最悪の気分だ。
夕べの時点では何も無かった癖に起きてみればこれだ。
いや、厳密には起き上がらず寝床に着いたままだ。
天井に罪はないがそこへ向かって質の悪い咳が吐き出される。
それに共鳴するように私室の扉は叩かれる。
許可等無用とばかりに把手は捻られ、盆を持った駆逐艦霞が不服の表情で姿を現した。
ベッドのサイドテーブルに盆を起き、霞は棘のある声で説明していく。
「間宮さんからお粥と漬物をもらってきたわ。これくらいは、食欲なくても全部食べること。
それから、明石さんから風邪薬ね。用法は書いてあるから、しっかり飲むこと」
分かった分かった。
霞は艦娘ではなく"艦"護婦に転職した方がいいのではないか。
と、こんな下らない冗句、干上がったように腫れて痰に塗れた喉をわざわざ震わせてまで口にする価値はない。
口に出したところで寒い目で罵倒されるだけだ。
説明を終えた霞が腕を組んで此方を見下ろす。
「このクズ。忙しい時に風邪なんか引かないでよ、だらしがない」
罵られる運命はどの道同じだったようだ。
まあ罵られても仕方が無い。
だらしがないのは自覚している。鎮守府稼働の激務に耐えられず体調を崩す等。
只着任したてと言うことで、幾分か大目に見て貰えたりはしないのだろうか。
「すま……」
「喋らないで、移るから。
じゃ、私は向こうにいるから何かあったら呼びなさい。外に出るならマスクはしていなさい」
私の言葉等聞く価値もないとばかりに、霞は捲し立てて背を向ける。
扉の先は執務室だ。できる書類だけでも見付け次第片付けてしまうのだろう。
「……早く治しなさいよ」
……む?
扉の把手を捻る直前、霞は何かを言っていただろうか。
ここには自分と霞しかおらず、屋外から聞こえる朝の喧騒も遠いものだったのだが、
それでも頭と意識に錘のかかった状態の所為か、その小さい声は聞き取れなかった。
今の自分に霞を引き止める気力体力はなく、只咳をするばかり。
霞は私に目をくれることもなく無愛想に出て行った。
喉が痛くて粘ついて物を通すどころではなかったが、起き上がって霞の持ち込んだ食事に手を付ける。
お椀に並々盛られた粥と、小皿には漬物が。
栄養云々の前に、まずはエネルギーを取らなければならないだろう。
何とか時間をかけて処理する。
薬も服用して寝床に潜る。
霞は、こと執務に関しては私も教わる事がある程優秀だが、権限上通せない物もあるだろう。
それでも霞への負担が倍増するのは確か。
さて何か礼をしてやらねば。
しかし何をすればいい。
この鎮守府は設置されたばかりで、自分も同時に着任したばかり。
そして一度改造した事もまだ記憶に新しい程度には付き合いが浅い霞の事はよく知らない。
そもそも自分から何か贈り物をして霞が喜ぶ保証もない。
どうしたらよいのか、鈍痛に見舞われた頭ではまともに思考等出来ず、深海に意識を沈めた。
……………………
…………
……
最悪の気分だ。
分かりやすい、恐怖で身が震えると言った類のものではないが、悪夢を見た。
風邪を引くと安眠も出来なくなるのか。
いや、安眠出来ない程体調を崩した結果の風邪なのか。
卵と鶏の問答か。分からない。
「ん、しょ……」
「!」
しかし、そんな事よりも理解に及ばない事があった。
何故霞は私の寝床に潜ってきているのだろう。
シングルベッドで眠る私を無理矢理壁際に押しやって、布団に潜り込んでいる。
何をやっているんだこいつは。
こっちは病人だぞ。
寝汗で臭うし湿っているし、移るんだぞ。
体を回転させ霞に背を向ける。
「目を合わせなさいって何度言ったら分かるのよ、クズ」
「移るだろうが」
何時もの調子で罵倒されても今回はそれに従わないぞ。
