提督×加賀、雷4-623

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『クズ提督の矜持 後編』



夜の闇に消え入る白銀は見るだけでも寒々しく、今いる部屋が暖炉で暖められていてもその視界の印象までをも払拭させてはくれなかった。
窓越しに見える雪の軌跡は幾重にも重なって、最早吹雪だと形容できそうなほどに轟々と風が吹いている。
それは不気味に窓を揺らし、しかしその音が唯一の物音だった。
外の様子を見るのをやめ、カーテンを手元に引っ張る。窓の隠された執務室にはただ一人、提督だけが居残っていた。
いつもは仕事終わりまで一緒にいるはずの秘書加賀は、つい先ほど申し訳なさそうに部屋へ戻っていった。
後に残された仕事が机に詰まれた書類へのサインだけである以上、秘書の手を借りる必要がまったく無くなったのだ。
それでも一緒にいたいという彼女を制し、提督は早く寝るよう指示を出した。
今夜が冷えそうな事ぐらいは誰の目にも明らかで、風邪などひかれては明日の仕事に響くのだ。
天気を見るに、明日は鎮守府総出で雪かきに追われるはずだった。
肉体労働に気乗りしない提督はため息をつき、しかし万年筆の滑るスピードをどんどんと速めていく。
きちんと睡眠をとらないと、日ごろの運動不足によりこり固まった体には重たい作業になるはずだ。
起床時刻まであと何時間かを数えながら、彼は作業を続けていった。
もうすぐ全てが片付き終わるという頃合に、扉が二回ノックされた。今の時間には珍しいそれに、だが彼はすぐさま入れと言う。
もはやそのスピードは反射の域に達していて、誰が訪ねてきたのかとか、そういった疑問は声を出した後から沸いてきた。
扉が開かれると、そこにいたのは帰ったはずの加賀だった。小脇には段ボール箱が抱えられ、寒そうに肩をすぼませている。
提督はそれを見、すぐさま駆け寄って部屋に導きいれた。
「どうしたんだ?」
差し出されたダンボールを受け取り、しかしとりあえずそれは机のすぐ脇に置いておく。
加賀の衣服は随分冷たくなっており、指の先は真っ赤だった。背中を押して暖炉の火のすぐ側まで誘導する。
「提督宛の荷物よ。昼に届くはずたったものが悪天候でここまでずれ込んだらしいわ。
廊下に出ていたのがちょうど私しかいなかったので、受け取っておきました」
「ご苦労様。でも別に玄関に置いておいてもらってもよかったのに。わざわざこんな……」
寝具から毛布を一枚引っ張り出し、加賀の背中にかけてやる。彼女は蓑虫のように、それに丸まり包まった。
頭を撫で、提督はダンボールの元に向かっていった。差出人の住所欄には実家の所在が書かれており、
封を開けると一通の手紙と、何やらアルバムのような大型本が入っていた。
「誰から?」
「実家からの、いらないおせっかいだな」
背中からの声に答えながら手紙を開くと、そこには見知った癖字の羅列が紙一杯に散乱していた。
元気にしているか、仕事は順調か。前半の内容は非常にありがたく微笑ましい気持ちにもなれるのだが、
段々と文面には余計で無用な事が散見され始める。
最後まで読み終えたそれを綺麗に畳み、机の上へ放っておく。提督は続けて視線を箱の中の本へと向けた。
底にずっぽりと埋まったそれはかなり重そうであったが、何とか指を引っ掛けて持ち上げてやる。
本とダンボールとの隙間は絶無であったために、無駄に難儀をしてしまったのだった。
救出した本を一旦膝の上において、それからゆっくりと表紙を捲った。
紙質はこれでもかというほどに良く、厚くてつるつるとしている。
ページは送られど送られど、どこにもでかでかと女の晴れ着姿の写真があった。

