非エロ:提督×大井13-224


洒落っ気を利かせる木製の扉を叩くが、腰の重い男の声は返ってこなかった。
また誰かに膝枕でもさせているのかと黒い感情が一瞬だけ湧き、その顕れとして目を瞬きさせる。
しかしそれは本当に一瞬で、扉の向こうに生物の気配さえもない事に気づき、眉間から力が抜けた。
なので、入りますよ、と言う断りも入れず扉を開けた。

「提督?」

そもそも執務室の明かりさえ点されていなかった。
部屋を明るくすると、
金属製で無骨な昔ながらの暖房器具は鎮火しているし、い草の畳のどこにも書類の束は見当たらない。
肝心の提督はと言うと、座椅子の背もたれにかかった軍服である紺色の上着から察するに、どこかへ出掛けたか。
そして、座椅子の軍服と同時に目についた炬燵の上の紙のような物が気になる。
畳に上がって、元から好奇の対象外であった大本営の通達書を炬燵に置き、それを覗き込む。
何やらメモ帳から一枚千切っただけのそれには、
面倒臭がりな提督特有の癖のある字体で、こう走り書きされていた。

『外出中。提督』

提督は、例えばお偉いさんに呼ばれたとかなら、面と向かってそれを伝えるので、
これは私情で出て行ったと見ていいだろう。
まず軍服が置き去りにされている時点でお察し。

「どこ行ったのかな……」

誰もいないので気が抜け、疑問がそのまま口をついて出る。
夜とはいえ冬なのでそれほど遅い時間ではなく、執務はちゃんと終わっているのか心配だ。
率先してやろうにも、提督が動かしたであろう書類の場所が分からない。
いなかったとは言え、秘書艦の私に何も言わずにいなくなるなんて。

「チッ……」

きびきび動かないと気が済まない私としては、
やることがないおかげで、やらなくていいような世話までしてしまう。
提督は別にこの軍服を座椅子にかけたままでいいだろうけれど、
私はそれを手に取って裏に持って行く。
それには、まだ体温が残っているようだった。
裏の寝室の壁にかかっているハンガーを手に取り、軍服にそれを通そうとしたところで、
私の頭の中の悪魔が妙な事を囁いた。
ハンガーの事など途端に頭から抜け出し、その軍服を凝視する。
躊躇いなく顔を近づける。
目を伏せて鼻から息を吸い込む。

すーっ。

私一人しかいないから。
後ろの扉が閉まっているから。
躊躇せずこんな事をしたのだろう。
いや、扉は本当に閉まっている?
自問によって即座に頭を回転させ、背後の扉の状態を確認。

「大丈夫ね……」

そういえば、さっき自分で閉めていた。
自分のした事を忘れて再度確認するとは、なんて間抜けな。
一先ず誰かに見られていないようで、安心した。
気を取り直して向き直ると、前方にこじんまりと置かれたベッドが目に入る。
虫が花の蜜の香りに誘われて……とはよく使われる比喩だけど、その比喩は、今は全く合わないだろう。
服と寝具に染み付いた男臭い匂いに誘われる女。
どこに可憐な、あるいは妖艶な花らしさがあると言うのか。
分かりやすい、万人が感じる"いい匂い"ではない。
それでも、あの人と体を寄せ合ったり、この寝具で体を重ねたりしてきた私は、
この匂いにはすっかり毒されている。
私にとっては"いい匂い"。
だから、腕に軍服を抱えたままそのベッドに、どさっ、と倒れこんだ。
あの人の匂いが宙を舞ったように思えた。
そんな中で大胆に軍服を顔に近づけ、息を吸い込む。

すーっ。

「はぁぁぁぁ……」

思い切り深呼吸。
あの人の匂い。
いつまでもこの匂いを嗅いで安らぎに身を投げたい。
でも、逆に言えばここにあるのは匂いだけ。
残り物の匂いと温もりだけで、源のあの人は今いない。
中身のないこの軍服に不満をぶつける。

