巡として改造できるようになるんです」

 「初耳」

 やれやれと頭を振る明石をよそに、提督は実際かなり大きなショックを受けていた。まだ軽空母も配備されていないこの艦隊におい
ては、先制雷撃ができる雷巡は貴重な戦力として勘定できるはずだったのだ。難度の高い海域の攻略に、丁度乗りだそうとしていた手
前、この見落としは大きな痛手だった。

 「……今日帰還したら、吹雪君は一段階目の改造が可能になる、はずなんだ」

 「はい」

 「一ヶ月だな。秘書艦に任命すると大体一ヶ月で改造可能になる。建造終了次第北上君を秘書にしつつ、いつもの第一艦隊メンバー
も出撃させて、一ヶ月計画で全体に練度を上げていこうと思うんだけど、どうかな」

 「私に聞かないでください。そういうことを判断するのが、提督のお仕事です」

 ぐうの音もでない正論に提督は後ろ首を掻いた。
 少々時間をかけすぎるプランニングとも思えるが、かと言って現状のまま吶喊するのもリスクが大きいわけである。どうせいつかは
無能と謗られる身、今更性急に功を収めようとしたところでぼろもでるだろう。なれば犠牲の無いまま任を終えるのが、得策かと思わ
れた。
 兎に角練度を上げることに集中しようと今一度腹を据えたタイミングに、明石がつと容喙してきた。

 「吹雪ちゃんが妬きそうですね」

 「あの娘が旗艦の誉れに執着するタイプだとは思えんが……」

 「いえ、そういうことじゃなくてですね……」

 生来鈍感な彼であったが、流石に彼女の言わんとしていることを察する程度には情事の経験を積んでいる。

 「もういい歳したおじさんだよ、私は」

 そう一笑に付そうとするも、まだ明石の瞳は真剣だった。

 「分かっていませんね。最近の子は提督みたいなちょっと抜けた年嵩の人に弱いんですよ」

 「まだ知り合って一ヶ月しか経ってない」

 「だからこそです。大人は臆病だから相手のことを深く知らないと恋愛感情を持てませんけど、子供は違います。もっと深く知りた
い、もっと独占したい。そういう自分の欲求に根ざした想いを恋愛と認知するんですよ!」

 いつになく熱弁を振るう彼女を、提督は意外な心地に眺めていた。なるほど明石とて、外見からすればそういうことに夢を見る年頃
なのかもしれなかった。興味はあれど自分がどうこうしたい訳ではなく、他人の観察によって心を満たす。その倒錯は、こと女学生あ
たりには普遍的である。

 「私から言わせれば、君もまだ子供」

 「でも、吹雪ちゃんよりかは大人です」

 「耳年増」

 「し、失礼ですね!」

 身を乗り出して柔く睨む明石に向かい提督が次に口に出したのは、からかいの範疇を逸脱する冗談であった。それは彼にとっての自
傷行為。心にもないことを口にするのは、以前の決意を強かにするためである。

 「君はどうなの」

 「何がですか」

 「年嵩の抜けている男は好き?」

 「なっ……」

 ぱっと頬を染めてあからさまに狼狽した様子の彼女は、暫時の後にその反応自体に羞恥を覚えたか、

 「提督は私のタイプじゃありませんね!」

 顔を背け、慌てて取り繕うのだった。果たして提督も、本国の記憶が虚像にちらつき、またこんな事が言えてしまえる程度には順調
に忘却の途を歩んでいる事実に胸を痛ませ、更には下種な企みに明石を巻き込んだ事を悔悟して、もう一杯一杯になっていた。
 悪の道にも三つある。己が正義を貫くために悪に堕ちた確信犯。己が愉悦を享楽するために良心を切り捨てた愉快犯。そして最も忌
むべきなのが、己が利益の為に悪を為しながら表面的には嫌だ嫌だと、これは致し方なくしている事だと後悔の念を垂れ流す、外道。
提督は自身が腐ってゆくのを、もう諦観の境地に受け入れている。だからこそ、そしらぬ風に苦渋の表情を浮かべることができるのだ
った。


 誰もいない執務室をその目に入れたとき、吹雪の失望は甚だ凄まじかった。元より提督にサボり癖のあることは知っていたが、出撃
を労うという事、つまりは艦娘を大事にするという最低限の任くらいは全うできる人だと、知らずの内期待していたらしかったのだ。ま
してや今回の戦闘は最初の改造が可能となる節目の出撃であったのだから、普段温厚な吹雪とて憤慨に至るのにも無理はない。
 他の艦娘たちは提督が不在と知るなり、さっさと入渠に向かってしまった。ことに龍田などは、