「随分可愛らしい女の子たちね」
いつの間にやら後ろに立っていた加賀が、怪訝そうな目つきでそう言った。
冷え切った声音の恐ろしさに思わず身震いするが、しかしこれは別段やましいものでもない。
「お見合いの写真だよ」
振り返りそう言った提督は、次の瞬間肩をがっしりとつかまれていた。顔をあげると加賀の必死な形相が、視界一杯に広がる。
そこの段になって、ようやく言葉が足りていないことに彼は気が付いたのだった。
慌てて口を開いたが、それより先に張り詰められた声が部屋に響いた。
「お見合い!? あなた結婚するの!?」
捨て去られる直前の子犬のような表情に、提督は一瞬呆然としてしまった。
彼女の瞳が潤みだすとようやく我に帰る事が出来、不謹慎ながらそのあまりの必死さに噴出してしまうのだった。
態度に文句を重ねようとした加賀を遮り、すぐに補足を入れてやる。
「実家が勝手に送りつけるのさ。俺にそんな願望あるわけ無いだろ」
一瞬の間の後、言葉の処理が追いつくや口からはほうと息が吐かれた。
力が抜けたのかぺたんと地面に腰が落とされ、提督はそんな彼女の頭を丁寧に撫でる。
恨めしそうな視線を受け止めながら、提督は加賀の発露した依存性に内心酷く驚いていた。
自身のしている普段の行動は、決して褒められたものではないという自覚はあったが、
それでもこうしてその影響を見せ付けられると複雑な思いを抱いてしまう。
彼女の持つ独占欲を自分勝手に押さえつけ、その結果の変化であるのだから当然受け入れる覚悟はあった。
もとより、この鎮守府から離れるつもりなど一片もないのだから、何か気を新たにする必要も無い。
「こういう写真は良いように見える角度から撮ってあるんだ」
視線を合わせ、微笑み言う。首を傾げる加賀を他所に、提督は言葉を続けた。
「俺には、加賀の方が可愛く思える」
余りにもな台詞を吐いたものだと、言った後から後悔の念が沸いてくる。
しかし、相手の顔を見れば、そんな羞恥も消え去るのであった。
加賀はそれを聞いた途端、茹蛸のように顔を赤くし視線を背けていた。
「馬鹿」
小声呟かれる言葉にどうしようもない愛おしさを感じる。
それが成就し得ないものだと分かっていても、感情は流れを留めてくれない。
それを意識しないようにするのには慣れていて、それは自衛のために必要なことだった。
引いたボーダーを守るためには、好意から目を背けるしかなかったのだ。
そしてそれを達成する具体的な方法も、いままでの経験から発見できていた。
提督は加賀の背中に腕を回した。抱き寄せ体を密着させると、彼女の匂いがにわかに香る。
嗅ぎなれた、しかし飽きることのないいい匂いであった。
「今晩は、ここに泊まっていくかい?」
加賀がわざわざ寒い思いをしてここに戻ってきた、その理由を知った上での発言だった。
つまり質問ではなく願望の発露なのであって、しかも答えを知った上での卑怯な問いかけなのだ。
果たして、彼女はこくんと頷き上気した顔を上げた。潤んだ瞳が瞼に隠れ、提督はそっと唇を重ねる。
恋愛感情を隠すのにセックスを用いるという背反した行動は、しかし提督には効果があった。
我慢を押し通すほど強い意思が保てないために、こうして発散をする。
屑なことをしていると自己嫌悪に苛まれ、しかしそういった罪悪感さえ快楽なのだった。
お互いに慣れた深いキスは、そうして重ねてきた罪を証明していた。
毛布が肩口からずり落ちて、床にくしゃっとまとまった。提督はそれを広げると、その上に加賀を押し倒す。
寝具に移動するのかと思っていた彼女は、目を白黒させながら覆いかぶさる提督に抗議の声を上げた。
「せ、せめてベッドに……。お願い」
「暖炉の近くの方が暖かい」
「そうじゃなくて……恥ずかしいわよ」
寝巻き浴衣の襟を広げようとする手を、加賀は必死に押さえ込む。
その抵抗は彼にとってはむしろ逆効果で、ますます興奮を促すのであった。

彼は顔を寄せたかと思うと、加賀の耳にキスをした。突然の刺激に悲鳴が上がり、しかし追撃の手は緩めない。
丹念に舐め上げ嬲っていくとますます声は大きくなり、ついに彼女は片方の手を口へとあてがったのだった。
すかさず寝巻きははだけられた。下着は無く彼女の白い滑らかな肌は、暖炉の火と蛍光灯の明かりの元に晒される。
柔らかな乳房はそれ自身の重さで平たく潰れ、その様子は酷く濃艶だった。加賀は顔を背け、慌てて腕で胸を隠す。
ショーツは穿かれていたので、提督はそれにも手をかけた。
全裸にさせてしまおうという魂胆はすかさず彼女にも看破され、思った以上の抵抗がなされた。
しかし片腕での反撃がそう長く持つわけは無く、しばらくのもつれ合いの末ついに決着はついたのだった。
生まれたままの姿にさせ、提督はそれを俯瞰して見たくて上体を起こした。
加賀は体を横にくねらせながら、右手で顔を、左手で胸から陰部までを隠していた。
その扇情的な姿は加虐心を煽り、思わず口元には笑みが浮かんでしまう。
まずは、顔の隠された手を退かすことにした。手首を掴み引っ張って、顔のすぐ横に押さえつける。
彼女を見ると頬は赤く瞳は潤み、しかし目つきは怒りのそれであった。
凄まれるように睨まれて、申し訳ない気持ちが沸きもするが欠片も引く気にはならなかった。
体を隠す腕も退かしてしまおうと、提督は自身のポジションを少し下へとずらした。
手首を掴み持ち上げようとするが、これでもかと力が入っており簡単には動かない。
まるで石になったかのように、突っ張った腕は強固だった。
俄然強い意志を持った瞳を見、彼は作戦を変えることにした。拘束していた方の腕を解き、馬乗りになったまま見下ろす。
優越感が覗き見える加賀の表情は、しかし次の言葉を聞いた瞬間に崩された。
「ここでやめるか?」
それは予想だにしていなかった言葉だった。彼女の口からは息が漏れ、目は驚きに見開かれる。
提督は腰を上げ、愛おしい重量は消え去った。
「な、なんで……」
「俺だって、嫌がることはしたくない。抵抗しているのを無理やりだなんて気が進まないよ」
張り付いた笑顔から、その言葉が真っ赤な嘘であることは容易に分かった。
しかし提督はついに立ち上がると、一歩二歩と後ろに下がってしまう。
彼の体温の残滓はひどく切なく、加賀の心中には多大な不安感をもたらした。
「待って!」
我慢できるわけもなく、叫ぶように彼女は言った。提督は何も言わずにただ眺めているだけだ。
それは指示なく、自分から全てやれという命令だった。
加賀はおずおずと腕をどかした。寝そべった彼女の裸体は、ついに全てが露出されたのである。
羞恥に堪らず目を伏せて、しかしいつまで経っても期待した体温は感じられない。
提督は依然として、その綺麗な肌を立って眺めるだけであった。
沸騰した頭では何が駄目なのか、彼が何を期待しているのかも分からず、ただ不安だけが増大していく。
見下ろされるだけの寂しさは、ついに彼女の限界を超えて涙を競り上がらせる。
「お願い……来て」
涙声による懇願に思わず足が動きそうになったのを、提督は何とか押さえ込んだ。
本当はこの先まで一人でと思っていたが、流石にそこまで察せられるわけはなかったようだ。
彼は加賀に近づき、すぐ横にしゃがみこんだ。
「自慰をするんだ」
潤んだ瞳が、ゆっくりと提督の顔に向いた。頭を撫で口調は優しく、しかし命令は鬼畜なものである。
彼女は首を横に振るが、当然それは受け入れられない。
「なら、終わりにするか?」
加賀の喉が動いたのが、いやに艶美だと感じられた。許してと口から漏れ出した声は、完全に無視をされる。
彼女はぎゅっと目をつぶり、目尻に溜まっていた涙が頬を伝い落ちていった。