「早く、帰ってきなさい……」

こんな残り物の匂いと温もりに包まれているだけなのに、眠くなってきた。
提督が普段から執務をこっちに半分押し付けるから。
提督が声もかけないで何処かへ行ってしまって暇だから。
提督のせいだ。
……決めた。
このまま、少し仮眠を取ろう。
提督が戻るまでに起きればいい。数十分くらいなら大丈夫だろう。
不貞腐れの気持ち半分の顕れで横向きに寝転がる。
少しの匂いと温もりが残るこの服をしっかりと胸に抱き、
頭の中で悪魔と共に色々な言い訳を並べてから、私は瞼を閉じた。



悪魔は、いつまでも自分の味方だと思い込んだままに。

……………………
…………
……

着替えが面倒だから、上着だけ脱いで外套を羽織るという何とも中途半端な格好になった訳だが、
暖かいラーメンを食べてスープもしっかり飲んできたから、鎮守府に戻るまでにはこの熱は持つだろう。
間宮の料理は美味いのは間違いないが、
ああいう頑固親父が作るような手間のかかるラーメンは外に出ないと味わえん。
ただでさえ売れるラーメンは、
この季節では更に拍車がかかるのか、最近だと店外で待たされる事も多くなった。
待っている間は寒いし、あの味を家でも再現できないかと考え――るまでもなく断念する。
ラーメンにはにんにくを入れるだの麺は硬い方がいいだの頭の中で考えているうちに、
ひっそりと潜り込むように門番に通してもらった。
外出するなら護衛をつける等五月蝿いのを適当にあしらうのも面倒になってきたから、
今度から無視でも決め込もうか。
一般人の格好でいれば、そんなものは必要ない。

さて、遥々階段を登って高い階にある執務室にたどり着き、書き残したメモを回収したのだが、妙だ。
座椅子にかけておいたはずの上着が、見当たらないのだ。
また、部屋の明かりを消してきた事を忘れるような記憶障害にも罹っていない。
明らかに誰かが侵入した形跡があるが、なくなったのは自分の服のみ。
泥棒なら提督の服だけを盗む意味が分からないし、まず門番や艦娘に取っ捕まえられる。
一先ず代えの服を出そうと寝室を覗いて、事件は解決した。

確かに泥棒が寝ていた。

泥棒改め大井は、どういう訳か自分の軍服を胸に抱き、決して離すまいとしていた。
短いスカートから伸びる足を存分に晒し、
この冬の中を掛け布団無しで寝入っているのは、耐寒仕様も備えた艦娘ならではだろう。
だから、そんな事は別に問題ではない。
自分が先程まで着用していた衣服で、
まるで嗅いでいるかのように鼻と口元を覆って寝息を立てているのが問題なのだ。
何の意識もしない訳がない。
この光景を頭の中で噛み砕いた時、自分の顔は、眠れる大井に放火された。
顔が焼けるように熱い。
ラーメンを食べた事による幸福な熱はどこかへ吹き飛び、冬にも関わらず汗が噴き出す感覚に襲われる。
気づけば息切れを起こしたのか、胸も苦しい。
少し立ちくらみがして、ふら、と後退りしたが、壁に手をついたお陰で派手な音も立てずに済んだ。
それでも、大井が目を覚ましていないか、息を殺して顔を覗き込む。
大井の前髪は眉を上手い具合に隠しているので、女らしい睫毛のついた瞼しか見えず、
これだけではどんな気持ちで寝入っているのか読み取れない。
寝ていようが目を覚まそうがこの鼓動は収まらないが、ともかくは起きていないようではあった。

ここでこそ提督の決断は試されると意識した時、ある考えが浮かんだ。
散々言われた"時間と場所を弁えて下さい"の雷撃脅迫に基き、寝込みを襲うのは今度にしてやる。
だからと言ってこの好機を逃す等、キスカ作戦で濃霧を逃す事と同じ程度にはあってはならない事だ。
踵を返すと同時、気持ち悪く歪んだ顔を引き締める。
誰かが勝手に起こす事のないよう扉はしっかり閉め、自分は一旦忍び足でこの場を立ち去った。

……………………
…………
……

腕時計を見れば、あれから三十分は経つか。
その間にやりたい事は終わらせた。
後は目標が姿を現すのみ。
結局代えの上着は出さずに、ワイシャツの格好で執務室に篭らずに彷徨う事にしている。
あそこに篭っていたら目標が目を覚ましても姿を現さないかもしれないからだ。
只、出くわす艦娘に一々この格好を聞かれて洗濯中だの冬のクールビズだの答えるのもまた面倒になってきた。
何より、"鍛えられていない線の細さが見え見えですわ"と、容赦なく急所を突く奴がいたからしょげる。