 「あらぁ、私もうくたくたよ。吹雪ちゃん、提督への報告任せてもいい?」

 と悪びれる様子も無く、首肯したのも見ずして部屋を後にした。独り取り残されてみるとむくむくと不平感が湧き出してきて、それ
が提督への苛立ちに更に拍車をかけたのだった。
 窓を眺め、何時来るかも分からない彼の姿を捜し、その内に足が疲れてきたから執務机の前にある高級そうな椅子にも座った。無論
普段の彼女からは考えられない行動であるのだが、胸中を渦巻く莫大な怒りがあらゆる無礼、無遠慮も気に掛けなくさせていた。それ
から五分、十分と経ってゆくと、何故わざわざこんな仕打ちをする提督ごときを待ってなくてはならないのかと、この待機の目的その
ものに疑問が湧いて出てくる有様で、書置きをして自身も入渠しようと決意を定めるのにも結局一刻は掛からなかったのである。
 執務机の上に適当なメモ帳などは見当たらなかった。山積されている紙の束は本国との書簡であるとか承認待ちの契約書などで、一
枚たりともチリにできるものではなかった。
 まさかこういったデスクワークに所用をメモできる白紙が必要でない訳が無い。多少の躊躇はあったが、吹雪は仕方無しに脇の引き
出しを開けて、中を漁り始めたのだった。
 一番上の引き出しには電卓やら万年筆のインクやらの、机周りの日用品。舌打ちしつつ二番目の引き出しを開けてみると、B5のノー
トが整然と七冊ほど重なって置いてあった。表紙に何か書き込みはなく、しかし角が縒れ浮き上がっている様から全くの新品で無いこ
とは察せられる。
 一番上のノートを手に取って中をぱらぱらと捲ってみたのは、断じてこれの正体について覚えがあったからではないし、ましてや彼
への当て付けに弱みを握ってやろうと悪巧したからでもない。ただ、書置きできる紙が欲しかった。本当に、本心から、それだけのこ
とだったのだ。
 まず目に付いたのは日付だった。それぞれのページ一番上から、簡潔な文章を挟みつつ日付が羅列されてあった。八月二十二日から
始まり、大体二、三日おき不定期に、ノートの四半分の更に半分あたりまで書き込みがあり、最新の記事は九月の二十四日だった。そ
れが提督の日記であることに気がつくと、さしもの吹雪も一瞬怒りを忘失し、罪悪感と焦燥に顔を上げて慌ててあたりを見渡した。
 問題なのは今手にしているノートは最近のものであって、引き出しの中に彼が本国にいた頃のものであろう日記がまだぎっしりと詰
まっているということだった。つまりは彼の過去を仔細に知り尽くせる機会を、思いがけず手に入れたということである。
 婚約者の話を聞いた。その顛末が語られると、目の前の男が間違いなく異性であったのだという確証のようなものが閲歴されて、一
層興味が深くなった。もっともっととせがんでみても、余り口を開きたがらない彼である。よほど深く心に傷を残した出来事なのだろう
と謬見を持った彼女は、最近になると気を遣ってしまって、その話題を出すこと自体忌避するようになっていた。
 吹雪にはまだ懸想の自覚がなかった。だからなぜこんなにも提督一個人に拘っているのかも、分からないままだった。漠然と心の熱
の滾っているのを不思議な心地に眺めるばかりで、その熱情をどう形容するのか決めあぐねていたのである。
 いつの間にか引き出しの中のノートにまで手を伸ばしている自分を客観視したとき、自身が愚かに思えて仕様がなかったのもそうい
った心理故だった。
 上から二冊目、最初のページ最初の日付は、一年前の八月九日であった。文を追ってゆくと、海のまだ平和な時分、何時かの海軍将兵
を目指し下っ端の身分に走り回る快活な彼が幻視された。まだ直接は見たことの無い東京という街、ことに上野の清閑と歓楽が混ざり
合った様子は吹雪の憧憬を大いに煽った。そして、そこかしこにありありと刻まれた、一人の女の影。
 最初吹雪は、この女性こそ提督の話に上った婚約者であり、家を共にしているらしいことについては同棲しているためだと解釈した。
実際ノートの半分を過ぎるまでは、たしかにその考えで違和感を覚えることもなかったのである。しかし段々と、例えば言葉遣いや接
し方、鼻につく所帯染みた気だるさや、何よりどれだけ読み進めても一向に結婚への意識が吐露されない事へ不審の念が募っていった。
 読み終わりすかさず三冊目にまで手を伸ばすと、とうとうその疑念が確信へと変わった。四ページ目、二年前の六月、ジューンブライ
ドに浮かれる彼の嬉々とし踊る文面を見たとき、吹雪の胸に今一度失望の風が凪いだ。
 どうしてと口の中に呟いていた。どうして嘘を吐いたのか、どうして今まで黙っていたのか。荒ぶる心の、仮初の静謐さえ儘ならな
いうちに、およそ最悪のタイミングに戸が開く。

 「すまない!」

 提督は肩で息をしながら、椅子に腰掛け顔を伏せる彼女の姿を視界に入れた。
 艦娘としての尋常ならざる反射神経が、彼女の手を敏捷かつ粛然と動かし、意識の向くより先に日記は綺麗に仕舞われていた。だか
ら彼女には焦燥もなければ罪悪感もなくて、ただどうして配偶者のいる事を隠したのか、それを詰問したい葛藤に駆られているばかり
である。

 「吹雪君? あの、本当にすまなかった。言い訳もできない。……報告は後にしてくれて構わないから、兎に角入渠を済ませてくれ。
……何か、その。困った事とかは、なかったかな」

 矢継ぎ早でありながらところどころ吃りつつ、提督の声音は気遣わしげだった。
 冷静さを失ったときにも一歩身を引く判断ができるのは、彼女の戦場における聡明さがそのまま日常にまで作用している結果だった。

 「大丈夫、でした。入渠してきます」

 怒りの篭らない平坦な物言いは、彼を必要以上に逼迫させることとなったが、兎角吹雪はなんとか執務室を後にすることができた。
何故嘘を吐いたと問うてしまえば、日記を盗み見たことが露見する。無意識に、彼女は信頼の危機を脱したのだ。


 夜の執務は沈欝とした空気の中、既に行程の半分を終えていた。入渠を終え改造まで済ませた吹雪はしかし依然怒りを継続させたま
まで、沈黙に耐え切れなくなった提督が気散じな雑談を振る度に、露骨にぷいと顔を背けていた。返事を期待する眼差しが後頭部に感
じられなくなるまで、ずっと壁の方を向く。一見愛らしい仕草ではあるのだが国家の一代表として艦娘を預かる提督という身、何より
これから北上の件を話さなくてはならないわけであるからただ慈しんでもいられない。

 「吹雪君、こっちを向いてくれないかな」

 何度繰り返したかも分からないこの台詞を吐き出して、しかし彼女もまた態度を軟化させることはない。提督は意を決すと、腰の横
に握られていた彼女の手を軽く掴みとった。

 「頼む。どうしても話さなくてはならないことがあるんだ」

 手の触れた瞬間驚いた表情に振り向いた吹雪は、目が合ったことに気がつくと慌ててまた顔を逸らした。無論、提督もこの程度で傾
聴の態度を得られるとは思っていなかった。立ち上がり、手を離さないままに正面へ立ち、

 「頼む」

 再三度の伺い立ては、真剣な顔と声音を維持するのにかなり労を取った。彼女の顔をよく見てみると漫画のキャラクタのように頬を
ぷっくりと膨らませていて、古典的に過ぎる怒りの表現に危うく破顔しかけたのだった。
 十秒、二十秒と場の空気の止まったまま時が流れ、彼女の横顔を見つめるのにも息が詰まってきた頃合に、ようやく吹雪の譲歩があ
った。

 「なんですか」

 時計を見れば、およそ五時間ぶりの会話である。

 「……海域攻略の進捗が悪い。これから一ヶ月掛けて艦隊全体の地力を底上げしたいんだ」

 「はい」

 「その……明日建造が終わる軽巡を秘書艦にしたいんだ。先行雷撃能力を獲得する為に、集中的に練度を高めたい」

 言い終えるまでの時間はとてつもなく苦痛だった。驚きに見開かれた彼女の瞳が次第に失望の色を湛えてゆくと、手を握っているこ
とさえも簡便できなくなる。こんな状況に追い込んでしまった要因は紛れもなく自身にあって、だからただ徒に彼女を傷つけるしかな
くて、弁解もできず、慰める資格もない。
 吹雪が口を開くより先、臆病な彼は逃げの手を打つのだった。