葛藤に決着がついたのか、彼女は一回深く呼吸をすると、意を決して陰部に自身の指を持っていく。
陰唇がなぞられると、肩がぴくんと跳ね上がった。
声が上がらないよう必死に口を噤む表情は、それはそれで官能的ではあったのだが、提督はもっと淫らによがる彼女を見たかった。
普段取り乱さない彼女の痴態は、恐ろしく魅力的だろうと思ったのである。
何とか命令という形は取らず自発的にそうなるようにさせたいと、そう考えを廻らすとある一つのアイデアが浮かび出た。
それは特に何か大掛かりなことをするわけではなかった。
ただたまに彼女が我慢できず小さく嬌声を漏らすと、そのたびそれを褒めるかのように口付けをしてやるだけであった。
或いは、胸の膨らみをなぞってやったり、そういった焦らされている状態をほんの少しだけ緩和してやる。
四、五回もそういう刺激を与えてやれば、効果は目に見える形で現れ始める。
知らず知らずのうちに彼女はより大きく声を上げ始め、快楽を貪ることへの抵抗がみるみる減っていったようだった。
「随分大胆になったな」
そう言って羞恥を煽ることも忘れない。言わないでと喘ぎ声交じりに言葉が漏れ出して、その表情たるや艶麗の極みであった。
言動と行動は最早一致せず、悔しさの溢れる顔はしかし、多大な興奮の元蕩けきっていた。
限界は意外なほど早く訪れた。駄目駄目と連呼しつつも指は激しさを増していって、そんな状態で我慢などできるわけもなかった。
加賀は一瞬体を強張らせたかと思うと、次の瞬間にはびくびくと小刻みに体を震わした。
大きな声が部屋に響く。外の暴風の騒音がなければ、廊下にまで鳴り渡ったのかもしれないほどの声量だった。
しかし肩で息をする彼女に、もうそんなことを意識する余裕はなかったのだ。
「提督ぅ……」
弛緩した顔がゆったりと彼の方を向く。あられもない甘えたような声音は、初めて聞いたものであった。
思わず背筋がぞくり鳥肌立つのが、いやに生々しく感じられた。
提督は無遠慮に彼女に覆いかぶさった。ようやく得られた、望んでいた温かみ。
その歓喜を感じつつ、しかしだからこそ満足はできなかった。更なる快楽を、深い悦を求めて彼女の肉壷は愛液を滴らせた。



一体何回まぐわったのか。最早記憶には無かった。
翌日寝具の中で目覚めた提督は、自分がぽつねんと一人で横になっていることに気が付いた。
ベッドの右手側、やけに開いたスペースにはまだ体温の残滓があり、そしてそこには彼女の匂いが、かすかにまだ残っている気もした。
だが執務室に人影は無く、随分と物寂しい印象を抱く。
実はこの部屋に艦娘を泊めるのは、鎮守府内の規定で禁止させられていた。真面目な彼女のことである。
恐らくはそれが露見しないうちに、一人で部屋に帰っていったということらしかった。
時計を見ると、起床時刻まではまだ大分余裕がある。
しかし二度寝をしようと瞼を閉じても、温もりへの侘しさが睡眠を猛烈に邪魔したのであった。
彼はひたすら彼女の残り香を嗅ぎつつ、何故か溢れだしてくる涙を枕にこすり付けていた。