只でさえ提督としての面目も無いのに、あまつさえ風邪を秘書に移したとなるともう目も当てられない。
屑でも何でもいいが霞はこの布団から出ろ。
「馬鹿ね、艦は病気にかからないの、忘れた?」
……忘れていた。
体を回転させて布団の中の霞に顔を見せる。
霞は、きっ、と此方を睨んでいた。
これも頭痛があるからと言う事で大目に見てくれたりは、いや口説いな。
しかし一つ反論したい事がある。
「朝は移るって言わなかったか」
「……クズ司令官を黙らせるためにああ言っただけよ」
こら、目を見て言いなさい。
そんな反論は、質の悪い咳によって阻まれた。
布団の外に向かって菌を放ってから、少し距離を開けて添い寝する霞を見下ろしてこう思う。
霞は、悪い奴ではないのだ。
腐っても――まず熟れてすらいないが――上官へ向けるには些か不適切な物言いだが、それだけだ。
無闇に此方の命令に刃向かう事はなく、不満があれば論点をしっかりと提示してくれる。
殆ど後者のパターンが多い辺り、霞の評価が上がる一方で自己評価は駄々下がりだ。
気が滅入る。情けない。
「……クズ。足曲げないでよ、近付けないでしょうが」
横向きで寝る時は膝を曲げた方が安定するんだがな。仕方が無い。
言われるままに布団の中で足をなるたけ伸ばすようにした。
……いやちょっと待て。
自分は大分遅れて霞の言葉に疑問を呈しようとしたが、
その時既に自分の体は小柄な霞の両腕によって捕まるように抱き締められていたのだ。
「変な勘違いしないで。風邪のうちは体を温かくしないといけないの」
霞は私の胸板で素っ気なく釘を刺す。
勘違いするなと言われても、だ。
温かくするなら布団を重ねるなり厚着するなり方法は幾らでもある。
病気が移らないとは言え、霞が体を張ってこんな事をする必要はない筈なのだ。
同時に、鎮守府で艦娘に命令する権限を持つ者は自分しかいない筈なので、誰かにやらされている可能性もない。
つまりは、霞が自分の意思でやってくれているのだ。
ならばそれを拒絶する気はないし、霞の真意を問い質すのは無粋だろう。
自分らは気軽に互いに踏み込んであれこれ言える関係ではないのだ。
そういった浅い関係であるが、自分は不快感を感じ得なかった。
自分は畏れ多くも甘え、力の入らない両腕で霞を抱き締める。
霞は拒絶せず、私の胸板に顔を埋めたままだ。
不意に咳が幾つか吐き出された。
「すまんな。五月蝿いと思うから、嫌になったら出て行ってくれていい」
「言葉を選びなさい。こういう時は、謝罪の言葉かしら?」
謝罪の余地も与えてくれなかった。
しかし、自分は全く不愉快ではなかった。
狭い喉を無理矢理潜らせるように言葉を布団の中に発する。
「ありがとう」
「もっと心を込めて言いなさい」
「勘弁してくれ。声を出すのも辛い」
「だったら心の中で言いながら、もう寝なさい。いつまでも鎮守府を休みにするんじゃないわよ、このクズ」
「一言多いんだよ……」
嗚呼、それでも、この小さな温もりは落ち着く。
布団の中に潜って暑くないかと問いても普段の調子で突っ張ねられた。
心身共に疲弊した時にこうしてくれる霞は、良い娘だ。
霞には通じていないようだが、心から有り難みを感じる。
体だけでなく心も温まるようだ。心細い思いをしなくて済む。
すまないな、自分がまだ執務に慣れないばかりに海域制圧の足枷になってしまって。
体が治ったらまた精進するから、それまではこうして、霞の隠れた優しさを、感じながら、休ませてくれれば……。
「……すぅ」
「もう。私がいないと話にならないじゃない、このクズ……」
これが気に入ったら……\(`・ω・´)ゞビシッ!! と/
最終更新:2019年07月30日 12:47