 「吹雪君は……本当に今日までよく仕事を果たしてくれた。こんな私なのに支えてくれて、尽くしてくれて……。お礼がしたいんだ。
何かして欲しい事とか、欲しい物とかがあったら言ってくれないかな。何でも、用意するよ」

 「……何でも、ですか」

 「何でも」

 日記を見たことに対する罪悪感とそれに背反する憤怒、彼に報いを与えたいという欲望とが吹雪暫時の思考に渦巻いた。それら欲求
全てを勘案したときの妥当な着地点は、存外にすぐ見つかった。歪みのない性根、白壁に極限まで近づいた無垢さは、自身を見つめな
おす時にはかなり有利に働いてくれるのだ。

 「司令官の、昔の話が聞きたいです。どんなところに住んでいたのか、とか。“元婚約者の方はどんな人だったのか”とか」

 提督の一瞬の動揺を目敏く見つけて、吹雪は内心嗜虐の愉悦にほくそ笑んだ。
 確実に、一定のダメージを負わす事に成功した。日記を盗み見たことは知られずに、だが彼の口から彼自身をより深く知れるのだ。
婚約者とは即ち、本土に残した細君なのだから。
 今までの仕打ちから考えればまぁ妥当な埋め合わせだと、そう口の中に無理やり言ちて、苛まれる良心から目を逸らす。
 夜の雑務、残り半分はそのまま朝へと繰り越された。

『九月二十五日 記載なし』



 3

『十月三十日 午後より雷鳴あり。湿気甚だしからず。明日の出撃任務無事完了したれば北上一段目の改造可能となる。ラバウル艦隊
一応の陣容整えたり。
追記 現在時刻朝四時半。不眠症未だ続く』

 ラバウル泊地の医務室は食堂棟の隅にこじんまりと、まるで隠されているかのように設けられてある。艦娘は人の形をしながら怪我
の修復に医学療法を用いる必要はなく、故にこの設備はほぼ提督だけの為に備えられていると言っても過言ではないものであった。軍
事基地にしては余りに小さな規模であるのもそういった理由があっての事で、手術室も無ければベッドも無い。レントゲン設備も見当
たらないしパソコンさえ置かれてはおらず、机の上にはたった一枚のカルテが乱雑に転がっているだけだった。窮屈な室内を更に狭苦
しくさせている白い棚には、薬瓶が整然と威圧的に並べられていて、プレートに種類が分けられているようだった。ともすれば学校の
保健室の方がましとも思えるほどだが、生憎勤務中基地の外には出られ規則であるからここで我慢するより仕方ない。たとえ目の前に
している医者がおおらかな表情をした体長二寸ほどの妖精だったのだとしても、この提督に選択の余地などないのである。

 「今日はどうしました?」

 提督が椅子に座ると、そいつは低く響くバスの声で、なんとも医者らしい余裕を醸し出しながら言うのだった。

 「最近寝つきが悪くて。睡眠薬を貰いたいんですが……」

 「眠れないんですねぇ。蒲団に入ってからどれくらいで寝れますか?」

 「二時間とか、三時間とか。結局徹夜しちゃう日もあります」

 「いつ頃からそうなったかとか、分かります?」

 「一月前、くらい」

 「重症ですねぇ」

 医者妖精はひとつ唸ると、仔細顔に何か思案しているようだった。
 嫌な予感があった。提督が医務室に訪れるより前にこうならなければいいなと願った展開が、今眼前に再現され始めているらしい悪
寒だった。

 「あの、ほんとに薬さえ貰えたら私はそれでいいんですけど」

 果たして、言外の意を汲み取られることはない。或いは察した上で黙殺されたか、妖精はにっこり微笑むと

 「不眠症、ことにあなたのような入眠障害の要因はストレスです。雑草は地上に生えている部分だけ毟っても、今度はもっと長く再
びにょきにょき生えてくる。根ごと引き抜かなくてはなりません。カウンセリングも平行してやっていきましょう」

 さも当然、といった風にのたまうのだった。

 「提督職は忙しいんです。中々そう何度もここに足を運ぶわけには……」

 「しかし不眠を何時までも放っておくわけにもいかないでしょう? 暇を見つけてこつこつ治療を継続することが肝要です」

 「じゃあ、今回だけでもいいんで薬貰えませんか。次はきちんと時間をとって来るんで」

 「医者は嫌いですか」

 「ええ」

 「どうして?」

 「カウンセリングされるから、かな」

 その小さな身体を揺すって哄笑した妖精ととりあえずといった心緒にはにかんだ提督は、互いが互いに察し合いつつのけん制をするよ
うな奇妙な連帯感を覚えるのだった。どちらが譲歩するか、進行する会話が根比べの様相を呈すると、やはり頭を下げる立場にある提
督の方が不利だった。
 彼はどれだけ今忙しいのかを説明し、妖精はただうんうんと頷いた。互いに笑顔を保ったまま雑談の皮を被った対決が幾ばくか展開
され、だが結局提督が粘れたのは一刻ばかりである。

 「では、また暇を見つけてここに来ます。そのときにカウンセリングと、お薬を」

 「なるべく早くに来てください」

 席を立つと、キャスター椅子がカラカラ鳴った。
 執務室への帰路についたその足に食堂にまで顔を出したのは、決して先に待つ業務を億劫に思ったからではない。もっともどちらに
せよ褒められた理由でないことに違いはないのだが、決してサボりの悪癖が頭をもたげたとか、そういった事ではないのであった。実
情はより切実で逼迫している。
 食堂のカウンターに顔を覗かせ、一番近くにいた妖精に声をかけた。

 「ごめん、間宮さん呼んでくれる?」

 幾らくたびれた外見をしていようとも一応はこの基地の最高責任者。声を掛けられたそいつは大きな首肯を一つ、ハチドリのように
駆けていった。
 呼ばれ奥からのっそり姿を現した間宮は、もう既に提督の訪ねてきた理由を察しているのであろう。半目に眉をしかめた表情である。

 「やぁ、間宮さん。ごめんね忙しいのに」

 「私は構いませんけど……。どうかしましたか」

 「……お酒ちょうだい」

 「またですか」

 いつも、何をされようとも鷹揚としている彼女の、露骨に溜息を吐く様というのは貴重だった。指先を額に当てて、ゆるり二、三頭
を振って、彼女は眇めた眼を提督に寄越した。