朝食時、提督は今日の任務について艦娘全員に指令をだした。
即ち、遠征を含む全ての出撃の中止及び鎮守府を総動員しての雪かきのことについてである。
記録的な大雪によって、普段見えている事が当然と思われていたアスファルトは全て白に覆われていた。
提督は窓越しにしかそれを確認しなかったが、恐らくは屋根にもずっしりと積もったはずである。
雪なんか滅多に降らないこの地方では、その光景はかなり異様なものであった。
慣れない作業になるから気を付けるようにと、最後忠告する前に既に駆逐艦のほとんどは姦しい歓声を上げていた。
まるで小学校の体育が例外的に雪合戦になったかのような、提督にはそんな光景に思えたのだ。
彼女達は普段より大分早く皿を片付けると、駆け足で外に飛び出していった。
駆逐艦他、幼い艦娘は地面を、はしゃぐこともない大人達は屋根を担当した。
提督はと言うと一番危なっかしい場所あたり、具体的には港の岸壁を見守りながら、時折手開きになると付近を除雪していた。
それは一見楽な仕事にも思えるが、実際はかなり神経を使うものであった。
かき集められた雪が排水溝を詰まらせると、もう後は海に捨てるしかないのである。
大はしゃぎな彼女達に注意をしても馬耳東風なのは当然であるから、
艦娘が海に近づくたび落っこちやしないかと心拍を上げ続ける羽目になるのだ。
後半になってくると提督は実質的に、最後集められた雪を海に投入する係りになったのであった。
天気に恵まれ、雪質は柔らかかった。作業は滞りなく進み、明四ツ過ぎには全体の六割ほどの雪を掻きだし終えていた。
そのあたりになってくると、提督は眩暈にも似た気持ち悪さを腹の底に感じるようになっていた。
月月火水木金金、休みなく働いていた彼にとってこの肉体労働はたしかに酷であったのだ。
デスクワークを飽きるほどに続けた後の外仕事というギャップは、何やら頭に負担を強いるらしく、
それでも駆逐艦に危険を冒させるわけにはいかないために頭痛は我慢するしかない。
作業のほとんどが終わった頃合、執務室の暖炉を恋しく思う提督に突如声がかかった。
「提督! こっち向いて!」
おそらくそれは雷のものであった。声のした方向には背中を向けて、彼は目下の海に雪を廃棄している。
声音にはいたずら心が多分に入っていた訳であったが、しかしそういった危機感が完全に消失するほど、
今の提督は何も考える事ができないでいた。
ゆったり振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた第六駆逐隊が、雪玉を抱きながら横一列に並んでいる。
彼女らの腕が振りあがり雪礫が一直線に向かってくる段になって、ようやく提督は状況と、彼女らのしたい事が理解できたのであった。
投げられた雪は右肩と腹の他、顔面にも見事にヒットした。
覆われた視界にバランスが思った以上に崩れ、彼は思わず背から転倒してしまう。
雪の隙間から、青い空がくるりと回転し、気がつくと背中に衝撃があったのだった。
雪を投げた張本人達から可愛く悲鳴が上がるのを、提督は苦笑しながら聞いていた。
しかしその悲鳴は決してオーバーなものではなかったのだと、数瞬後には身に染みて理解することになる。
背中に衝撃を感じた後、何故か更に浮遊感があった。景色が空どころか、更に反転して海さえ視界に入ってしまう。
自身が真っ逆さまになっているのだと本能的に気が付けはしたが、しかしその理由まで瞬時には分からなかった。
頭上がキンと冷たくなり、そこでようやく自身がアスファルトの淵から海へ転落しようとしていることに彼は気が付いたのだった。
瞬時に全身が鳥肌立ち、痛いほどの冷たさが容赦なく彼を包み込んだ。
息を止め目を瞑り、着水の柔らかさの中遮二無二もがき続ける。最早彼にできる事はそれだけであったのだ。