執務室に繋がる廊下に足を踏み入れてみると、思惑通りに目標が姿を現していた。
こちらの存在でも待ち構えているのか、執務室の扉に寄りかかっている。

「……あ」

近づこうと歩むと、数多の板がぎしぎしした音で大井に接近を知らせた。
こちらに首を回して姿を確認するなり駆け足で寄って来て毒を浴びせる。
の割には、普段の微笑が二割増のように見えるが。

「おかえりなさい。提督ともあろう御方が、執務を放り出しての外出は楽しかったですか」

そこからか。
勘違いしないで欲しいのだが、自分はしっかりと書類を束ねて整理するところまで終わらせたんだ。
それから、通す書類が減るよう出撃回数を下げたり等もしているが、これは言う必要はないだろう。

「あ、そうだったんですか」

少し驚きを秘めたように目が見開かれる。
こうした話とは全く別のところで、自分は少し考えている事があった。

――さっきまで服なんか抱き締めていた癖に、それの主に対しては何も無いのか――

「提督にしては、仕事が……あっ!」

少し妬いた自分は結果、行動を起こした。
喋り途中でも構わずに一歩踏み出して目前の大井を腕に抱き締めた。
大井はもぞもぞと身動ぎした後、拒絶するように掌を胸に押し当ててくる。

「ちょっと、提督っ、何す……」

「誰も見てないんだから、良いだろう?」

「……調子に乗らないで下さい」

その小声は震えているが、それが歓喜によるもののように聞こえるのは、自分が自意識過剰なのだろうか。
首を動かして廊下を見渡してから、大井は拒絶する手をゆっくりと下ろし、私の背中に回した。
大井も抱き付く姿勢になった事で、自分の胸に山が二つ押し当てられる。
こいつは、これについて意識しているのかね。
そして、私の胸の音でも聞くかのように、頭は九十度回転させ、…………。
こいつは背中といい胸といい、私の体に耳を当てるのが好きなのか。
こんな可笑しな趣味をしているから、
速まる鼓動と態度をなるべく連動させないようにする訓練を否応無しにさせられているような錯覚さえ覚える。
さて、何の話だったか。

「で、どこに行ってたんです」

「近所のラーメン屋だよ」

大井は、獲物を捕まえた食虫植物のようにその体勢から数ミリも動かず、
呟くように再度疑問を投げかける。

「……なんで一人で行くんですか」

機嫌が悪いのか。
声は小さいが、あまりその声色に優しさ等は添付されていない。
むしろ、機嫌が悪い事を暗に示すような……。

「男しか行かないようなラーメン屋には、ついてこないだろう?」

「提督に誘われれば行きます」

なんと。
女にとってはラーメン屋は入り辛い店の中でも上位に食い込むような店だと思っていたが。
入り易い入り辛いの前に、まず行こうとさえ思わないだろう。
まず一緒に行ったとして、大井は注文でもするのか。
金は落とさないのに混んでいる店の席を一人独占するだけの連れは、
こちらとしても店に申し訳なくなるので、只ついてくるのであれば正直遠慮したい。

「私だってラーメンは食べます」

「何より、どこへ行くかじゃなくて、誰と行くかで楽しさが決まるって、どこかで聞きました」

出た。
何かの切欠で出てくる、普段は内に秘められている大井の一面が。
これだ。
これを引っ張り出すのがとても楽しいのだ。
話が逸れた。
"どこか"と言う抽象的な言葉は釈然としないが、その意見には自分も大いに賛同できる。
女とラーメンなんてあり得ない、と言う固定概念が長年自分にはあったが、
こう言うのなら、今度から大井を随伴艦にラーメン屋へ出撃する一考の余地もあるのかもしれない。
誰と行くかで楽しさが決まる、と言うのは、確か旅行での一つの考え方だったとうろ覚えに留めていた気がする。

