「あら? 私? ……うふふっ、悪い気持ちじゃないわね。また頑張ります」
さも信じ難いと言うような問い返しに頷いてやると、大井はやっと賞賛の言葉を受け入れた。
それから夜空の下、一列に並んだ艦隊に労いの言葉、艦隊解散の号令、入渠の指示をかけ、
最後に間宮の特別製あいすくりん交換券を取り出すと、艦隊の面子の頬は目に見えて緩んだ。
一般人が口にするものとは違い、特別な効能を含む艦娘用のそれは、
その高くない生産性と安くない価格のお陰で偶にしか支給できないのだが、今回がその"偶に"だ。
今回の作戦では、昼夜戦共に被害を抑えつつ、敵艦隊を鎮圧する事ができたのだから奮発してやらねば。
凛々しさを崩した艦の面子に一枚一枚手渡していくが、先程から元気をなくしたままの者が気にかかる。
殿の援兵として任命したその六番艦が、自分の前に立ち止まる。
「…………」
赤城は、自分が差し出す券を見つめるだけで受け取ろうとしなかった。
目を伏せているつもりなのかもしれないが、
自分と同じくらいの背丈では効果もなく、眉尻や口元が落ちているのが確認できる。
「……私、これを受け取って、いいのでしょうか」
声の調子や速度も落ち込んでいた。
受け取っていいからこうして差し出しているんだがな。
しかしこの調子の艦につっけんどんな軽口で返す訳にはいかず、なるべく声を柔らかくして言葉をかける。
「いいんだよ。持って行きなさい」
「……すみません」
赤城は両手で券を受け取って頭を下げ、礼ではなく謝罪の言葉を持って目を一瞬だけ合わせた。
そして、少し離れて様子を見ていた艦の面子五人に混ざって建物の方へ帰っていく。
赤城が心配だが、大丈夫だろうか。
加賀辺りが何とかしてくれる事を祈ろう。
……………………
…………
……
建物に戻って執務を進める事にしたのだが、
一人で使う炬燵は中が無駄に広く空き、また音を発する物も机を走らせる筆と捲る書類のみ。
きちんと役目を果たし、時にこちらに喝さえ入れてくれる秘書は、明石によって修復を施されている。
この独りの静けさが逆に落ち着かず、筆は鴎のように白い海の上空を度々彷徨う。
ラジオでも持ってこようかという考えに至りかけた時、扉が音を発した。
「入れ」
「……失礼します」
入ってきたのは赤城だった。
飛行甲板や艦載機と言った艤装は外されており、海戦時よりさっぱりした格好だ。
それなのに、先程から変化が見られない顔の方は全くさっぱりしていない。
おずおずと畳に上がり、炬燵を挟んで自分と対面するように着座した。
こちらとしてはそのようなつもりはないのだが、
叱られている子供のように口を閉ざす赤城を前にして執務を続行できるほど、自分は冷徹ではない。
「……これを、お返しに」
数秒待ち、こちらから用件を引き出そうと口を開きかけたところで、赤城は一つの紙切れを差し出すと同時に口を開いた。
その紙切れとは、つい先に贈呈した件の間宮の券だった。
あいすくりんは貰ってこなかったのか。
聞けば、皆と違い海域制圧に貢献できなかったから、自分にこれを貰う資格はないと言う。
自分は持っている筆の頭をこめかみに軽く押し当ててから、炬燵の真ん中に置かれた紙切れを赤城へ押し戻した。
「……?」
赤城は、賢い艦にしか食べられないと謳う空の丼でも差し出されたかのように、首を傾げる。
別に赤城が馬鹿だという事ではなく、
頼れるお姉さんに、このように素直な仕草が合わさると、中々に魅力的だと感じただけだ。
「貰っていきなさい。義務感ではなく、私の感謝の形の一つとしてあげたいんだ」
「でも、提督から感謝されるようなことなどは」
赤城は小さく首を振る。
自分は構わずその言葉を遮った。
「いいや、赤城は普段からよく頑張っている。今回は今回で被弾しなかっただけ上出来だ。
自分の出来る範囲でなら、他にも何か労りたいが……」
艦娘が給糧艦のあいすくりん以外に喜ぶ事と言ったら何なのか。
簡単そうに思えて、いざ考えてみるとこれが中々難しい。
赤城の場合、いつも食堂で満足するだけ食べているので、食事も除外する。
筆を置いてしばらく考えてみたが、腕を組もうが炬燵の布団の模様を凝視しようが良い考えは浮かばず。
「……何か欲しい物でもあればそれを贈るのはどうか」
やや疑問形となっているモノローグを、碌に変換もせず口にしてしまうのだった。
自分からの提案なのに、赤城に丸投げしてどうするのだ。馬鹿か。