救出された直後のことを、提督はよく覚えていなかった。
海に落ちた次の瞬間には自分は熱い風呂に浸かっていて、やたらに震える体を何とか温めているという、そんな場面に繋がるのだ。
きっとずぶ濡れのまま脱衣所まで歩いてきたはずなのだが、そういった記憶は皆無だった。
頭痛は更に酷くなっていた。気持ち悪さも相変わらずだった。そこに止まらぬ震えが加わって、体の具合は最悪である。
しかし思い起こせばここ最近、体の調子がいい日というのを体感した覚えはない。
倦怠感や疲労感との付き合いが始まったのは、もうかなり昔のことだった。
口から零れだす咳はやたらに喉を痛めつけ、虚弱な体質を心の底から恨めしく思う。
震えが少しはましになると、提督は重い腰を何とか上げた。手早く体を拭いた後、脱衣所に戻り用意された服を着る。
そこにはいつもの軍服ではなく寝巻きが置かれてあって、しかも温かな半纏まで鎮座していた。
全て着込むと湯の熱が、体に閉じ込められるようでもある。
ふらつく足で執務室まで戻り何とか扉を開けてみると、そこには予想通りな、しかしそれでも気まずい空気が重く漂っていた。
まず目に飛び込んできたのは、床に正座させられた第六駆逐隊の背中であった。
肩の震えから全員が泣いているのであろうことは容易に想像することができて、とくに暁は最早痙攣の域である。
ごめんなさいと連呼される、その空虚な響きは何とも痛ましく、聞いてられない悲痛さであった。
そして正面、いつになく険しい表情の加賀は鬼の風格を醸し出している。
一睨みされただけで、何も悪いことをしていなくとも即刻謝る気になるほどの、そんな凄みが発せられていた。
「戻ったよ」
提督はなんとかそう声を出す。一斉に振り返る駆逐隊の面々、その表情はメシアを見るそれであった。
彼は近づきひとりひとりの頭を撫でようとして、しかし鋭い底冷えする声音がそれをぴたりと制した。
「待ってください。まだ説教が終わっていません」
一瞬で絶望の表情へと切り替わった彼女らに、思わず笑みも浮かんでしまう。
提督は仲裁の役目を買って出て、加賀を嗜めることにした。
「もういいよ。充分反省しているだろう。これ以上は流石に可哀想だ」
「下手すればあなたを殺していたのかもしれません。反省だとか、そういった甘さで許される話ではないわ」
「許してやってくれ。頼むよ。ほら、一応俺は生きているんだから」
よしよしと四人の頭を撫でてやれば、彼女はばつの悪そうな顔をしてぎゅっと口を噤むのだった。
しばらくの沈黙の後、加賀は失礼しますと小声で言って、執務室をあとにした。
彼女が消え去った途端、体は四人の体温に一斉に纏われた。
口々にごめんなさいという言葉が発せられて、次第にそれは嗚咽の泣き声に変わっていく。
鉛のような頭を何とか持ち上げ、彼はずっとその場に立っていた。



風邪をひいたらしかった。
それは予想の範疇の出来事であったのだが、しかし医師の所見によるとそれ自体が問題なのではないらしい。
最初その言葉の意味を提督は理解できていなかったのだが、
時が経つにつれて段々と、その含みの部分が否応なく自覚されるのであった。
一日寝込むと具合は少しは良くなって、熱も微熱といえるぐらいには下がったために、提督は仕事に復帰した。
加賀はまだ寝ているよう進言したのだが、それを聞き入れてやるのは不可能だった。
というのも、たった一日空けただけで、鎮守府全体の仕事のルーティンに歪が生じていたのである。
提督という職が統括という任務を負っている以上、それは仕方のないことであった。
何をするにしても、提督が不在なのではどうしようもなくなってしまうのだ。
万全とは言えない体調で、しかしそれはここ最近の普通であったから辛さを我慢することにも慣れていた。
ふらふらになり倒れてしまうというほど重篤な症状はなかったし、仕事の内容も肉体との戦いと言うよりは精神的な、
自分との戦いであったから何とかこなす事ができたのだ。微熱と倦怠感に纏われ続けながら、提督は毎日粛々と仕事を続けていった。
風邪の発症から一ヶ月が経っても、まったく微塵もそれが治る気配は感じられなかった。
別段それくらいどうでもいいと思っていた提督を他所に、
加賀はかなり心配をしてその感情は乾いた咳の咽る音が聞こえるたびにどんどんと増大していった。
いつか倒れてしまうのではないかという彼女の不安は、彼を側で見続けた者なら誰しも思うことであった。
そしてよりにもよって、その不安は記念すべき西方海域完全攻略の日に的中することになる。



医務室の天井、蛍光灯の明かりを見ながら、提督は医師から状況の説明を受けていた。
なんでも、そもそも朝から青白い顔が目立っていたと、加賀は言っていたらしかったのだ。
帰投した第一艦隊はその戦果を嬉々として報告しようと執務室の扉を開け、そこで机に突っ伏していた提督を発見した。
鎮守府は全体が騒然となり、艦娘が騒がないようにするのにはだいぶ労をとったという。
医務室に担ぎ込まれたのは二時間前。所見は過労。結核や白血病の疑いは低い。
治す方法はここを辞めることだと、医師は淡々と話していた。
とりあえず動けるようになるまでは、ずっと横になっていた。
これからのことを考えようとしても、頭には靄がかかっていて中々思考は捗らない。
思い浮かんだ考えは、全て頭頂部からだばだばと漏れ出しているかのようでもある。
結局立ち上がることができるようになるまでに、靄が晴れることは無かった。
重い体を引きずり、執務室へ向かう。目の前に立ちはだかったどうしようもない現実は、だが自身で予見していたものでもあったのだ。
今の生活が長く続くわけはなく、後に残されたのは弱った身体と、断ち切らなければならない絆の数々であった。
階段を昇り、上がった息を整えながらよたよた廊下を進んでゆく。
ぼやけた視界には赤い絨毯と白の壁しか映っておらず、
もしかしたらこのまま永遠に執務室にはたどり着けないのではないかと思えるほど、その光景は長大なものであった。
ようやくある程度まで歩き終えると、執務室の前、セーラー服の艦娘が壁に背を付け立っているのが目に入った。
手元には大きな茶封筒が、とても大事そうに抱えられている。
提督はすぐ近くにまで寄ってからその艦娘、雷に声を掛けた。