 「今日で何度目ですか? 前回これで最後にするって確かにおっしゃいましたよね」

 「予定が狂ったんだ。医務室のけち妖精が、カウンセリング受けなきゃ睡眠薬あげないって言うんだよ」

 「ならうければいいじゃないですか」

 「嫌だ。ぞっとしないねあんなの。だからお願い! あれがないと眠れない」

 「中毒ですよ」

 「まさか。誓って言うけど、昼間はほんとに飲んでないんだ。眠る前だけ」

 「……今回だけですよ、ほんとに。少し待っててください」

 面倒に思われているのか、手こずるだろうと予想した酒の調達は存外にすんなり達成できた。帰ってきた間宮の手にはいつもの一升
瓶が握られ、透き通った液体が中でちゃぷちゃぷと優雅に揺れていた。度数五十の泡盛、この基地においては本来調理酒として使用さ
れるはずの物である。
 間宮曰く、魚の臭い消しやかえしなど普段使う分には安価な日本酒でも十分なのだが、時折特殊な調理を行うのに泡盛があると味が
引き締まる、とのこと。あまり体質的に酔わない提督にとって、アルコール度数のとにかく高いこの酒がラバウルに給されているのは
都合が良かった。
 コップ二杯を一気に飲んで、そのままベッドに横になれば数分のうちに意識が飛んでいる。ホットミルクやら整理体操やら様々試し
果てた末に見つけた不眠解消法であるが、提督とて無論これが危険と隣合わせの野蛮な手段であるという自覚は持っていた。いくら寝
れなくても毎晩は飲まず、最初二、三時間は自力で眠る努力をして、どうしても昼間辛くなりそうな予感のある日にだけこの手段に頼
っていた。
 だから決して中毒になっている訳ではない。少なくとも彼自身はそう判じているわけなのだが、カウンセリング中この事実が露呈する
のを嫌ってもいるから、深層心理には疚しさを抱えているらしかった。何より、中毒患者には中毒の自覚がないというのが世間一般の
通例的な認識である。
 一升瓶を手渡すとき、間宮の目に浮かんだのは憐憫の情なのやもしれなかった。


 執務室に戻ると、部屋の中央に置かれたソファへアザラシのように身を横たえた艦娘があった。深緑のセーラー服が縒れるままに白
い大腿やウエストを露出せしめ、特徴的なおさげを胸元に潰しながら、北上はゆったり提督へ一瞥を寄越した。

 「遅かったじゃん」

 「そう? お前が早かっただけだろう」

 この艦娘に相対するとき、提督は口調をくだけさせるきらいがあった。彼女は彼女自身に完結していて、だから心配する必要もなけ
れば心配されることもない。現に入渠と改造を済ます間に医務室へ行ってくる旨の事を言ったときも、彼女はその理由も聞かずただ頷
くだけだった。これが吹雪なら事細かに事情の一切を報告しないことには、廊下に出ることさえも叶わなかったであろう。気を遣わな
いでいいという居心地の良さが、彼を提督という役職から剥離させてゆくのだった。

 「それ何」

 提督の手に握られた瓶を指し、北上が問うた。

 「泡盛」

 「ふぅん。……お酒?」

 「強い、酒」

 「いいねぇ!」

 「いや……あげないよ」

 「なんだ。これから酒盛りでもするのかと思ったのに」

 興味を無くすや仰向けに臥した北上は、数分のうちにすやすや寝息をたて始めた。このしどけない仕草は特別今日の任務が忙しかっ
たとか何かしらの事情に拠るものではなく、いつの間にか習慣として根付いてしまっているただの昼寝である。

 彼女は秘書艦としての適性を欠いていた。何事にも向き不向きがあるということを身を持って知っている提督は、だから彼女を責め
る事も、ましてや折檻を加える事もしないで、ただ甘く傍観するだけ。最近では寧ろ一緒に海岸線を散歩したり基地を抜け出したり、サ
ボりの共犯者を見つけた風なのでもあった。
 そんな状態にあっても執務にそれほどの遅れが出ていないのは、不眠の時間がそのままツケの支払いに使われているからだった。と
もすると今の自身は、肉体の健康を対価に精神的な安息を獲得している状態とも言えるわけである。そう考えると不眠症を害為すもの
として完全に治療してしまうのも、どこか気が引けてくるのであった。
 外気とは裏腹、執務室は存外冷房に冷える。北上にブランケットをかけてやってから、提督は執務を再開させた。寝息を環境音に珍し
く集中が持続して、ふと顔を上げた時の部屋の暗さにぎょっとするほど。時間の切り取られたような錯覚はしかし眼前に積み上げられ
た署名済みの書類が否定してくれて、その高さに自分でも驚くくらいだった。久方ぶりに感じる心地よい疲労、充足感が気だるく窓辺
の夕焼けに融けてゆく。
 結局、夕飯の時間になるまで北上は眠り通しであった。


 夜分、小腹の空いてくる亥の刻。珍しく脇に佇立し書類の片づけを手伝っていた北上が、つと声をかけてきた。

 「ちょっと耳に挟んだんだけど」

 「なに」

 「改造が済むと、提督って何でもひとつ言う事聞いてくれるんだよね?」

 「……どこ情報だよ、それ」

 聞いておきながら、その答を知っている彼である。吹雪は素直な娘で、かつ年頃の少女らしく迂闊な面があった。気の置けない友人
に――具体的には睦月などに、虚実織り交ぜたあの過去の話の断片をうっかり口にだしてしまったのであろう。どうしてそんなこと知
っているのかと問われれば、当然その夜のこと自体についてまで話さなくてはならなくなる訳で、それを偶然居合わせた北上が耳朶に
したと、そういった顛末が考えられた。

 「提督、私、あのお酒が飲みたいな」

 露骨に媚びた声を作って、北上は提督の肩にしな垂れた。

 「年齢的にだめだろ」

 「私って、今何歳?」

 「外見年齢的に駄目だろって話だ」

 幾ら耳元に囁かれた所で、彼女はまだ深緑のセーラー服が似合う年端もいかぬ少女であった。色気などというものを自然に醸し出せ
る訳もなく、ただ外見だけ取り繕った仕草に胸の高鳴ることもない。この提督は既に異性の本質的な性欲の発露を何度も目にしてきて
いるから、上辺だけの児戯を真に受けることもなかったのである。