一方赤城は、瞬き一つして顎をほんの少し上げただけで、特に呆れたような様子はない。
寧ろ、先より葉書五枚程は大きく開かれているようなその目は呆れたものとかではなく、
例えるならば、飛行甲板に降ってきた牡丹餅に嬉しくも驚いているかのようで……。
「なんでもいいんですか?」
「出来る範囲内ならな」
すかさず釘を刺しておいたが、赤城はまるでその部分だけ聞こえていなかったかのように、饒舌にこう続けた。
「では、提督の膝を」
私の膝は私の物なのだが。
「今日は貸して下さらないのですか?」
この用件を持ち出される時、大人のような雰囲気を醸す赤城もまた、
この鎮守府の艦娘の一人なのだと再認識させられる。
恐らく上官として信頼されている事の顕れに間違いないと思う。
これを理由に休憩してもいいだろうと、照れを溜息で誤魔化すことにする。
筆や書類やらを置いたまま炬燵を部屋の隅にずらし、空いた部屋の中央に膝を折り曲げて座る。
「これでいいかな?」
「はい、では失礼して……」
正座で向かい合ったままの赤城は、間の抜けたように四つん這いで寄って来て、膝に寝転んだ。
それなりの重みが膝に預けられる。
垢抜けた赤城の顔をぼうっと見下ろすと、物足りなさげにむっとした顔をする。
最早恐縮した様子はなく、素直に欲を示すいつもの赤城が戻ってきたらしい。
「手……」
「……はいはい」
ここまで来ると、赤城が駆逐艦等にするそれと寸分の違いもなくなってしまうのだが、
手を頭頂部に置いて撫でてやると表す、戦いに身を束縛される事から解放されたように安らぐその顔は、何の違和感も感じる事はない。
一方の自分はと言えば、赤城のボリュームあるふんわりした髪の手触りを、
労りの気持ち百……ではなく、労り七十程、自分の楽しみ三十程の気持ちで感じていた。
鬱陶しくはない程度の厚みと、背中にかかる程の長さがある癖に、指が引っかからない事について、
ドックでどのような修復をされているのか、教えてくれた事はない。
指が引っかからない事については、自分だけでなく赤城にとっても快感のようで、
普段より三割増の小さな笑みをもって不満がないことを表明してくれる。
しばらく撫でると、すっかり安らいだのか、赤城は一人眠りの海域へと突入してしまった。
この場合、自分はどうなるのだろう。
膝を貸すと許可してしまったので、今更この頭を畳に振り落とす等あり得ないが、
睡眠時間の長い赤城――それは赤城に限った事ではないが――のために、
正座を続けるというのも楽なものではないし、何より背中を何かに預けたい。
何故自分は後先考えずに部屋の中央に座ったのだ。馬鹿だ。壁に寄りかかっていればよいものを。
これでは膝が痺れる前に、上半身が灯浮標のように落ち着きなくゆらゆら揺れ出すに違いない。
転覆しない保証もないので灯浮標以下とも言える。
釈明しておくと、肉体ではなく、精神への疲弊に耐えられるとも分からないと言う事である。
人や艦の寝顔を数時間も見続けて面白い訳がないのだ。
こんこん。
防音加工された部屋に取り残されたような、古めかしい木の扉を叩くその音が、
自分には退屈を叩き出す太鼓の音のように聞こえたのは確かだ。
「は――」
しかし寝ている赤城の手前、声を出せない。
吐きかけた息を止める。
数秒の沈黙の後、向こうが動いてくれた。
「提督? 入りますよ?」
扉を開いた者は、大井であった。
長いようで短かった明石による修復が終わったらしい。
さて、どう説いたものか。
普通に説いてもいいが、以前に他の子にこういった事をして欲しくないと明かした大井が何と言うか。
大井は不服そうに顔をぶす、と歪めたが、状況を察したのか大きな声を飛ばす等はしなかった。
大井は靴を脱ぎ、行儀良く一旦背中を見せて靴を揃えてからこちらへ歩み寄る。
きっと用事があって来たのだから、この光景を目撃したところで退室するには至らないだろう。
そうだ。大井はそもそも秘書だ。
秘書だから執務を片付けにでも来たに違いない。
なのに、隅の炬燵には目もくれず、また赤城や自分の横を通り過ぎ、
座るような衣擦れが聞こえたので何をするかと思えば、背中に暖かな重みがゆっくりと預けられる。
背中の感触を通じて、どうやら横向きに顔や体を預けているらしい事が分かった。
大井の耳が直に自分の本音を吸い取ろうとしているようで、少しだけ警戒心が働く。
最初は本題に入らずして意思疎通を試みる。
「……用事があったんじゃないのか?」