「俺を待ってたのか?」
雷はその言葉を聞くと、顔をゆったりと彼の方へ向けた。その表情は悲壮に歪み、目には涙が湛えられている。
彼女は手元の茶封筒を差し出した。
「さっきここに届いた書類よ。加賀さんの目に付く前に渡さなきゃと思ったの」
受け取り、意外な重みを腕に感じる。既に封は切られてあって、恐らくは雷が先に目を通したのであろう。
それは彼女がこの書類から嫌な予感を感じたということであって、そしてそれは提督とて同じである。
中の書類に一通り目を通す。予感が的中していることは、雷の表情から確定的だった。
それでも俄かには信じられない、信じたくないという気持ちが先行していたために、
書いてある内容は非常にショッキングなものであったのだ。
「随分と、まぁ……」
提督は、ようやくそう一言声を発する事ができた。書面に書いてあったその人事は、客観視するならば非常に都合が良い。
感情のこと、この鎮守府内の関係を除けばすばらしい案でもある。
重病の為空いてしまった海軍兵学校の校長職に、この鎮守府の提督が補される。つまりはそういうことであった。
それは西方海域攻略の労をねぎらうものであり、そして過労という病気を治すためのものでもある。
逆らうには健康が余りに足りていないということを、彼は自覚していた。
ここに残り、今後もいつも通りに仕事がこなせるという確たるものを見せなければ、この人事は取り下げられないであろう。
提督職の終端が、今ついに訪れたのであった。
「……すまない」
不甲斐なさに唇を噛み、拳を握りしめながら、提督はそう口から漏らした。
雷は彼の肩に手を置くと、そのままゆったり体重を掛ける。
そうして膝が折れ、背の低くなった提督の頭は彼女の胸へと導かれたのであった。
髪が細い指に梳かれ、何も言わずにただいつも通りに抱きしめてくれる。
提督は腹の内から漏れ出そうとする嗚咽を、我慢する事ができなかった。
シンとした廊下にそれは小さく響き、そしていつしか泣き声は二つに増えていたのである。
互いの体温を感じながら感情は声と涙になり、そううしてそれは途切れることなくいつまでも漏れ出していた。



人事のことについては、天龍と不知火には心持軽く話す事ができた。
それはこの二人と体を重ねたのは、恋愛的感情の発露からではなかったからだ。
あらゆる欲求の不満を解消するために、その捌け口として夜伽という手段を選んだだけであったので、ショックも少なかったのである。
それでも告白したときには、二人は悲しんでくれたのであった。
それを嬉しく思う反面罪悪感も生じる訳だが、それさえ彼女達は慰めてくれた。
いつか訪れるはずの事が今来てしまっただけだと、そう言って納得を得るしかない。
割り切るという痛みは、しかし受け入れ耐え忍ぶしかないものだった。
問題は、加賀であった。依存性、そして恋愛感情のことから、もっとも気を遣わなければならないということは理解していた。
この話をどう切り出すべきか、迷いに迷い頭を捻り、しかし何時まで経っても解答は得られない。
提督は自身のしてきた罪の重さを、再認識する羽目になっていた。
結局機会を待ちに待ち、ようやく切り出したのは鎮守府を去る一週間前であった。
その日の夕方、時間がないために後は正直にただ言うしかないと、そういう諦観を持って彼は加賀を執務室に呼び出したのであった。
窓から差し込む夕日の光を受け、彼女はただ目の前に突っ立ている。
彼女が出頭してからというもの沈黙は長く続き、二人とも何も言葉を発せていない。
痛いほどの静寂が、掌に感じる汗の滑りが、物憂げな表情が、全てが提督には辛く思えた。
「少し、大事な話がある」
深呼吸の後、彼はぽつり何とかそう言う事ができた。加賀は細められた目を逸らし、掌をぎゅっと握りこむ。
彼女とて、およそ話の内容に察しはついていた。だが自身の矜持が、それを容認することを拒むのだ。
もしかしたらという期待を捨てることはできず、勝手な妄想は確固たる意思を持って、彼女の脳内にへばりついている。
「実は、ここを辞することになった」
とうとうそれを口に出すと、不気味な静寂が再び部屋を支配する。
一体どれほどそのままであったのか、提督にはもう分からなかった。もう彼にできる事は待つ事だけであったのだ。
そしてたとえ何と言われようとも、結末はたった一つである。これほど悲しいこともないと、自嘲気味に思い続けていた。
一方、ただじっと同じ体勢で立ち続ける加賀は、様々な思考の果てについに口を開く決心をした。
それが受け入れられる可能性がゼロであったとしても、それでも自身の感情に背くことはできなかった。
そういった覚悟の上、静かにその言葉を言う。
「許しません」
聞くや、提督の目は見開かれた。彼女はそれを眺め、畳み込むように続けた。
「仕事は全部私がします。だからあなたはずっとここにいて。ここを去るなんて、絶対許しません」
何か言うたび、加賀の瞳は激情の色を濃くしていった。心中の思いが轟々と煮えているのが、外見からでも分かってしまう。
それは怒りというには余りに悲痛な代物であった。
「悪いが、これは既に決定してしまったことだ。今更どうしようもない」
提督はあえて非情に言い放つ。言いたくない台詞ではあったが、これは無理にでも納得してもらうしかないのだ。
だがそれは、燻り燃えていた感情に油を注ぐこととなってしまった。
加賀は一瞬、大仰に息を吸ったかと思うと怒りのままにそれを叫んだ。
「ふざけないで!」
突然の怒号は窓ガラスをびりびりと震わせた。
加賀は顔を赤くし、口をわなわなと震わせながら提督を睨んでいる。
提督は心拍が上がったことを悟られないように、まったく動じず座っていた。
「今更あなたと別れるなんて、私無理だわ!お願い、ここにいて。なんでもするからここにいてください」
「お前だって、いつかはこういう日が来ることくらい知っていただろう。俺のしてきた勝手は謝る。だが、命令だ。納得しろ」
「嫌です!」