 「今の日本に艦娘を取り締まる法律はないよ」

 しかし昂然と放たれたこの論理を、果たして覆すだけの舌も備わっていない。結局幾らかの押し問答の後北上がソファに腰掛けて勝
手に杯の準備を始めた段にもなると、もう彼も諦めて食堂から肴を調達しに行くのだった。
 間宮の目を盗みつつまず適当なナッツをくすね、それから深皿にこんもりと氷を盛った。食料の保存されている大型冷蔵庫からレモン
やライム、更に片隅の飲料保存場所からコーラや牛乳やオレンジジュースを一本ずつ拝借する。加えて炭酸水を引っ張り出してそれら
全部を、危うげではあるが何とか胸に抱え帰路につく。

 ストレートで飲むのは睡眠薬の代用としてであって、普通に楽しむ分にはやはり何か割るものが必要である。酒に不慣れなはずの北
上であるから、いっそカクテルにしてしまうのが無難だと思われた。艦娘の身体構造は非戦闘時においては普通の人体に極限まで接近
するとの研究結果もあり、つまりは彼女のアルコールの摂取量にも十分注意を払わねばならないのである。濃度を薄めても味まで薄ま
るわけではないカクテルは、摂取量をコントロールするにも都合が良かった。
 執務室に戻ると手にコップを弄ぶ北上が、燦爛とした眼を寄越してきた。

 「随分、なんかいろいろ持ってきたね」

 「色々作ってみようと思ってね。コーラとか、オレンジジュースとか……」

 「ロック、だっけ? 氷入れてストレートで飲むんじゃないの?」

 「君にはまだ早いよ」

 席について、しかし思えば泡盛のカクテルなど作ったこともないのだから、偉そうなことばかり言ってもいられない。日本酒には柑
橘系が合うという話を思いだし、提督はとりあえずオレンジと輪切りレモンと氷とを彼女のグラスにいれて、後から少量の泡盛を注い
だ。

 「飲んでみて」

 「乾杯はしないの」

 「……あ、そっか」

 毒味させてみることにばかり意識が向いていて、言われるまで自身のグラスの事を忘れていたのだった。提督も彼女のとまったく同
じ物を作り、それから気の抜けた乾杯が行われた。北上が恐る恐るといった様子にグラスを傾け小さく喉を震わしたのを確認した後で、
彼もそれ以上の慎重さをもって中の液体を嚥下する。
 きっかり一口飲み終わると、互いが互いを伺うような暫時の視線の交錯があった。映画の見終わった後などにも発生するあの緊張で
ある。初手の感想を言うには、まず相手の感想を知っておきたいという矛盾。

 「どう?」

 先に口を開いたのは提督だが、放たれた文言は逃げ口上のそれだった。北上はいつものポーカーフェイスを幾らか綻ばして、

 「これが大人の味かぁ」

 と感心した風に言った。

 「まずい?」

 「ううん。まぁまぁかな」

 「それ飲んだら次はコーラだな。色々試してみよう」

 泡盛の量が多かったか、少し苦みと酸味の調和が甘みを押し退けすぎている感がある。提督個人としては別段文句のないバランスだ
ったが、北上には優しくない味だろうと思われた。まぁまぁと形容した時、彼女の顔に少し苦悶の色が滲んだ事をこの男は見逃さなか
ったのである。
 都合コーヒーシロップを幾つか持ってきていたので、北上のグラスに一つ入れた。果たして酒に調和するか不安があったが、彼女の
一口あたりの消費量が増えたことから味に問題をきたす結果にはならなかったようである。
 オレンジ割りを飲み終える頃には、彼女の頬は淡く色づいて少し上体も揺れていた。

 「酔った?」

 「たぶん、大丈夫。コーラちょうだい」

 濁った眼に提督を見据え、小首を傾げて催促をした。グラスを差し出そうと屈んだ彼女のセーラー服の隙間から、色白い鎖骨が映え
ていた。薄地のキャミソールが膨らむように垂れて、あわや下着に縁取られる胸元の曲線まで露わになりかけていた。
 背徳の情感に思わず提督は目を逸らして、彼女の身を案じる言葉も出てこずに机の上のコーラ瓶に視線を集中させた。たとえどれだ
け女の裸に耐性があろうとも、歳をとってしまうと幼年者への色情には敏感になるものである。
 端的に言えば目のやり場に困る状況と形容できるが、実際にはそんなコミカルな言葉にはまとめきれない深刻な問題をも孕んでいた。
北上は目尻に皺を寄せ、口角を釣り上げ――つまりは提督を誘惑する意図を持ってわざと胸元を見せていたのである。
 それを認めたときの彼の思惟は、まず何故という疑問の念に支配された。無論仲の悪いことはない。しかしそれでもたかだか一ヶ月
の付き合いであるし、到底身体を許す間柄にはなり得ない親密さであったはずなのだ。
 年の功とも言えるか、彼の選択した手段は理性的であった。北上のグラスへコーラ瓶を傾けつつ、空いていた方の手は自身の胸元へ
伸ばされて、人差し指と中指にとんとんと胸骨を叩いた。

 「見えてるぞ。隠せ」

 「んぅ? あぁ……」

 北上がしらじらしく上着の背中側の裾を引っ張ると、胸元の垂るみはきゅっと締まった。たったそれだけの手間で露出を無くせられる
のだから、やはりわざと見せていたということなのであろう。あきれた風に極短い嘆息をついたのも、その証左なのだと思われた。
 コーク泡盛を一口、舐めるように飲んだ後、彼女は意を決したように上目遣いに切り出した。

 「ねぇ提督。怒らないで聞いて欲しいんだけどさ……」

 「もう既に少し怒ってるけど」

 「……あぁー、そう、なんだ」

 牽制の言葉は一定の効果を発揮したらしい。口を噤み顔を横に向け半笑いに頬を掻く北上の様子を見て、提督はこの気まずげな沈黙が
ずっと続てくれることを願った。ここで話題が終わってしまえばこれがただの思い過ごしであったのだと、何も深刻なことなどなかっ
たのだと、各々の心の裡はどうであれ体面は何とか繕われるわけである。

 だが現実には、彼女の仕草はほんの少しの躊躇いを表していたに過ぎず、たった十何秒かの沈黙の後彼女は膝に手を置き身を乗り出
して続きの文句を口にしてしまったのだった。

 「私を、抱いて欲しいん……だけど」

 怯えと緊張とを含んだ作り笑みに、僅かに正面から背けられた顔。それでいて視線は提督をまっすぐ射抜き、眼には媚びの色が顕れ
ている。
 返答の文言を捜すのに手間取っているうちにその無言を肯定と解釈したか、北上はソファから腰を上げて彼のすぐ正面へと立った。
 黒のスカーフの結び目へ、細く艶やかな指が伸びた。手品のような器用さにほとんど撫でるのと変わらない僅かな動きの中で、いつ
の間にかリボンは解かれ、皺だらけに膨らんだ布が二房垂れ下がるだけになる。