「なら、今度な」

「はい。秘書艦に何も言わずに、どこかに行っちゃ駄目ですからね」

聞いているこちらが微笑ましくなるが、実際の自分は意地汚い顔に変貌を遂げる。
何せ、そろそろ本題に入ろうと思っていたのだ。
大井がこちらを見上げていなくてよかった。
そして、用意していた一つの質問を待ち遠しく投下する。


「ところで、さっき執務室に戻ったら置いていた上着が無くなっていたんだが、大井は知らないか?」


「……!」

確かに大井は先程から私に抱き付いて動かないままだったが、
たった今、違う硬直に変わった気がした。

「……し」

「ん?」


「知りませんよ提督の上着なんて私は提督の家政婦か何かじゃないんですから
風でどこかにでも飛ばされたんじゃないですか?
それよりも提督はどこまで行っても駄目で困った人ですね自分の着用する軍服をなくすなんて
あるいはこういう時の為に私みたいに代わりの服でも用意しておけばいいのに
備えあれば憂いなしって霧島さんがいつも言っているでしょう
これだから周りから駄目だのクソだの言われるんですよそんな人の秘書やってる私の気持ちにもなって下さい
そんな穴だらけの考えで戦場を指揮していたらどうなるか分かって……」



「おかしいな。窓は閉まっていた筈だが」

「……開いてました」

嘘言え。
この冬の中、窓を開ける訳がない。
実際帰った時も確かに閉まっていた。
何より、窓から入ってきた風が衣服を窓の外に飛ばすと言う現象等、到底あり得る事ではないと思う。

大井は悟られまいとひどく焦っているのか、
普段の高速艦から転じたかのようなとても速い口調で毒を並べる。
よくもまあそこまで人を罵る言葉がすらすらと出てくるものだ。
しかし全てを知っている自分はしょげるどころか、
笑いを顔に放出する代わりに横隔膜が動かないよう堪えていた。
上半身を密着されているこの状態で腹から笑うのは拙い。

「ところで、最近の写真技術の進歩は著しいものがあると思わないかな」

「……?」

ここで、自分は一枚の写真を取り出し、話を続ける。
話を転換する接続詞をつけているが、実は話は変わっていないのだ。
それを、未だ胸に耳をつけたままの大井の顔の前に持って行き、意地悪く見せ付ける。

「ほら、綺麗に撮れているだろ?」

「……っ!」

大井は、初めてこちらに顔を向けた。その顔は赤い。
先程の自分もこんな顔をしていたのだろうか。いや、ないな。
だって大井は、ただ赤いだけでなく、知られたくない事を全て知られて羞恥心に塗れた顔をしている。
大井は瞬時に両手を私の胸に突いて体を引っぺがした。

「私の上着は、どんな匂いだったんだ?」

「……ぁ、あ、あ……」

そう。
あの後、青葉にカメラを借りて大井の寝姿を撮影、すぐに写真の現像を青葉に頼んでいたのだ。
無論、青葉からは間宮のあいすくりん券を出すよう交渉されたので、それに応じて極秘に進呈してやった。
そのお陰でこの写真には、自分がこの目で見た光景と同じものが写っている。
嗚呼全く。
いつまでも残しておきたいこの微笑ましい、愛らしい光景を、
これだけ鮮明に紙に残す事ができるとは、いい時代になったものだな。
そう思わないか?

「なあ。大井?」



「提督の馬鹿ーっ!!」



……………………
…………
……

土俵際まで追い詰めたと確信したあの時、何割か引き出されたらしい艦娘の底力か何かを持って、
自分は平手打ち一つでノックアウトさせられた。
そして気が付けば、明石の頬の軽い手当ての下、こうして療養室の寝具にて目を覚ます事になった。
ちなみに、傍に写真が落ちていたりはしなかったらしい。
……没収されたな。
それでも、大井をあれだけ弄り倒す事ができたので、自分は満足だ。
笑いが漏れる。

「くすっ、ふふ……ふふ……」

「……提督は、まだ少し修理した方がいいみたいですね」

大井から散々馬鹿と言われたように、馬鹿は修理しても直らないよ。
自業自得の結果、頬の修理を任せてしまうのは申し訳ないと思うが。

「分かっているなら、女の子をあんまりいじめちゃ、めっ、ですよ?」



「分かっていても、やめられないなあ」

全く。可愛い奴だ。


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大井
最終更新:2015年04月13日 23:35