時刻は、フタフタマルマル。
今日も今日とて、自室を抜け出す時に北上さんに気付かれる事はなかったよう。
私はまたいつしかの夜這いの時同様、忍び足で執務室を目指した。
暗闇が多くの廊下を包む庁舎内を時間をかけて移動し、こっそり執務室の扉を開ける。
しかし、明かりが全く点されていないと思っていた私の目には、僅かな光が入ってきた。
見れば、炬燵に乗った機能美な電気スタンドが、あの人を照らしている。
――なんで起きてるの――
――せっかく寝ているところに潜り込もうと思ったのに――
私は無意識に舌打ちする癖を抑え込んだ。
私と気付いてか、あるいは背後からの刺客に気付いていないか、
この人は大仏のように胡座を掻いたまま微動だにしない。
だから、その無防備な背中に覆い被さるように抱き付いた。
肩越しに目を向けると、炬燵には徳利と何やら透明の液体が入った猪口が乗っている。
この人の耳に向かって、添い寝出来なかった事による勝手な不満を、私は息をするように軽口に乗せる。
「時間管理もちゃんとできないんですか? 今度から寝坊したら、魚雷で叩き起こしますよ?」
「…………」
この人は、何も返してはこなかった。
座ったまま寝ているのか? その耳に再度囁きかける。
「聞いてます?」
「……私の」
「え? 何ですか?」
既に酔っているらしい事が、この反応の遅さと、いつもよりゆったりとした口調から察せられた。
突然ぽつりと零れた一言は聞き取るのが難しい程度に空気を震わせる力が込められていなくて、
もう少し声量を上げてほしいという意味を持たせて聞き返す。
そして、次に来る筈の言葉をちゃんと拾おうと私は耳に意識を集中させた。
「大好きな大井の声を聞き漏らす筈がないさ」
"大好き"
"大好き"
"大好き"
次に拾った言葉の特定の一句が、私の頭の中で何度も壁に反射、反響する。
そうして反芻した結果、私は顔から炎上した。
とても熱い。
動揺を悟られまいと、この人の体に引っ付けた体や手が震えないよう気を張り、
応急的に無理矢理口をつく。
「な、何を……、馬鹿ですか……っ」
――しっかりなさい! 似たような事を普段言っている私が何て体たらく――
"愛してます"と言う科白も、
実のところ顔が熱くなるのを、我慢したり知らない振りをして言っているんですけどね。
どうやらこの人にそれはばれていないらしい。
「おやあ、いつもの毒はどうした~?」
動揺し切っている事は完全にばれていた。
そんな私とは対に、この人は肩の力を抜いて呑気な調子でからかう。
「その減らず口を縫って差し上げましょうか……!」
「おお、こわいこわい」
震える口で何とかお望み通りの毒を吐いてあげたが、この人は、ちっとも怖くなさげにからからと笑う。
座るかい、と体を少し横にずらしてくれたので、
空いた右側のスペースに、熱くなった顔があまり見られないよう逸らし気味のままで座り込む。
炬燵の一辺は二人で入るには少々狭く感じたが、何の不満もなかった。
胡坐を掻くこの人の膝が、当たるか当たらないかの位置に正座の位置を調整する。
この人は月に夢中なのか、顔を逸らしても何も言ってこなかったので、
そのうち私もぼんやりと月を見上げるくらいの平静を取り戻すことができた。
その月を見ていると、かの夏目漱石に纏わる有名な話が思い浮かんだので、
なんでもないような振りをしてそれを口にしてみる。
「……綺麗ですね、月」
「…………」
この人は、何も、応えない。
何を思っているんだろう。
「……そうだね」
沈黙のテンポの中、不意に相槌を打たれ、肩がビクつく。
さっきまでのこの人のあっけらかんとした態度からの静かな相槌は、
手に持つそれが酒ではなく水ではないかと疑心を持たせるほどの変わりようだった。
「私も、そう思う。とても……」
一句ずつ噛み締めるような提督の相槌に、私は焦燥感を焚かれ少し苛々していた。
それはどういう意味?