 「冗談はよしてくれ」

 結局逸る思惟においては、月並みな言葉しか浮かばないのであった。

 「提督もさぁ、溜まってるんじゃないの? ここに赴任してきてもう二ヶ月だし」

 「私が君達と信頼関係を築くのはそれが仕事であるからだ。……言っている意味はわかるな。それ以上ふざけたことを言ったらぶつ
ぞ」

 怒気を孕ませた声音は、計算の上に作られたものである。そもそも彼には、毛頭打擲気する気などない。彼女の突然のこの狂態には
当然理由があるはずで、それを引き出すためにはまず何より彼女に冷静さを取り戻させる必要があったのだ。
 ほんの少し、屈辱的な発言に対する本心の怒りを織り交ぜて、酔いの興奮を沈めさせる空気を演出する。提督の思惑は一縷の差異無
くこの執務室に展開されたが、北上の暴走はそれにもめげない強固な意志に基づくものであった。

 「ごめんね提督。でもぶたれたくらいじゃ、艦娘の装甲には傷一つつかないよ」

 泡盛の一升瓶へ手を伸ばし、それから提督の方へ身を乗り出すと、彼女は空いているほうの手を彼の胸元へ置いた。
 提督の迂闊は、つまり目の前の娘が尋常ならざる兵器であるという事実を忘れていたということだった。押さえつけられた胸には欠
片も圧迫を感じない。だのに気付けば、ソファから尻を浮かせるどころか、ちょっと身を捩ることさえもまったく叶わないのである。
それこそ彼女の骨は全て鋼鉄によって形成されていて、この華奢な腕の指の節までもが何万馬力の油圧機構を持っていると言われても
不思議には思えないくらいだった。
 三つ編みが暴れるほど大仰に一升瓶を呷った北上が、口腔へ留めた液体に頬をぷっくり膨らませて、乱暴に提督へと口付けた。
 大方、驚きの念はあまり無い。ただここから場をどう収めればいいのか、その方法が思いつかず苛立ち焦っているだけだった。
 ぬたつく舌と触れた箇所悉くを熱く焦がす液体が、容赦なく口へと割り入ってくる。子供が悪ふざけでするように一気に頬を凹ませ
流し込んでくるものだから、口の端からは相当量の泡盛が零れ落ちてスラックスをびしゃびしゃに濡らしていくのだった。最後口の中
にまだ泡盛が無いか、確認するように一巡舌を廻らして、彼女はようやく身を離した。
 嚥下してからアルコールの吸収されるまでの僅かな時間が、彼女を説き伏せる最後のチャンスとなるのであった。しかし北上は既に
二口目の泡盛を呷っていて、

 「待て……」

 提督が明瞭に発音できたのは、たったこれだけであった。再びの口付けと口移しの悦楽が、後の言葉をただのうめき声と化けさせた。
 それから何巡とその行程が繰り返されたのか。息が浅くなり頭の重みが厭に大げさに感じられ、その場に流れる空気、ソファの柔ら
かさ、胸を押す掌。そういったものの実感が随分希薄になっている。時間の流れさえ正しく認識できなくなって、現実が自分から乖離
してしまったような感覚が容赦なく彼の思考を霧散させていった。
 熱病に臥した病床の上と似たような思惟の霞み具合だった。だが彼女の香りは克明に肺臓から脳幹へと突き抜けて、口移す物もない
ただの睦みとなったキスの甘美もより生々しく、性の感触だけは寧ろより鋭敏に彼を苛んだ。
 スカートのファスナーが降ろされる。ショーツの淵とそこから伸びる滑らかな大腿が、鋭角に露出してゆく。留め具を摘む指からふと
力が抜けた一瞬、引っ掛かりを無くしたそれは力の抜けたように地面へと転落していった。
 下肢の完全に露わになった羞恥に駆られながら、だが北上の思考は依然として沈着と目的の達成を目指していた。それは例えば提督
を篭絡させるだとか独占するというのではなく、性行為という手段そのものが即ち目的となっているのである。北上は彼のことを恋慕
っているわけではなかった。
 艦娘として、人の意識を持つ生物として現代に転生建造された彼女の、まず地に下り立ち最初に抱いた感情は、人と同じ生を謳歌で
きるという未来を前にした喜びだった。呼吸をして、二本足に歩いて、口を使ってものを食べ、瞼を瞑って眠りに落ち、鼓膜が音を手
繰りよせ、触れた指先が感触を伝える。そういった人の当たり前を自分が体験できるという事が嬉しくてならなかったのである。
 彼女が人類種へ憧憬の念を抱いたのは戦後の復員輸送任務がきっかけだった。当時足を無くしていた彼女は工作艦として、鹿児島に
停泊する復員輸送艦の改修整備にあたっていた。あの忌々しきクレーンが艦を直し、ひいては海外に残された人々を助けるのに役立つ。
本土の地を踏む元海兵を見るたび、安堵と誇らしさを綯い交ぜに、またどこか羨望の念をも感じてしまうのだった。彼らにはこれから
帰るべき故郷があり、何もかも無くなった日本を復興させるという使命があり――長い未来が待っている。解体されゆく自身とは対照
的なその姿が、生を謳歌する事への強烈な憧れを胸に刻み込んだのだった。
 男を知る絶好の機会を前に、果たしてこの娘に欲求を押さえ込むことなどできるわけがなかったのだ。バックルを緩めさせ濡れたス
ラックスと下着を強引に剥いでも、提督はもう僅かな身じろぎさえしなかった。性交という、人が生命維持に支障のないものの中で最
も執着する行為を実践しているということが、彼女の中で性的な意味外の興奮を呼び起こさせているのだった。
 既に陰茎は充分な硬度を持っており、彼女の眼前にいかめしくそり立っている。生娘の下手なキス程度で、しかも泥酔した上で相手
から一方的に舐られた程度でこんな有様になっているのは、その行為に至るのがただ久しぶりであったためである。つまりは極当然の
生理反応としてそうなってしまっただけの話なのだが、北上は自身の技の純然たる結果によるものと誤解し、性への自尊心を高めるば
かりなのであった。
 まだ僅かばかり胸の裏に残っていた知識の欠乏を基にする慎重さが、この謬解によって失われてしまった。或いは血管を這いずるア
ルコールが、彼女の判断力を鈍らせていたのやもしれない。提督に覆いかぶさるようにソファへ両膝を乗せた北上は、ショーツまで脱
ぎ去るのは恥ずかしく、必要なところだけの布地をずらし彼の先端をそこへとあてがった。
 淫裂は触れた指を湿らす程度には濡れていたが、処女を散らすには不足だった。戦場に身を置く艦娘の稟賦としてある程度の豪胆さ
を持ち合わせている事、また目的を達成するにあたり過程に頓着しない性格であったのは不幸である。北上は深呼吸の後、足の力を抜
き去って彼のものを一気に最深にまで迎え入れた。