「用事がないと、来ちゃ駄目なんですか?」
「いや……」
執務を片付けるつもりでもなかったらしい。
これはこれで嬉しい気持ちがなくもないが、大井の顔色を伺いたい気持ちがまだ大きい。
質問に質問で返すところなど、不貞腐れているような調子が見えるから少し心配だ。
「明石に手当てはしてもらったんだな?」
「してもらいましたよ? もっと長い方がいいですか? ドックで寝てた方がよかったですか?」
面倒だなあ……。
しかしこんな調子でも声量は抑えられていて、赤城に配慮しているとも伺える。
妙なギャップに少し笑いそうになってしまうが我慢。
「すまん、元気のない赤城に何かしてやろうとしたら、その……」
「分かってますよ。提督はそれに付け込んで色んな子としてるんですよね?」
なんと人聞きの悪い物言いだ。
聞きようによっては、自分が下衆でヤリチンの最低野郎になってしまう。
結局、中々に大井は納得してくれないらしく、下手に出るしかない。
「付け込んじゃいないが、ごめんな……」
「……ふふっ」
しかし、突如として大井は態度を翻す。
私の心に染みるよう、静かに、語り始めた。
「多分ですけど、この鎮守府にいる皆、根っこのところでは同じ事考えてます」
「"慕っているこの人の役に立ちたい"って……」
「だから、役に立てなかったと思ったら、悲しみます」
「赤城さんも、私も……」
「艦娘は普通の船よりは強いですけど、無敵じゃないのは、分かってますよね?」
「提督は、戦争の指揮だけじゃなく、艦の調子を整えるのも重要な役割でしょう?」
「そのやり方は鎮守府毎に異なるでしょうけど、提督のやり方は、皆好きです」
「だから、提督は私のモノですけど、今は赤城さんに貸してあげるんです」
「……私を責めて遊ぶのは面白かったか?」
「あら? 何の事でしょう?」
遊ばれていたという訳か。全く。
ところで大井でない誰か、答えてくれ。
こんな状況でも他者に配慮できる大井の寛容さに感動するか、大井の"私のモノ"発言にゾクゾクするか、
ここではどちらの反応をするのが正しいのだ。
しかし答えてくれる妖精は、生憎自分の頭の中には飼っていない。
自分なりにそれらを纏めて引っくるめて簡潔に言葉に表すと、こうだ。
「……大井の"愛してます"で私の調子も整えて欲しいよ」
「明石さんに頭の修理をしてもらったらどうです?」
ひどいな。
「……赤城さんの調子を整えてあげたら、言ってあげなくもないわね」
なるほど、要するに数時間このままでいろと。
「執務は私が代わりに片付けてあげてもいいですよ?」
いや、いい。
やらなくていいからこのままでいてくれ。
「え……」
大井?
「……あ、はい、分かりました」
「もう、艦に調子を整えてもらうなんて、駄目な提督です……ふふっ」
大井に対する警戒心なんてものは、とっくに消えていた。
大井の器の大きさに感謝、である。
自分に寄りかかる大井、大井に寄りかかる自分、互いに体を預ける重さが釣り合ったので、
これなら数時間はこのままでいられそうだ。
無垢な赤城の寝顔と、背中で呼吸し体温を主張する大井の存在で安らぎ、口を開かなくなっていた。
執務室には、赤城の寝息、自分と大井のゆっくりとした息遣いだけが響く。
手持ち無沙汰に赤城の頭を撫で続けていると……。
「……ぁ、ていとく……」
赤城はまどろみの中、うっすらと目を開かせた。
「提督……なら……運命の……」
索敵に長けている空母とはいえ、こんな状態で私の背中の大井に気づく筈がなく、
断片的にしては意味深長な寝言を残して、赤城はまたも瞼を閉じてしまった。
「……提督」
大井もこれを聞き逃さなかったのか、暫く黙っていたのに声を発する。
その呼称の抑揚は、言葉尻で明らかに下がっていた。
「調子を整えるのと、色目を使うのは別って、分かってますか?」
「私は何もしてないよ……」
寝言とは、他者に聞かれたら多大な波紋を呼ぶものだと、改めて認識。
寝言に返事をしてはいけないという迷信まである程だ。
「はあ……」
その大井の溜息には、一体どのような気持ちが込められているのか。
目の前でゆったりと寝息を立てる赤城は勿論、自分にも知る由はなかった。
「提督は私のモノだってこと、忘れちゃ駄目ですよ……」
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最終更新:2021年01月30日 00:11