加賀の瞳から、涙が零れ落ちた。一滴が頬を伝うと、堰を切ったかのようにそれは次々あふれ出す。
彼女は嗚咽を堪えながら、何回も嫌ですと繰り返していた。
「提督は、私のことを忘れてしまいます」
喘ぎ喘ぎ、手で目元を隠しながら彼女はそう口にした。
提督はその意味が、加賀が一体何を恐れているのか、その本心が掴めないでいたのだ。
あるいはそれを知られていたからこそ、より一層彼女を傷つけていたのかもしれない。
「そんなことはない」
「いいえ! 絶対忘れるわ。そしていつかは別の人と結ばれて、私を記憶の隅に追いやって、勝手に幸せに暮らします」
「俺は結婚する気はないし、もう二度と女は抱かない。君達が最後だ」
「嘘よ!」
これが依存性の発露だと気が付いたのは、頭に上った熱が引いてからであった。
喚く彼女を窘めたくて、しかし本心を吐露してもまったく信じてはくれない。それは酷く口惜しく物悲しいことであった。
「……証明して」
泣き声が収まってから、彼女は静かに言った。
「他の人とは結ばれないというなら、証明して。でないと私、許すことなんてできないわ」
沈黙。提督は必死に頭を絞ったが、それに答える事はできなかった。
しばらく経つと加賀は踵を返し、嗚咽を漏らしながら歩き出してしまう。
それを引き止める事はできず、ただその背中を見続けていることしか彼にはできなかった。



愛の証明について。彼は机の前に座ったまま、ずっそれを考えていた。
彼女が納得を得られないまま逃げるようにここを去るのだけは、矜持が許しはしなかった。
そのために払える犠牲があるなら何だって甘んじて受け入れる覚悟を、彼は確かに持っている。
しかしその具体的方法は、一向に頭に浮かんでくれない。
日が沈み部屋は暗くなり、そういった環境が少しはいい方向に働きかけたのか、提督の頭にはある一つの小説が思い起こされた。
ずっと昔に読んだことのあるその掌編には、今の彼らと同じく破滅の途上にある二人の関係の、その終端が描かれていた。
そしてそこに至る前に行われた、証明をする方法の克明な描写が、提督の頭には思い出されていたのだ。
いや、それはその小説に描かれる前より、ずっと昔から人々がやってきた事なのだ。
一種の残虐性の上に立つその方法は、しかし確かに確実だった。
迷っている時間は無かった。他に方法を発見できる気もしなかった。提督は意を決すと暗闇の部屋の中、物置に向かって歩き出す。
擾々とした物置の隅、目的のものは小さく、しかし存在感を持って鎮座していた。黒光りする鞘に侘しい装飾のついた柄。
一振りの軍刀はここに着任した際に、その記念に受領したものである。
提督はそれを引っ張り出し、しかしそれだけでは余りに準備不足であったから、更に必要なものを捜していく。
誰にも理解されないことなのかもしれなかった。しかしそれでもいいと、彼は本心から思っていた。
それは彼にとってどうしてもやらなくてはならない事であるし、最早自身の満足を得るには、罪を罰する痛みしかなかったのだ。
馴染みの机の上には、物騒な代物が並んでいた。
軍刀、小刀。アルコールランプとマッチ。清潔な布巾がざっと十枚。医務室に忍び込んで、こっそりと盗み出した止血剤。
ぼんやりと熱を持った頭でゆっくりと深呼吸すると、ただ目的を達成するという意思だけが前面に現れたようだった。
提督は布巾の束から一枚を口に咥えると、軍刀の柄をゆっくりと握りこむ。
鞘から刀身を抜き放ち、火の着いたアルコールランプにそれをかざす。熱消毒の終わった刃は、月光を青白く反射していた。
二、三枚の布巾を机の上に置き、提督は人差し指から小指までを更にその上に置いた。
親指は机を挟み込むように下にあって、ぎゅっと力を加えている。
歯を食いしばり意外なほど冷静な思考を持って、刀を大きく振り上げる。