 「……痛っ、ぃ! っぐぅう……!」

 牛挽きにあった時絶命に至るまでに感じる痛みはこれと同じものであろうと、北上は千々に裂かれ霞む頭に思った。額に珠の汗が滲み
目尻から涙が溢れる。犬のように速まった息が情けなく思えて無理に腰を動かそうとするも、少し力を入れただけで鋭く尖った氷の粒
が脊髄を這い上がるような、烈しい痛みに苛まれた。
 ぬたりと、滑る感覚があった。最初その要因を愛液によるものだと思ったのは、男性の感触を得た身体が痛みへの対応に敏捷に反応
を寄こしたのだと考えたためであった。だから視線を下に向けたとき、結合部からソファへ滔々と血の流れ出ている様を目にして、北
上は非常に大きな衝撃をうけた。
 彼女にも破瓜の知識はあったが、まさかソファを真っ赤に穢すほどにまで血が溢れ出てくるとは思ってもみなかったのである。大し
て濡れてない処女の秘所へ一気に肉槍を突き立てた結果、膣壁に大きく外傷を負ってこんな惨事になったわけだった。つまりは不注意と
慢心による当然の結果である。
 提督の肩に手を置いて、何とか腰を浮かせて引き抜いた。栓を抜いたみたいに、ごぷりと音の鳴ったような気がした。色白の太もも
に一筋、二筋と血の轍が刻まれ、それらは膝にまでするする滑り降りると朱色の水玉模様をソファへと描いた。
 横目に提督のものを覗き見ると、またその外観もグロテスクの極みにある。先から根元までべっとりと、原色の油絵の具にまみれた
様に紅色に染まりきっており、段々萎びてゆくのが深海生物の触覚を思わせた。
 到底、行為を続ける事などできない。さしもの北上とて、そう結論付けざるを得ない状況であった。腰はまだズキズキと、焼けた鉄
杭に刺されているかのように痛んでいる。辺りには何か、血の香りも漂っているらしかった。明確に吐き気まで感じないにしろ、それ
に類する内臓からの気持ち悪さが彼女の気を萎えさせていた。
 提督は既に昏倒しているから、たった一人の力によってこの処理を済まさなくてはならないのである。今更の悔悟と自嘲の念が、胸
の内を虚しく埋めていった。彼の血染めの半身を拭うのにティッシュ一箱のうちのほとんどが消費され、僅かに残った四、五枚ばかり
をずっと痛むそこに宛がっている。
 そういった段に、心がぽきりと折れたらしい。もう後片付けをする気力もなく、ショーツを履くのさえ億劫に思え、気付けばそんな
無様な姿勢のままに眠りに落ちているのだった。


 翌朝は悲鳴によって目が覚めた。意識を失ったタイミングがまったくバラバラであった両者だが、この起床については同時になされ
たもので、またクロック数の落ちた脳内に言ちた言葉も同一のものだった。即ち、しまったと思ったのである。
 開け放たれた執務扉の前でまるで殺人現場でも見たかのように口を手で覆う吹雪は、二人の視線を受け止めると走ってその場を後に
した。慌てて時計を確認すると時刻は七時を十五分過ぎた頃合。朝食に来ないのを心配して様子を見に来たところこのような惨状を目
にしたと、そういうわけであるらしかった。

 自身の手元、ソファの上に血の染みを認めて、提督はひとつ嘆息を吐いた。それは複合的な要因に思わず口から漏れ出たものであっ
たが、中でも彼の心緒を一番に傷つけていたのは、北上に迫られている最中、自身の細君の存在をすっかり気にかけていなかったのを
思い出した事だった。確かに忘却することを望み、またラバウルではその存在をなるたけ認知しないように振る舞ってきた彼であった
が、まさか貞操に関わる事態にあってまでその姿勢が維持されるとは思わなかったのである。世間からは愛妻家との評価を得ていた。
また自負もあった。最近の不眠の遠因にはホームシックがあるのだろうし、毎日日記に向かう間だけは戒めを解いているのだ。
 提督は何か空恐ろしくなって必死に本国の自分の家の外観、内装、それから妻の顔立ちから身体の肉付きを脳内の虚像に思い浮かべ
た。それは解き方のわかっているパズルを一から組み立てるようなごく簡単な作業であった。事実記憶は鮮明に滞りなく溢れ出てくる
ようであったが、終わってみると額からは珠の汗が流れ、手はガタガタ震え、息は詰まっている。

 「提督。ごめん……なさい」

 彼のそんな表情を曲解したか、北上の声音は彼女にしては珍しいほどの真剣さであった。

 「謝るなら最初からするなよ馬鹿」

 「うんまぁ、ね?」

 眠りから覚めて以来、初めての発声は幾らか思考を現実的にさせた。吹雪への弁解をどうするか考えながら眼は敏捷に彼女の様態を
確認し、今後すべき事をその重要性によって順序立ててゆく。

 「どこまでやったんだ」

 「提督ぅ、それ聞くの? そりゃあもうズッコンバッコ……」

 「真面目に答えろ」

 寝起きの悪い提督である。本人にそんなつもりはなくとも、その声音にはある種の凄みがあって、北上は慌てて襟を正して真面目に
受け答えするようになる。

 「挿入れはしたけど、痛すぎて抜いちゃった。それでそのまま血拭いていたらいつの間にか寝ちゃったらしくって」

 「入渠してこい」

 「いや、大げさだよそんな」

 「人間なら病院送りにさせられるような案件なんだよ。風呂に入ってればなんでも治る便利な身体してるんだから、言う事聞いてさ
っさと行ってこい」

 自身の非人間性を指摘されたように思え北上は少しの怒りを覚えた。だが、現在の立場上まさかそれを大っぴらに発露させるわけに
もいかず、大人しく頷いて側に放られたスカートとショーツを身につけるのだった。
 どうせシャワーを浴びたいとは思っていたんだと、心の中に呟く事でわだかまる感情を押さえ込んだ。いざ執務室を出ようかという
時、不愉快を背負ったその背中へ提督は言葉を継ぎ足した。