文字通り月がそう見えるだけ? それとも、私が放った言葉と同じように?
目前の陶器に入っている液体が間違いなく酒であることが、
それの匂いから、この人のいつもよりゆっくりとした口調から断定できる。
――やっぱり深い意味はないのかな――
少しの沈黙の後、唐突に私の膝に置いていた左手をやんわりと掴まれ、掌を開けられる。
そしてどこに仕込んでいたのか、黒色の小さな箱が置かれた。
開けてごらん、と、言われる通りにしてみる。
「……え? これ……」
「……それは、指輪と言う物だ」
見れば分かる。
指以外に通せる部位はないと断言できるサイズのその輪は、箱の台座で銀色の輝きと、この人の思いを放っている。
私がこれの意味を考えている間に、提督はそれを嵌めてくれた。
私の、左手の薬指に。
聞いた話では、この指に指輪を贈られる意味は。
顔を見上げると、この人はまたさっさと月を肴に猪口を呷り始めていた。
沈黙が続く。
「何か言う事はないんですか」
沈黙が続く。
私の訴えは拾われることなく、宙に霧散する。
この人は今、何を思っているんだろう。
この人はなぜ、これを私にくれたのだろう。
目を伏せる。
「……綺麗だけど、綺麗な丸ではないね」
突然そう呟くこの人の横顔を見やる。
この人は酔っている筈なのに、顔が赤い様子はない。
スキンシップする時のように不自然なまでに引き締めた顔でもなく、たまに見せる子供のような顔でもない。
あくまでもこの人は、顔に力の入っていない真剣な様子でいた。
この人の視線の先を追うとあるのは、よく目を凝らさないと見えない程度の小さな星屑に囲まれて輝く夜空の重鎮。
あの月は正円かと思いきや、よく見ると確かに完全ではない気がした。
半分に割って左側が右側より面積が小さく見えた。
提督は猪口に酒を注ぎ、それを呑まずに見つめたまま無表情で口を開く。
「これは持論なんだが」
「月の、あの綺麗なところは見習いたいが、すぐに欠けるところは見習いたくない」
「いつまでたっても、綺麗で何も欠けないように生きていたい」
「ここにいる皆もそうだが、特に大井がいなくなると、例えるなら半月位になってしまう」
「……ずっと一緒にいてくれるか?」
そしてこの人はこちらに顔を合わせ、問いてくる。
言葉は疑問形だけど、酒が入っている筈なのに据わっている提督の目に、
不安気な様子などは全く見受けられなかった。
寧ろ絶対の自信しか見えないその理由は、人の気を大きくする酒のお陰ではないと信じたい。
否、信じる。信じられる。
「……悪い気持ちじゃないわね」
私は、素っ気ないようにそれだけ応え、この後に備えて顔を窓の外に向けた。
……今まで私を大切にしてくれたこの人に、ここに至るまで求められて、良い気持ちでない筈がない。
切なさのあまりか、私の内側の何かがとくんとくんと、ゆっくりとだが大きく脈打つ。
それがポンプであるかのように、目から温かい水の粒が静かに押し出された。
月が、夜空が、歪む。
顔を逸らしておいてよかった。
そして、この人の体に寄り掛かり、みっともない泣き顔が見えないように目を伏せる。
涙を流しているのがばれているのかいないのか、この人はただ私の頭を、温かく撫でてくれた。
冬の月見の切り上げは、
月が窓から見えなくなるほど高く昇るのが先か、この人が酔い潰れるのが先か。
何れにせよ、まだまだ続くことだろう。
一頻り涙を流したら、私を選んだ理由をこの人から問い質してみようと思う。
時間は、存分にあるのだから。
これが気に入ったら……\(`・ω・´)ゞビシッ!! と/
最終更新:2015年04月15日 08:44