狙いは第一関節と第二間接の間であった。そこを斜め一直線に、四本全てを切り落とす意図である。
四人を抱いたのだから、一本では足りないはずであった。
短く息を吐き、まるで鉈を扱うかのように振り下ろした軍刀は、指の三分の一ほどを切り込むとそこで停止してしまった。
意外なほど痛みはなかった。刃と指との隙間からは真っ赤な血が漏れ出し始めている。
そのグロテスクな光景とは裏腹に、本当に何も感じられなかったのだ。
そしてそれはほんの少しあった後悔の気持ちを、完全に消失させたのであった。
包丁で堅い大根でも断ち切るかのように、彼はぎゅっと軍刀を押し込む。
刃は肉と骨とを断ち割り進み、そしてついに指先は四個のただの肉塊となった。
断面からは、想像以上に血が噴き出していた。提督は残る全ての布巾で、傷を強く押さえ続ける。
何時間かずっとこのままでいれば、いつかはどうにかなるはずだ。
これは個人で解決しなくてはならない問題であるから、医務室に行く気など欠片もなかった。
やり遂げたという充足感。だが血が抜けたためか、心の隅で急に自嘲の念も沸き始める。
自分ができる精一杯が、たかだかこの程度の女々しい芸者の心中立ての真似事だという現実は、歯がゆい思いを伴っていた。
じくじくと今更になって痛み出す指は、ひどく恨めしかったのだ。
どれほど時が過ぎたか、突如扉がゆっくり開いた。反射的に見た時計の時刻は、既に夜中といえるものであった。
訪問者が誰であるのかそこから予想はすぐに着き、そしてそれは今一番出会いたくない人でも会ったのだった。
加賀は薄暗い部屋の中、血生臭い匂いにただならない異常を感じ取っていた。
机の上の物騒な品の数々は、一歩部屋に入れば全て見て取れて、
この部屋に訪れた目的である謝罪だとかそんなことは一切まったく頭から消失した。
「何を……しているの」
呆然と言ったそれに、答える声はない。
早足で机に近づいた彼女は、真っ赤な布巾の数々と、血が抜けて真っ白になった指先をついに見つけたのであった。
愕然とした表情の加賀を見て、提督は何と言葉をかければいいのかまったく分からないでいた。
とりあえず気にしないでくれと言おうとして、しかしそれは加賀の叫びが遮った。
「何をしているの!?」
顔を上げると、彼女の瞳からはぼろぼろと涙が零れ落ちていた。
それを拭おうとして、だが自分の手は血まみれであった事が思い出され、どうしようもなくなってしまう。
そんなことをして欲しかったわけじゃないと、そう呟かれる言葉に提督は、それは違うと思ってしまう。
これは自分がやりたくてやったことであるから、加賀が泣くことはないはずなのだ。
やるせなさが心を締め付け、指の痛みなんかよりも、よっぽどそれが辛かった。
「早く、医務室に行きましょう! 早く!」
加賀ははっと何かに気がついたかのように、そう提督を急かし始めた。だが、それは拒否しなくてはならないことである。
自分が最後までやらなくてはならないことだと、そう何度も説明しても、彼女は首を縦には振らなかった。
いつしか提督の意識は薄れ始めていた。失血か、それとも過労の風邪がぶり返したのか。
最早判別はつかず、それでも彼女を思う気持ちだけは確かであった。
「加賀、愛している」
何とか口にできたこの言葉は、彼女の胸を静かに打った。



バッグを抱え外套を着込み、提督はこざっぱりとしてしまった執務室を出た。
馴染みの装飾品は最早無く、それはとても悲しい光景だった。
戸を開けてすぐの所には、雷が立っていた。彼女は提督が現れた瞬間、その体に突撃するように抱きついた。
提督は彼女の頭を撫でた。最後になる髪の感触に愛おしさを覚えながら、体温と匂いを記憶に刻む。
お互いに涙が出ないのは、既に涙腺を枯らしたからだ。
しばらく経って、雷はおずおずと提督から離れた。言葉は無く、真摯な視線だけで充分だった。
踵を返し歩き始めた彼の背中を、いつまでも見つめる。彼女もそれで満足だったのだ。
鎮守府の出入り口には不知火と天龍がいた。
廊下の端からこの二人が話している様子は見てとれて、そして提督にとってそれは初めて目にする光景でもあった。
今更ではあったが、それは暖かい気持ちにさせるものである。手を振ると、二人仲良くそれに応えてくれた。
抱擁を済ませ、キスもする。柔らかな感触は名残惜しく、それでもお互いに一回きりだ。
彼女らも言葉なく、黙って見送ってくれたのであった。
あの夜以来、加賀とは口を聞けていなかった。
彼女は自身の部屋に篭ってしまい、視線を合わせさるような機会さえ無かったのである。
そしてそれは仕方の無いことだと、提督は思っていた。愛おしい彼女の面影を思い浮かべながら、いつかは立ち直って欲しいと願う。
そしてその役目は自分には無く、後継の提督の任務なのだと、彼自身一番に理解していた。
迎えの車に乗り込んで、鎮守府には一瞥もくれずただただそこを去っていった。胸に空いた空虚な穴は、その暗がりを広めるだけだ。
「体の具合が良くなったら、またここに戻ってくるのですかな?」
気さくな運転手がそう声を掛ける。提督は静かに首を横に振った。
「ここの潮風に当たると、無くした指が痛むのです」
車は加速し、いつしか鎮守府は見えなくなる。アスファルトの隙間からは、気の早い蒲公英が顔を覗かせていた。

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最終更新:2013年11月28日 22:03