 「昨晩の事は忘れよう」

 「……うぅん。一生に一度は言われたかった台詞だねぇ」

 「少なくとも私は忘れるからな。今後私の前でこの日の話をする事を禁止する。いいな」

 「こんなイイ身体の味を知って、忘れられるの?」

 北上の冗談に対し、彼の返答はあまりに辛気臭かった。

 「忘れる事は得意なんだ」


 吹雪の心情は、この一ヶ月捏造を畳なわらせるばかりであった。自覚無き思慕の念は、熱情の合理的な解釈を求めるあまりに歪な形
へと改められた。即ち嫉妬は不信へ、寂寥は屈辱へ。滾る感情の答えを彼への慕情と求めるのを、意識の埒外に避けていた。彼女の生
真面目さが僅かでも淡く、律儀さが少しでも緩かったならば、あるいはこの歪は生まれなかったのやもしれない。非倫理的な感情を肯
定するある種の図々しさを持ち合わせていなかった事が、良くも悪くもこの少女の運命を決定付けた。身を寄せ合い眠るあの二人の姿
を目にしたとき、彼女は思惟の歪みを矯正する機会を永遠に失ったのである。
 一ヶ月前の業務引継ぎの時、吹雪は北上の態度や雰囲気を決して快く思っていたわけではなかった。提督の自堕落な性質を鑑みれば、
ある程度の真面目さを持たない者に秘書の任など務まらないことは明白だと思われた。何事も楽なほうへ逃げようとする北上の稟性を
感じた彼女は、表情にこそ出さなかったものの胸の内に敵愾心を強めていた。
 秘書の役職を解かれることについて、どこか面白くない思いを抱いているという自覚はあった。吹雪はその由来を、彼と接する時間
を奪われる事への嫉妬として解したのではなく、提督を支えるにふさわしくない艦娘が役職に宛がわれたという不信に押し付けたのだ。
業務がどんどんと滞っていって、最終的には自身に泣きつき懇請する提督の姿を妄想しては、湧き出す苛々を収めている。
 一週間が経ち、二週間が経ち、寧ろ仕事の能率が上がっているらしいことが知れたとき、彼女の絶望は甚だしかった。自分勝手なこと
と知りながら、酷い裏切りにあったかのような烈しい怒りを覚えたのだ。
 ある日の廊下では、二人が親密そうな様子に会話している場面を見た。自身の部屋の窓から、二人が仕事を放り出して海岸を散歩し
ているのも目にした。自身には見せた事の無い彼の気散じな笑顔が、子供と大人、部下と上司、そういう隔たりを意識させ、一層募る
はずの嫉妬の念もただ歪んでゆくばかり。
 少女の繊細な心は泥沼の苦しみに苛まれ、三週間も過ぎると毎晩涙が枕を濡らしていた。逃げ道の無い責め苦の続いたこの一ヶ月はま
さに彼女にとっては地獄の季節で、それを耐え抜いた果てにまみえた結末があの情事の場面だったのである。
 その夜、秘書職に復帰できる喜びを抱きながら久方ぶりに穏やかな心緒に眠りについた。目覚ましより早く希望の焦燥に目を覚ました
彼女の、その時の心情などもう語るには及ばないだろう。執務室を飛び出した後、だが呼吸は驚くほど静謐だった。
 遅れて食堂に入ってきた提督に対して、吹雪は事情の一切を聞かなかった。彼に対しては、あの場面を見たことをすっかり忘れたか
のように振舞うと腹を決めたのである。彼女なりの決意の示し方は、奇しくも彼と同一の方法だった。

 その日の朝食が済んだ後、入渠施設から艦娘宿舎へと通ずる外廊下に立っていると、一刻もしないうちに当の北上が恬然とした様子
に歩いてくるのが視界に入った。遅れて吹雪に気がついた彼女は一瞬露骨に顔を顰め、それから何か諦めたように短く嘆息をつき、彼
女の前に立ち止まるのだった。

 「どうかしたの」

 至極迷惑そうな語調に臆さず、吹雪は訥弁ながらに言うのだった。

 「北上、さん。……提督には、奥様がいます。……に、日記に書いてあったんです。私、隠れてそれを読んで……あの、信じてもらえ
ないかもしれないですけど、本当のことなんです。提督には本国で帰りを待っている奥様がいます」

 聞き終え、北上の慧眼はすぐさま吹雪の欺瞞を見抜くのだった。話された内容の真偽などどうでもよい。重要なのは吹雪が倫理を盾
にして、彼と自身との関係を消滅させようとしている事そのものであった。熱情に浮かされ潤んだ吹雪の瞳を見れば、これが純然たる
正義感によって放たれた言葉ではない事など楽に知れた。
 即ち吹雪はただ嫉妬しているだけなのだ。その感情が醜いと思うから、倫理的問題を隠れ蓑にして行為を糾弾してくるわけなのであ
った。

 「今後提督とはお酒を飲まないし、夜を一緒に過ごしたりもしない。誓って約束するからここを通してくれない」

 「……本当に約束してくださいますか」

 「本当に、約束するよ」

 一歩、二歩と横にずれると、北上は荒々しい歩調に歩き出した。

 「……やっぱ駆逐艦ってうざいわ」

 擦れ違いざまに明確な悪意を持って放たれた罵言は、吹雪の純粋な心に傷を与えた。それが端緒となって、わだかまっていた想いの
数々に一時の間に胸が一杯になって、吹雪は堪らずその場に頽れて嗚咽を漏らした。
 もう彼への慕情を認める術は残されていなかった。提督には既に結ばれた人がいる。故にああいったふしだらな真似はするべきでは
ない。北上を責め立てた文句はそのまま彼女自身にも向けられていた事だったのだ。公然とそれを口にしてしまった手前、今更掌を返
せるわけもない。彼女の心を苦しめる最たる要因は、彼女の生真面目な性質そのものであるのだから。
 吹雪の初恋はこうして、始まらずして終わったのだった。

『十一月一日 今宵月冴えわたりぬ。南国に漸く秋の色滲みたり』


<完>



+ 後書き
120 :クズ ◆MUB36kYJUE:2015/06/09(火) 00:11:18 ID:3E66EVT6
以上で完結です
ほんとうに長々と失礼しました


これが気に入ったら……\(`・ω・´)ゞビシッ!! と/

最終更新:2023年04月19日 13:42